表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/20

6.タカコさんのキッシュ

二つの島国——セレスティアとヴァルガード。

 かつては大洋を隔て、互いに干渉することのない遠い存在だった。

 しかし数十年にわたる大陸移動と地殻変動により、その距離は年々縮まっている。今では、海峡の幅はわずか百数十キロ。肉眼では見えないが、双眼鏡を覗けば相手国の海岸線がかすかに映るほどだ。


 この地殻変動は、ただ陸を近づけるだけではない。

 プレートの軋みは周期的に大地を震わせ、時には港を飲み込む津波を引き起こした。沿岸部の人々は、年に数度の避難訓練が当たり前になっている。


 両国の関係は、表面上は「友好」で塗り固められている。貿易協定、文化交流、外交儀礼——どれも笑顔と握手で飾られる。だが、その水面下では、互いの経済圏の衝突、資源の奪い合い、歴史認識をめぐる軋轢が、静かに燻り続けていた。


 そして今、新たな観測データが示すのは、両国間の海峡がこの一年でさらに数キロ狭まったという事実だ。もしこのペースが続けば——二つの国は、いずれ衝突する。

 そのとき、地震も津波も、過去最大規模で襲ってくるだろう。経済も、政治も、人々の日常も、すべてが形を変えるに違いない。


夕方。

窓の外は、オレンジ色の光がビルの壁を染めていた。

澪は机の前で、ぼんやりとマグカップを両手で包んでいた。

昨夜の夢のことを思い出すたび、胸がふわっと熱くなる。


「……はぁ」

意味もなく、ため息がこぼれる。

だって、あんなふうに褒められるなんて、いつ以来だろう。

それも——あの人に。


——コンコン。


ドアをノックする音に、澪はびくっと肩を揺らした。

おそるおそるドアを開けると、隣の部屋のタカコさんが、にこにこ顔で立っていた。

タカコさんは40代半ばの独身女性で、駅前の小さなカフェを営んでいる。

このアパートで澪に普通に話しかけてくれるのは、彼女だけだ。

他の住人たちは、廊下で目が合っても会釈すらしない。澪もわざわざ関わろうとはしないから、なおさら距離ができていた。


「澪ちゃん、これ余ったから持ってきたわ」

差し出されたのは、ラップのかかった大きなお皿。

香ばしい香りがふわっと広がり、澪の胃がきゅるりと鳴った。


「……あ、ありがとうございます」

受け取りながら目を逸らすと、タカコさんはじっと澪の顔を見て、にやりと笑った。

「なんだか顔色がいいじゃない。何かあった?」

「い、いえ、別に……」

否定しながらも、頭の中に浮かぶのは、夢の中の青年の笑顔。

——やめてよ、なんで今思い出すの。頬が熱くなるじゃん……。


ラップを外すと、そこには焼きたてのキッシュと、香草の香りがふわっと広がるポテトサラダ。

タカコさんのカフェらしい、木のぬくもりを感じるお皿に盛られている。

澪は思わず息をのんだ。


そのカフェは、白い壁と木枠の窓、ドアを開けるとベルが優しく鳴り、コーヒーと焼き菓子の香りがふわっと迎えてくれる。

大きな観葉植物と古いレコードプレイヤーが置かれた空間は、時間がゆっくり流れているようで、外のざわめきが嘘みたいに遠く感じられる。

澪にとって、唯一安心して長居できる場所だった。


「ニュース見た?」

タカコさんが指差したリビングのテレビでは、二つの島国の地図が映っていた。

『セレスティアとヴァルガード、地殻変動により距離がさらに縮まる』というテロップ。

「なんだか怖いわねぇ、こういうの」

「……確かに」

口から自然に言葉が出て、自分で驚く。

いつもなら、こういう話は「ふーん」で終わらせるのに。


そのとき——。

ぐらり、と床が小さく揺れた。

グラスの水面が波打ち、窓ガラスがカタカタと震える。

「地震!?」

思わずキッシュを押さえる澪。

すぐに揺れは収まったが、テレビのアナウンサーが続けた。


『先ほどの地震は、セレスティア海溝付近で発生したもので、大陸移動に伴う地殻の圧迫が原因とみられています——』


「……やっぱり、あのニュースと関係あるのかしら」

タカコさんが小さくため息をつく。

澪は何も答えず、胸の奥がざわつくのを感じた。


ドアを閉めて部屋に戻ると、そのざわつきは消えなかった。

外の世界のこと、今まで気にも留めなかったのに。


——その夜。

夢の中、白い図書館で青年が立っていた。

「今日は、現実でもその話題に興味を持ったんだって?」

「……うん、ちょっとだけ」

「それが最初の一歩だよ」


そう言って微笑む彼の目は、優しくて、真っ直ぐで。

心臓がバカみたいにドクンって鳴った。

澪は思わず顔を覆う。

——もう、なんなのこの人……。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ