6.タカコさんのキッシュ
二つの島国——セレスティアとヴァルガード。
かつては大洋を隔て、互いに干渉することのない遠い存在だった。
しかし数十年にわたる大陸移動と地殻変動により、その距離は年々縮まっている。今では、海峡の幅はわずか百数十キロ。肉眼では見えないが、双眼鏡を覗けば相手国の海岸線がかすかに映るほどだ。
この地殻変動は、ただ陸を近づけるだけではない。
プレートの軋みは周期的に大地を震わせ、時には港を飲み込む津波を引き起こした。沿岸部の人々は、年に数度の避難訓練が当たり前になっている。
両国の関係は、表面上は「友好」で塗り固められている。貿易協定、文化交流、外交儀礼——どれも笑顔と握手で飾られる。だが、その水面下では、互いの経済圏の衝突、資源の奪い合い、歴史認識をめぐる軋轢が、静かに燻り続けていた。
そして今、新たな観測データが示すのは、両国間の海峡がこの一年でさらに数キロ狭まったという事実だ。もしこのペースが続けば——二つの国は、いずれ衝突する。
そのとき、地震も津波も、過去最大規模で襲ってくるだろう。経済も、政治も、人々の日常も、すべてが形を変えるに違いない。
夕方。
窓の外は、オレンジ色の光がビルの壁を染めていた。
澪は机の前で、ぼんやりとマグカップを両手で包んでいた。
昨夜の夢のことを思い出すたび、胸がふわっと熱くなる。
「……はぁ」
意味もなく、ため息がこぼれる。
だって、あんなふうに褒められるなんて、いつ以来だろう。
それも——あの人に。
——コンコン。
ドアをノックする音に、澪はびくっと肩を揺らした。
おそるおそるドアを開けると、隣の部屋のタカコさんが、にこにこ顔で立っていた。
タカコさんは40代半ばの独身女性で、駅前の小さなカフェを営んでいる。
このアパートで澪に普通に話しかけてくれるのは、彼女だけだ。
他の住人たちは、廊下で目が合っても会釈すらしない。澪もわざわざ関わろうとはしないから、なおさら距離ができていた。
「澪ちゃん、これ余ったから持ってきたわ」
差し出されたのは、ラップのかかった大きなお皿。
香ばしい香りがふわっと広がり、澪の胃がきゅるりと鳴った。
「……あ、ありがとうございます」
受け取りながら目を逸らすと、タカコさんはじっと澪の顔を見て、にやりと笑った。
「なんだか顔色がいいじゃない。何かあった?」
「い、いえ、別に……」
否定しながらも、頭の中に浮かぶのは、夢の中の青年の笑顔。
——やめてよ、なんで今思い出すの。頬が熱くなるじゃん……。
ラップを外すと、そこには焼きたてのキッシュと、香草の香りがふわっと広がるポテトサラダ。
タカコさんのカフェらしい、木のぬくもりを感じるお皿に盛られている。
澪は思わず息をのんだ。
そのカフェは、白い壁と木枠の窓、ドアを開けるとベルが優しく鳴り、コーヒーと焼き菓子の香りがふわっと迎えてくれる。
大きな観葉植物と古いレコードプレイヤーが置かれた空間は、時間がゆっくり流れているようで、外のざわめきが嘘みたいに遠く感じられる。
澪にとって、唯一安心して長居できる場所だった。
「ニュース見た?」
タカコさんが指差したリビングのテレビでは、二つの島国の地図が映っていた。
『セレスティアとヴァルガード、地殻変動により距離がさらに縮まる』というテロップ。
「なんだか怖いわねぇ、こういうの」
「……確かに」
口から自然に言葉が出て、自分で驚く。
いつもなら、こういう話は「ふーん」で終わらせるのに。
そのとき——。
ぐらり、と床が小さく揺れた。
グラスの水面が波打ち、窓ガラスがカタカタと震える。
「地震!?」
思わずキッシュを押さえる澪。
すぐに揺れは収まったが、テレビのアナウンサーが続けた。
『先ほどの地震は、セレスティア海溝付近で発生したもので、大陸移動に伴う地殻の圧迫が原因とみられています——』
「……やっぱり、あのニュースと関係あるのかしら」
タカコさんが小さくため息をつく。
澪は何も答えず、胸の奥がざわつくのを感じた。
ドアを閉めて部屋に戻ると、そのざわつきは消えなかった。
外の世界のこと、今まで気にも留めなかったのに。
——その夜。
夢の中、白い図書館で青年が立っていた。
「今日は、現実でもその話題に興味を持ったんだって?」
「……うん、ちょっとだけ」
「それが最初の一歩だよ」
そう言って微笑む彼の目は、優しくて、真っ直ぐで。
心臓がバカみたいにドクンって鳴った。
澪は思わず顔を覆う。
——もう、なんなのこの人……。