16.地震の夜
二つの島国——セレスティアとヴァルガード。
かつては大洋を隔て、互いに干渉することのない遠い存在だった。
しかし数十年にわたる大陸移動と地殻変動により、その距離は年々縮まっている。今では、海峡の幅はわずか百数十キロ。肉眼では見えないが、双眼鏡を覗けば相手国の海岸線がかすかに映るほどだ。
両国の関係は、表面上は「友好」で塗り固められている。貿易協定、文化交流、外交儀礼——どれも笑顔と握手で飾られる。だが、その水面下では、互いの経済圏の衝突、資源の奪い合い、歴史認識をめぐる軋轢が、静かに燻り続けていた。
そして今、新たな変化が訪れている。最新の観測データによれば、両国間の海峡はこの一年でさらに数キロ狭まった。もしこのペースが続けば——二つの国は、いずれ衝突する。
そのとき何が起こるのか。地理的な衝撃だけではない。経済も、政治も、人々の日常も、すべてが形を変えるだろう。
だが、この事実を日々の暮らしの中で意識する人は少ない。ほんの一握りの人間だけが、近づきつつあるその未来に備えようとしていた——。
——夢を見ていた。
澪は古い図書館の中庭に立っていた。
空は淡い瑠璃色に染まり、白髪の青年が微笑みながらこちらへ歩いてくる。
その瞳は静かで、けれどどこか誇らしげだった。
「……これ、見つけたよ」
澪は両手で、小さな金属の欠片を差し出す。
青年はそれを受け取り、柔らかく頷いた。
「よくやったな、澪」
その声は、不思議と胸の奥まで響いてくる。
——嬉しい。
胸が温かく膨らむその感覚に、澪は思わず聞いてしまった。
「……これで、全部揃った?」
青年は少しだけ間を置き、静かに首を振った。
「あと一つだ。だが——」
その瞬間、図書館全体がぐらりと揺れた。
天井の本棚が音を立て、足元の石畳が割れ、青年の姿が揺らいでいく——。
「……っ!」
澪は目を覚ました。
布団の上でも揺れが続いている。
窓の外では、電線が唸り声をあげ、街灯が不気味に揺れていた。
地鳴りが足元から突き上げる。
遠くでガラスが砕ける音、車の警報音、そして混じる悲鳴。
テレビをつけると、ニュースキャスターが必死に原稿を読み上げていた。
《政府は原因調査中……》
画面下には別のテロップが流れる。
《専門家:大陸移動が引き金となった可能性》
さらに——《防衛出動準備》の赤文字。
そして《ヴァルガード艦隊、境界線を突破》。
港から少し離れた商店街の方角で、瓦礫が崩れる重い音がした。
「助けて……!」——かすれた声が混ざった。
(声……どっちから? 全然わからない!)
地震で狂った街の音は、方向感覚を奪う。
澪は歯を食いしばり、耳ではなく目で探すことに切り替えた。
埃まみれの路地の奥。
崩れかけた二階建ての隙間から、小さな手が空を切るように伸びていた。
「外へ出よう! すぐに!」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
以前の私なら……足がすくんで動けなかっただろう。
でも今は、そんな暇はない。
澪は倒れかけた柱を押しのけ、瓦礫を両手で引きはがす。
埃が目に入り、涙で視界がにじむ。
爪の間に砂利が入り込み、関節がきしむほど力を込めた。
「もう少し……がんばって!」
泣きじゃくる男の子の体を引き寄せた瞬間、背後で壁が崩れる轟音。
澪はとっさに子どもを抱きかかえ、外へ飛び出した。
道路に出ると、夜風が頬を切るように冷たかった。
男の子は澪の首にしがみつき、震えを止めない。
(……やっぱり、以前の私じゃあり得なかったよな)
息を切らしながら、胸の奥でそうつぶやく。
「澪ちゃん!」
駆け寄ってきたタカコが、二人を抱き寄せた。
その腕は温かく、揺れる鼓動が伝わる。
「もう……怖がってばかりの子じゃないんだね」
澪は言葉を返せなかった。ただ、その温もりを胸いっぱいに受け止めた。