17.最後の鍵
二つの島国——セレスティアとヴァルガード。
かつては大洋を隔て、互いに干渉することのない遠い存在だった。
しかし数十年にわたる大陸移動と地殻変動により、その距離は年々縮まっている。今では、海峡の幅はわずか百数十キロ。肉眼では見えないが、双眼鏡を覗けば相手国の海岸線がかすかに映るほどだ。
両国の関係は、表面上は「友好」で塗り固められている。貿易協定、文化交流、外交儀礼——どれも笑顔と握手で飾られる。だが、その水面下では、互いの経済圏の衝突、資源の奪い合い、歴史認識をめぐる軋轢が、静かに燻り続けていた。
そして今、新たな変化が訪れている。最新の観測データによれば、両国間の海峡はこの一年でさらに数キロ狭まった。もしこのペースが続けば——二つの国は、いずれ衝突する。
そのとき何が起こるのか。地理的な衝撃だけではない。経済も、政治も、人々の日常も、すべてが形を変えるだろう。
だが、この事実を日々の暮らしの中で意識する人は少ない。ほんの一握りの人間だけが、近づきつつあるその未来に備えようとしていた——。
地鳴りが止まり、静寂と粉塵だけが路地に残った。
タカコさんは、まだ震えている澪と、助け出したばかりの男の子を、両腕で強く抱きしめていた。
「……よくやったわ、澪。もう、怖がってばかりの子じゃないのね」
耳元で落ち着いた声が響く。
澪は小さく頷いた。――でも、胸の鼓動は止まらない。
「うちに来ない? 落ち着ける場所があった方がいいわ」
「……はい」
男の子を児童センターに預けてからタカコさんのカフェに向かった。
歩くうちに、足の震えは少しずつ収まっていった。
カフェの扉をくぐると、外のざわめきが嘘のように遠のく。
温かい空気と、焙煎した豆の香りが包み込んでくる。
カウンターに座った瞬間、スマホが震えた。
何気なく画面を見た――次の瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねた。
『最後の鍵 この場所に』
……え? カフェ?
この場所? 今、この瞬間?
頭の中が真っ白になった。視界が揺れる。
さっきまで地震の余韻に呑まれていたのに、それ以上の衝撃が全身を駆け抜けた。
手が震えて、コーヒーの表面に細かな波が立つ。
「澪、どうしたの?」
タカコさんが不安そうに覗き込む。
――隠しておくつもりだった。危険すぎるし、関わらせたくなかった。
でも、喉の奥に詰まった言葉は、堰を切ったみたいに溢れた。
「……私、ずっと“鍵”を探してるんです」
灯台、沈む桟橋、海底トンネル――これまでの全てを一気に話した。
タカコさんはじっと聞いていた。
そして、深く息を吐くと、静かに口を開いた。
「……やっぱり、そうだったのね」
「知ってたんですか……?」
驚きと困惑が混ざった声が出る。
「恐らく――プレート移動はヴァルガードが仕掛けたことだと思う」
その声は低く、確信に満ちていた。
「あなたが見つけた三つの鍵はペアになっていて、それぞれ両国のどこかに隠されていた。あれで移動は“制御”できる。でも――止めるには四つ全部が必要なの」
「……四つ目は」
「ここにある」
タカコさんは、少しだけ目を伏せて続けた。
「昔、ヴァルガードの外交官と付き合っていたの。その人はこの計画に反対していて、秘密裏にこの鍵を私に託した。……きっと、止めたかったのよ」
奥の棚から、小さな木箱が取り出される。
金具は少し錆び、長い年月を物語っていた。
蓋を開けると、蒼い珊瑚の欠片が、深海の光を宿したように輝いた。
――胸が熱くなった。
これまで隠してきた真実を、私にだけ打ち明けてくれた。
その信頼が、嬉しくて、涙が込み上げる。
「……ありがとうございます」
絞り出すように言ったその言葉は、震えていた。
タカコさんは、いつもと変わらぬ優しい笑顔で、「大事にしなさい」と囁いた。
だが、その表情が一瞬だけ引き締まった。
「澪、この鍵を手にすることは、非常に危険なことよ。相手国も必死に探している。……これまで、命の危険を感じたことはない?」
澪は息を呑んだ。脳裏に、あの時の――夜道で背後に迫る足音、耳元で囁かれた警告の声――がよみがえる。
あれは偶然じゃなかったんだ……。
でも――引き返すなんて、もうできない。
「……やります。絶対に」
その声は、我ながら驚くほど揺らいでいなかった。
その時、スマホが震えた。
母からのメール。
『地震大丈夫? 心配してる。』
続いて兄からも。
『港は津波警報出てる。避難できてるか?』
澪は短く打った。
『大丈夫。心配しないで』
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。
最後の鍵が、今――私の手にある。