9.旧港の影
二つの島国——セレスティアとヴァルガード。
かつては大洋を隔て、互いに干渉することのない遠い存在だった。
しかし数十年にわたる大陸移動と地殻変動により、その距離は年々縮まっている。今では、海峡の幅はわずか百数十キロ。肉眼では見えないが、双眼鏡を覗けば相手国の海岸線がかすかに映るほどだ。
両国の関係は、表面上は「友好」で塗り固められている。貿易協定、文化交流、外交儀礼——どれも笑顔と握手で飾られる。だが、その水面下では、互いの経済圏の衝突、資源の奪い合い、歴史認識をめぐる軋轢が、静かに燻り続けていた。
そして今、新たな変化が訪れている。最新の観測データによれば、両国間の海峡はこの一年でさらに数キロ狭まった。もしこのペースが続けば——二つの国は、いずれ衝突する。
そのとき何が起こるのか。地理的な衝撃だけではない。経済も、政治も、人々の日常も、すべてが形を変えるだろう。
だが、この事実を日々の暮らしの中で意識する人は少ない。ほんの一握りの人間だけが、近づきつつあるその未来に備えようとしていた——。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の空気に細かな埃がきらきらと漂っていた。
澪はベッドの中で丸くなったまま、スマホの画面をじっと見つめている。
画面には、地図アプリの「旧港地区」の検索結果。
錆びたクレーン、打ち捨てられた倉庫、崩れかけた桟橋——そんな写真が並んでいた。
(危なそう……。行ったら絶対に面倒ごとになる)
胸の奥に不安がじわじわ広がっていく。
でも、その奥のさらに奥で、昨夜の青年の声が柔らかく響いた。
「よくやったな」
あのときの微笑み。真剣さの中に、ほんのわずか混じっていた優しさ。
(……また、褒められたい)
気づけば、そう思ってしまっている自分がいた。
危険かどうかよりも、あの人の目に映る自分が、少しだけ誇らしくなることのほうが大事だと感じてしまう。
いや、違う。これは世界を救うための情報収集。青年もそう言っていた。
——だから、私は行くべきなんだ。
布団の中で何度もそう言い聞かせる。
でもそのたびに、心のどこかで(嘘つけ、本当はあの人に会いたいだけだろ)と、もう一人の自分が笑う。
顔を枕に押しつけ、熱くなった頬を冷まそうとした。
……冷めるどころか、ますます火照ってしまって、とうとう勢いで布団から飛び出した。
身支度を整え、バッグにモバイルバッテリーとカメラを入れる。
出かける前に、タカコさんのカフェに立ち寄った。
「おや、澪ちゃんじゃない。今日は早いわね」
カウンター越しに笑うタカコさん。
「……ちょっと、港の方まで行こうかと」
「港? 最近、あそこ物騒よ。気をつけなさい」
心配そうな声色に、澪は曖昧に笑って返す。
(大丈夫……危ないことはしない、きっと)
でも胸の奥では、危なさをほんの少し期待している自分がいた。
紙カップのコーヒーを手に、バス停へ向かった。
バスを降りると、潮と錆の匂いが風に混じって鼻をついた。
周囲は人影がまばらで、倉庫のシャッターは赤茶けて剥がれ落ちている。
足元のアスファルトは細かくひび割れ、わずかに傾いていた。
(これ……本当に沈んでるのかも)
写真を撮ろうとスマホを構えたとき、背後から声がした。
「お嬢さん、ここは長居しないほうがいい」
振り返ると、作業着姿の中年男性が立っていた。
「地盤がな、危ないんだよ。海底の断層が動いてるらしい」
低く押さえた声が、余計に不穏さを強める。
会話の途中、男性の視線が何度も澪の背後に向いた。
つられて振り返ると、倉庫の影から黒いコートの人物がじっとこちらを見ていた。
(……え、なにあれ)
目が合った瞬間、その人物はふっと影に消えた。
その夜。
白い図書館に立つと、青年がすでに机の前にいた。
「……旧港で見たことを話して」
澪が黒いコートの人物のことを話すと、青年の表情が一瞬だけ険しくなる。
「それは、君を監視している可能性がある」
胸がざわつく。
「……でも、私、ちゃんと写真も撮ったよ」
青年は少しの沈黙のあと、小さく笑った。
「よくやったな」
その一言で、胸の奥がふわっと温かくなる。
(……もっと知りたい。この人が何を見ているのか)
不安よりも、その想いの方が勝ってしまっていた。