第3回
「おい、どうしー……えええっ? まさか、佳織ちゃんっ?」
硬直してしまっている俺の脇から覗きこんできた和彦まで、叫んだあと言葉を失ってしまう。
嘘だろ?
一瞬で噴き出した冷汗とともにそんな言葉が頭中に轡き渡り、だだ呆然と立ち尽くす。
俺たちが何も言わないのにじれてか、彼女は俺の腕の下をくぐって地面にすっくと立ち上がるや、
「私は志尾コンツェルン会長・志尾 隆蔵の娘で、志尾 佳織と申します。
母と2人で高田の養老院を慰問しました帰り、この者たちの手によって拉致されてしまいましたの。電話をかけるためと滅速した隙をついて、なんとか逃れようとしましたものの、あなた方が通りかからねばどうなっていたことか……。
心より感謝申しあげます。ありがとうございました」
などと、いかにもこういう手合いに陥ったとき用に前もって作って暗記しておきました、といったような決まり文句を淡々と告げてきた。
その声に、さっきのような取り乱した震えは微塵もない。
ついさっきまで、その自分の言う誘拐犯2人組に捕まってたというのに。
「慣れてるんだな」
その姿についつい意地悪心が動いた。
「おまっ、失礼だぞっ」
脇からこそこそ肘打ちしてくる和彦は無視して、佳織の返事を待つ。
彼女は乱れた髪に気付いて指を櫛がわりに硫きまとめながら、特に気を害したようでもなく、俺の辛ロに素っ気なくこう返してきた。
「ええ。この程度のことでいちいち心を動かされていたら、とても持ちませんわ。
ただ、今回は上手に警備の隙を突かれましたので、その点では驚きましたけれど……」
さーっと雲の切れ間からようやく姿を現した月が、道いっぱいに強い月光を投げかけてくる。
月の光の下、初めてまともに俺を見て、ほんの一瞬だが、彼女は息を詰めた――ような気がした。
どうやら表情を読まれないよう努めることを教わっているらしい。上流階級という世界で育った者としては当然の護身術かも知れないが、一般庶民の俺としては、すぐ元に戻った無表情・無感情な顔と声にむっとくる。
誘拐されて、命も危なかったかもしれない状況から助けてくれた相手すら、そうやって猜疑心で警戒するわけか。
自意識過剰はひどくいけ好かない。
「じゃあ俺たちはこれで」
深入りしないほうが良さそうだ。
そう判断し、早々に切り上げるべく道に放り出してあったスクールバッグを取りに戻ろうとする。が。
「お待ちください。このままお別れしては礼儀に反します。すぐ迎えを来させますので、どうかご一絡においでください。助けていただいたお礼をぜひさせていただきたいのです。
あの……」
それから先を言い淀む、彼女が一体何に困っているのか気付いた和彦が、さっと俺たちの間に割りこんできた。
「僕は高槻 和彦。でこいつが――」
「高槻だ!」
お調子者に余計なことを言われる前に、先を奪ってぴしゃりと言った。
まったく、余計なことをペラペラと!
こういった相手に名前なんか教えたら、ますます面倒なことになるじゃないか。もう少し考えて、それからロ開け! しまりのゆるい、このおしゃべりがっ。
先の荒げた声と叩きつけるような睨みにさすがのこいつでも俺の言いたいことは悟れてか、和彦は思わず後退し、佳織は小首を傾げた。
「高槻、何とおっしゃいますの?」
「……あ。名前で呼ばれるの嫌ってるんだ、こいつ。こいつのこと高槻って呼ぶなら、僕は和彦って呼んでね。両方とも高槻じゃまぎらわしいでしょ?」
……悟るには悟れたらしいが、その上でちゃっかり売りこんでやがる。頭痛くなってきた。
黙ってうずき始めたこめかみを押さえる俺の横で、なのに2人はそんな俺を全く無視して会話を続けようとする。
「ご兄弟でいらっしゃるんですか?」
「うんそう。もちろん僕が兄ね。あまり似てないでしょ。僕は母親似だけど、こいつは父親似なんだ」
何がもちろんだ、何がっ!
笑顔で微妙な嘘をパラまくなっ!
「そのお姿。ご帰宅の途中でいらしたんですね」
「うん。この道まっすぐ行った所にある、扶桑って高校なんだけど、分かるかな? そこの2年」
「まあ。上の兄が同じ歳ですわ」
……いいかげんにしろ。
「和彦、俺は先に帰るぞ。そのぴんぴんしたお嬢さんが心配なら、おまえ1人でつき合って、迎えを呼ぶなり送って行くなりして、礼でも何でもしてもらってこい。
ちゃんと朝までに帰ってくるんだぞ」
スクールバッグを肩にひっかけ、念のため、釘さしておいてから踵を返す。
俺としてはそのままさっさとこの場から立ち去ってしまいたかったんだが。
「っと」
踏み出した早々、足元でまだ気絶しっぱなしのデクノボーにつまずいてしまう。なんとか転ぶのは避けられたものの、靴先に引っかけた背広の内ポケットからこぼれ出た小さな金のバッジを見て、佳織ははっきりと顔色を変えた。
「これは……」
誘拐されたことに少しも動揺を見せなかった彼女が、それきり青冷めて言葉を失ってしまったことに、俺もつい、帰ろうとしていた足を止める。
まったくこれが運のつき。
このあと何が待っているか知っていたら、たとえ彼女が突然心臓発作を起こして死にそうになったとしてもこの場に放り出して、さっさと立ち去ってしまっていただろうに。
「どうかしたの? 佳織ちゃん」
和彦が気遣うように、ちゃっかり肩に手を回して覗きこむ。そのなれなれしさにも気付かない、切羽詰まった表情で拾い上げたそれをしばらく見続けたあと。おもむろに彼女はつぶやいた。
「……帰ります……」
「おい大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
とは俺。
「大丈夫、です。それよりお2人とも、お時間のほうはもう少しよろしいでしょうか?」
内心の動揺をうまく静めきれず、無理矢理押し殺してのような、不安定な笑みを向けてくる。
当然ながら和彦は即応し、さすがに俺としてもその姿には強く出れなくて、つい、曖昧に頷いたら、彼女は本当に心底からのようにほっと息をついたものだから、俺はますます帰るとは言えなくなってしまった。(もっとも、その顔が一体何に安堵してかはまるっきり俺の見当はずれであったのを、後に知ることとなったのだが。)
「実は、お2人にぜひともお願いしたいことがあるのですが……」
胸のところで指を組み、真摯な目と切実な声でそう切り出された数秒後。俺と和彦は声を一緒にして、叫んでいた。
「なんだってーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」




