20.鍵を繋ぐ時 (最終話)
二つの島国——セレスティアとヴァルガード。
かつては大洋を隔て、互いに干渉することのない遠い存在だった。
しかし数十年にわたる大陸移動と地殻変動により、その距離は年々縮まっている。今では、海峡の幅はわずか百数十キロ。肉眼では見えないが、双眼鏡を覗けば相手国の海岸線がかすかに映るほどだ。
両国の関係は、表面上は「友好」で塗り固められている。貿易協定、文化交流、外交儀礼——どれも笑顔と握手で飾られる。だが、その水面下では、互いの経済圏の衝突、資源の奪い合い、歴史認識をめぐる軋轢が、静かに燻り続けていた。
そして今、新たな変化が訪れている。最新の観測データによれば、両国間の海峡はこの一年でさらに数キロ狭まった。もしこのペースが続けば——二つの国は、いずれ衝突する。
そのとき何が起こるのか。地理的な衝撃だけではない。経済も、政治も、人々の日常も、すべてが形を変えるだろう。
だが、この事実を日々の暮らしの中で意識する人は少ない。ほんの一握りの人間だけが、近づきつつあるその未来に備えようとしていた——。
まだ夜が深いはずなのに、海沿いの空気はぴんと張り詰めていた。
私は玄関のドアに手をかける前に、一度だけ深呼吸をした。
(これで終わる……いや、ここからが始まり)
心の奥底で、小さく呟く。
ドアを開けると、冷たい潮風が頬を撫でた。
それはまるで、「さあ行け」と背中を押すようだった。
波止場に近づくにつれ、潮の匂いが濃くなっていく。
灯りの下に立つ人影が見えた。
この日の為にレンタルした漁船の漁師だ。
「……本当に、行くのか?」
しわがれた声には、驚きと少しの不安が混じっていた。
「ええ。お願いします」
私はスマホの画面を見せた。そこには、あの青年から受け取った“地図にも載らない島”の座標が青白く浮かび上がっている。
漁師は画面を覗き込み、眉間に深いしわを刻んだ。
「こんな場所……聞いたこともねぇ」
それでも彼は無言でロープを外し、船のエンジンをかけた。
船が岸を離れた瞬間、暗闇の海が私たちを飲み込んだ。
エンジンの唸りと波のざわめきが、夜明け前の世界に響き渡る。
潮の飛沫が頬を冷やすたび、心臓が少しずつ速くなる。
やがて、霧の向こうで微かな光が揺れた。
振り返ると、もう一隻のボートが波を裂いてこちらへ迫ってくる。
「……ヴァルガードの連中か!」漁師が低く唸る。
私の背筋に冷たいものが走った。
相手のボートは鋭い船首をこちらに向け、速度を上げてくる。
海面を蹴るエンジン音が、闇を裂くように大きくなる。
「しっかりつかまってろ!」
漁師はハンドルを切り、船体が大きく傾いた。
波が高く跳ね上がり、私は舷側に必死でしがみつく。
二隻の船が黒い海を縫うように走る。
背後では、相手が探照灯を灯し、白い光が霧を切り裂いた。
「くそっ……あいつら、本気だ!」
漁師の声がかすれる。だが次の瞬間、彼は不敵に笑った。
「だが、俺の海を甘く見るなよ!」
彼は慣れた手つきで岩礁の間をすり抜ける。
地元漁師しか知らない暗礁地帯。
背後のボートが速度を緩めるのが分かった――下手に突っ込めば、座礁は免れない。
私は振り返り、霧の向こうで遠ざかっていく白光を見た。
心臓がまだ跳ねている。だが、漁師の横顔は静かだった。
「もう大丈夫だ。あいつらはここから先へは入れん」
やがて、霧の中から黒い影が浮かび上がった。
「……島? 本当にあったのかよ……」
漁師が呟いたその声は、エンジン音にすぐかき消された。
人のいる気配がない。警備施設も無さそうだ。
(あの人が言った通りこの島には誰もいないんだ)
澪は夢の中で青年が言った話を思いだしていた。
「地殻変動制御装置は、この無人島にある。だが島の存在自体、国家機密として地図から消されている。位置を知るのは、ごく一部の政府高官だけだ」
「でも警備施設はあるでしょう?」
「ない。本来は、存在そのものを悟らせない“隠匿”が最大の防御だった。軍施設やレーダーを置けば、逆に衛星や偵察機で『何かある』と悟られてしまう。だから、あえて漁村の老人すら知らない無人島として放置していた」
青年の瞳がわずかに陰る。
「だが――それが仇となった。
数年前、ヴァルガードは何らかの経路で、この場所の位置情報を掴んでいた。
それをセレスティアは察知できなかった。
政治家や政府高官たちは権力構造づくりにばかり心を砕き、ヴァルガードの動きを探る危機意識をとうに失っていた。
やがてヴァルガードは、ある政府高官に近づいて金で買収し、そこから三つの鍵のスペアを入手した。
嘆かわしいが――それが、この国の現実だった。
その隙を突くように、無人の島は侵入者たちにとって格好の作業拠点へと変わっていった。
ヴァルガードは三つの鍵のスペアを使い、地殻変動制御装置を操作して海底プレートの動きを加速させると、彼らの痕跡を全て決して消えた…」
岩場に降り立つと、靴底に冷たい海水がじわりと染み込んだ。
潮風に揺れる葦の群れが一面に広がり、その奥に――人目を避けるように伏せられた鉄の扉があった。
地面とほとんど同化しており、近くを通っても気づかないだろう。
澪は膝をつき、葦をかき分けながら指先で錆びた縁をなぞる。
――ここだ、と胸の奥で確信する。
夢の青年が示した座標が、まさにこの場所を指していた。
扉には古いテンキー式のロックが取り付けられ、潮に焼けた数字キーが鈍く光っている。
夢で青年が教えてくれた数字を、一つひとつ慎重に押していく。
ピッ、ピッ、ピッ……最後のキーを押した瞬間、短い電子音が鳴り、錠前が外れた。
(開いた……)
湿った金属の匂いと、地下から吹き上がる冷気が一気に押し寄せる。
中に入ると、そこは海底地殻制御施設の制御室だった。
壁一面のモニターが、二つの島の距離を示す赤いラインを点滅させ、耳をつんざくような警告音を響かせている。
床が低く唸り、壁の配管からは微かな振動が伝わってくる。
青年が言った通りコンソールパネル上にキーホールがある。
バックパックから四つの金属のかけらを取り出す。
それぞれをキーホールに差し込み、決められた順で回す。
カチリ、カチリ……最後の一つを回した瞬間、天井のライトが一度消え、青白い光と共に再点灯した。
モニター中央に新しい入力画面が開く。
(ここからが本番だ……!)
青年に教わったプログラムのコマンドが、頭の中で鮮明に蘇る。
震える指を必死に押さえ、キーボードを叩く。
青年の言葉が頭の中でループし始める。
(いいか、全ての鍵で地殻変動制御システムの自動運用モードを解除したその瞬間から、君に残された時間は3分だ。3分以内にコードを全て正しく打ち切らないと、地殻変動制御システムは再び自動運用モードに切り替わり二度とプレート移動を止める事が出来なくなる)
残り時間は容赦なく減っていく。
2分30秒……2分……1分半……。
手汗でキーが滑りそうになる。
澪が打ち込むコマンドが次々にモニター上に並んでいく。
> /core_link --target=tectonic_matrix --auth=KEY4
> /load_module "AegisPlateControl.lym"
> /set_param -id:PLATE_MOTION -value:0
画面に薄青い光の文字列が走り、
〈AUTH SUCCESS〉
〈COMMAND QUEUED〉
〈EXECUTION START〉
と冷徹な文字が並んでいく。
息を止め、最後のコマンドを入力。
> /commit --force --confirm
ほんの一瞬、Enterキーを押す指が止まった。
(ミスは許されない……!)
指先に力を込めてEnterキーを押し込む。
施設全体が低く唸り、赤い警告灯が次々と消えていく。
モニター中央に——《プレート移動 停止》の文字。
「……はぁ……っ!」
肺の奥まで空気を吸い込み、全身の力が抜けた。
外に出ると、水平線が淡いオレンジ色に染まりはじめていた。
二つの島は、もうこれ以上近づかない。
数日後、両国政府は合同で会見を開き、プレートの移動が停止して両国の衝突が回避されたこと、今後は両国の共同研究・文化交流を活性化させて友好関係を構築していくことを発表した。
国中が歓喜に包まれた。
港に立つ私の前には、朝の穏やかな海が広がっている。
「島はこれ以上近づかない。でも……私たちの心の距離は、もっと近づかなきゃ…」
そのとき、スマホが短く震えた。
画面を開くと、短いメッセージが表示される。
『やったのね澪!今すぐあなたに会いたい……いつかきっと会いにいくね』
「……タカコさん!」
胸の奥が、温かくほどけていく。
「私も会いたいよ、タカコさん……」
ふと、あの青年の顔が脳裏に浮かぶ。
(結局、何だったんだろう……あの人、ってかあのAI)
もう夢に現れることはない。
「......もう、ずるいよ、人をこんな気持ちにさせて」
…会いたいな…
その呟きは、潮風にさらわれていった。
「セレスティア・クロニクル ー 境界を越える者とAI」シリーズのSeason1最終話です。
「Season2 引きこもり卒業女子、最強AIと再び! 爆破計画少女と海底トンネル防衛戦」も読んで頂けたら嬉しいです。(^O^)