7.外の世界へ
二つの島国——セレスティアとヴァルガード。
かつては大洋を隔て、互いに干渉することのない遠い存在だった。
しかし数十年にわたる大陸移動と地殻変動により、その距離は年々縮まっている。今では、海峡の幅はわずか百数十キロ。肉眼では見えないが、双眼鏡を覗けば相手国の海岸線がかすかに映るほどだ。
両国の関係は、表面上は「友好」で塗り固められている。貿易協定、文化交流、外交儀礼——どれも笑顔と握手で飾られる。だが、その水面下では、互いの経済圏の衝突、資源の奪い合い、歴史認識をめぐる軋轢が、静かに燻り続けていた。
そして今、新たな変化が訪れている。最新の観測データによれば、両国間の海峡はこの一年でさらに数キロ狭まった。もしこのペースが続けば——二つの国は、いずれ衝突する。
そのとき何が起こるのか。地理的な衝撃だけではない。経済も、政治も、人々の日常も、すべてが形を変えるだろう。
だが、この事実を日々の暮らしの中で意識する人は少ない。ほんの一握りの人間だけが、近づきつつあるその未来に備えようとしていた——。
翌日。
澪は、スマホのニュースアプリを何となく開いた。
トップには「セレスティアとヴァルガード、距離縮小続く」という見出し。
スクロールするたび、似たような記事やSNSの動画がいくつも出てくる。
(……なんか、昨日より増えてない?)
ふだんはこういう話題をスルーする澪も、ついタイトルをタップしてしまう。
映像の中、アナウンサーの真剣な表情が画面越しでも重くのしかかる。
駅前で防災用品を買い占める人の列、臨時説明会のポスター。
(ほんとに、何か起きてるのかも……)
——その夜。
夢の中、白い図書館の奥で青年が待っていた。
「澪、今日は外の世界を見てきてほしい」
開口一番にそう言われて、澪は思わず眉をひそめる。
「は? いやいや、無理だから。私、引きこもりだし」
青年は穏やかな笑みを崩さない。
「危機は、いつか君の部屋のドアも叩く。知ることから逃げ続ければ、守りたいものも守れない」
低く落ち着いた声が、胸の奥をくすぐるように響いた。
(……なんで、この人の声って、こんなに……)
自分でもよくわからない熱が、頬のあたりにじわっと広がる。
「守りたいもの……そんなの、私に——」
そう思った瞬間、昨日の夕方、タカコさんが差し出したカフェのタルトの香りがよみがえった。
あの小さなカフェ。木の温もりとコーヒーの香り。
(……なくなったら、嫌だな)
自分でも驚くほど素直な気持ちが浮かぶ。
青年は、澪の表情を見てふっと笑った。
「それが理由で十分だ」
まるで心を読んだような声色に、澪は思わず顔を背けた。
「……あのさ」
「ん?」
「なんで……私なの? こんな、何もできない私を選んだの?」
胸の奥がそわそわして、視線を合わせられない。
「君だからだよ」
短くそう言われ、澪は思わず心臓を押さえた。
(なにそれ……ずるい……)
「……わかったよ。でも、ほんのちょっとだけだからね」
「うん、最初はそれでいい」
——翌日。
澪は、マスクと帽子を深くかぶってアパートを出た。
外の空気が、少しひんやりと肌を撫でる。
駅前までの道、コンビニの外に積まれた箱には「防災セット在庫限り」の赤い札。
広場では市役所の職員らしき人たちが、大きな地図を貼って説明会をしている。
「……なんか、本当にやばそうじゃん」
心臓が早くなる。けれど、足は止まらなかった。
ポケットからスマホを取り出し、目についたものを次々に写真に収めていく。
夜。
夢の中で青年に写真を見せると、彼は満足そうに頷いた。
「よくやった。次は、その中に“鍵”がある」
「鍵って何?」
澪が聞くと、青年は答えずに柔らかく笑った。
(……何それ、気になるじゃん)
胸の奥に、小さな火種のような好奇心が灯った。