8.次の一歩
二つの島国——セレスティアとヴァルガード。
かつては大洋を隔て、互いに干渉することのない遠い存在だった。
しかし数十年にわたる大陸移動と地殻変動により、その距離は年々縮まっている。今では、海峡の幅はわずか百数十キロ。肉眼では見えないが、双眼鏡を覗けば相手国の海岸線がかすかに映るほどだ。
両国の関係は、表面上は「友好」で塗り固められている。貿易協定、文化交流、外交儀礼——どれも笑顔と握手で飾られる。だが、その水面下では、互いの経済圏の衝突、資源の奪い合い、歴史認識をめぐる軋轢が、静かに燻り続けていた。
そして今、新たな変化が訪れている。最新の観測データによれば、両国間の海峡はこの一年でさらに数キロ狭まった。もしこのペースが続けば——二つの国は、いずれ衝突する。
そのとき何が起こるのか。地理的な衝撃だけではない。経済も、政治も、人々の日常も、すべてが形を変えるだろう。
だが、この事実を日々の暮らしの中で意識する人は少ない。ほんの一握りの人間だけが、近づきつつあるその未来に備えようとしていた——。
翌朝、カーテンの隙間から射し込む光が、部屋の埃をきらきらと浮かび上がらせていた。
澪は枕元のスマホを手に取り、昨日撮った写真を何度もスクロールする。
商店街の通り、港の風景、防災説明会のポスター……。
(なんで、こんなに気になるんだろ)
ニュースアプリには「セレスティアとヴァルガード、距離さらに縮小」「経済への影響不可避」の見出しが並び、コメント欄は「戦争になる」「終わりだ」など暗い言葉で埋まっている。
胸の奥が少し重くなる。でも、昨日、自分の足で外に出て写真を撮ったという事実は、不思議と温かく残っていた。
廊下に出ると、
「おはよ、澪ちゃん」
タカコさんが笑顔で立っていた。
「昨日、外出してたでしょ? なんか顔つきが変わったわよ」
「え、そ、そうですか……?」
耳まで熱くなって、慌てて視線を逸らす。
タカコさんはニヤリと笑い、手をひらひら振って去っていった。
その夜、また白い図書館に立っていた。
長い机の向こう、青年が澪の撮った写真を壁に映している。
「澪、この中に“鍵のかけら”がある」
「……またそれ? 鍵って、結局なに?」
青年は小さく首を振る。
「今はまだ言えない。でも、これを全部集めたとき、君は世界を動かせる」
「世界を……動かす?」
青年は防災説明会の地図、古い石碑、港の写真を順に指さす。
「これらは、ひとつの真実につながっている」
澪はその横顔をじっと見てしまう。
(なんで、こんなに真剣に私を見てくれるんだろ)
ふいに視線が合ってしまい、慌てて目を逸らす。
「……ねぇ、なんで私なの? 私、何もできないのに」
青年は少し微笑んで答えた。
「何もできない人は、こんな写真を撮らない」
胸の奥がじわっと熱くなる。
(……もっと、あの人に褒められたい)
(そのためには……情報を集めなきゃ。そうすれば、きっと役に立てる)
「……ヒント、もう少しちょうだい」
「それは、次の一歩を踏み出したときに」
ふくれっ面になりながらも、澪は心の中で(次の一歩……)と繰り返した。
翌日、澪はタカコさんのカフェへ行った。
店内は温かい木の香りと、ふわっと広がるコーヒーの匂い。
「いらっしゃい。奥の席、空いてるわよ」
促されて座ると、偶然、隣に市役所職員らしき男性が座っていた。
防災説明会で見かけた顔だ。
心臓が急に速くなる。
(話しかける? やめとく? でも……)
頭の中で、青年の「次の一歩」という言葉が響く。
(そうだ、これは“褒めてもらうため”の一歩でもあるんだ)
(私だって……やればできるかもしれない)
「……あの、この前の説明会にいらっしゃいましたよね?」
男性は驚きつつも、「ああ、君、あのときの」と笑顔を返す。
その笑顔に、少しだけ肩の力が抜けた。
会話の中で、「旧港地区で地盤沈下が始まっている」という話を聞いた。
その夜、夢の中で青年に報告すると、彼の表情が一瞬だけ険しくなった。
「……澪、それは危険な兆候だ。次は旧港地区へ行ってほしい」
「え、マジで? 危ないんじゃ……」
不安を口にしながらも、胸の奥で妙な高揚感が芽生えていた。
(また、あの人に褒めてもらえるかもしれない)