14.タカコの秘密
二つの島国——セレスティアとヴァルガード。
かつては大洋を隔て、互いに干渉することのない遠い存在だった。
しかし数十年にわたる大陸移動と地殻変動により、その距離は年々縮まっている。今では、海峡の幅はわずか百数十キロ。肉眼では見えないが、双眼鏡を覗けば相手国の海岸線がかすかに映るほどだ。
両国の関係は、表面上は「友好」で塗り固められている。貿易協定、文化交流、外交儀礼——どれも笑顔と握手で飾られる。だが、その水面下では、互いの経済圏の衝突、資源の奪い合い、歴史認識をめぐる軋轢が、静かに燻り続けていた。
そして今、新たな変化が訪れている。最新の観測データによれば、両国間の海峡はこの一年でさらに数キロ狭まった。もしこのペースが続けば——二つの国は、いずれ衝突する。
そのとき何が起こるのか。地理的な衝撃だけではない。経済も、政治も、人々の日常も、すべてが形を変えるだろう。
だが、この事実を日々の暮らしの中で意識する人は少ない。ほんの一握りの人間だけが、近づきつつあるその未来に備えようとしていた——。
午後の光が斜めに差し込むカフェ「Sea Breeze」。
澪はカウンター席に腰を下ろし、ホットココアのカップを両手で包み込んだ。
昨日の旧港での出来事が、まだ胸の奥でざわついている。
沈みかけた桟橋、冷たい海の底から引き上げた半欠けのかけら。
ふと、あの夜の会話がよみがえる。
――『ヴァルガードは昔から海の向こうを欲しがっていた』
何気ない一言だったのに、その響きは妙に重かった。
「……この前の話」
澪はカップを置き、タカコさんを見据えた。
「『ヴァルガードは昔から海の向こうを欲しがっていた』って、どういう意味ですか?」
タカコさんは、カウンターの奥でカップを拭く手をぴたりと止め、わざとらしい笑顔を作る。
「え? そんなこと言ったかしら。やだわ、私ったら、時々おとぎ話みたいなことを口走る癖があってね」
軽く流すつもりの声に、微かに固さが混じる。
澪は目を逸らさず、じっと見つめた。
「……今の、冗談じゃないですよね」
沈黙が落ちた。
カフェの時計がカチリと音を刻む。
タカコさんは視線を落とし、深く息を吐いた。
「……ああ、もう。そういう目をされると、隠し通せないじゃない」
カウンターを回って澪の向かいに座ると、声を落として続けた。
「昔ね、ヴァルガードで暮らしていたことがあるの。外交官の彼と……そういう関係だったの」
澪は瞬きを忘れる。
タカコさんは淡々と語るが、指先はかすかに震えていた。
「彼らは……島がひとつになったら、“変える”つもりだったのよ。
名前や習慣、時間をかけて少しずつ……ね。
気づいた時には、もう元には戻れない――そんなふうに」
澪は、ぼやけたその言葉の奥に、確かな意志の匂いを感じた。
夕方、街頭モニターが臨時ニュースを映す。
『政府、国際世論の支持を求めると発表』
総理が原稿を読み上げる映像。
画面下のテロップが流れる。
《ヴァルガード艦、照明弾を発射 沿岸住民に不安広がる》
近くの通行人の苛立った声が耳に刺さる。
「世論? そんなもん待ってたら島が飲み込まれるぞ」
「行動する気がないなら、さっさと辞めろよ」
SNSも同じ空気だ。
《#遺憾より行動を》《#無策内閣総辞職を》
夜。
港の防波堤に立つ澪の視界に、沖合の黒い艦影が浮かぶ。
ヴァルガード艦が、夜空を裂くように照明弾を打ち上げた。
白く照らされた海面が、冷たい光を跳ね返す。
その瞬間、スマホの画面で『Fragment Finder』のアイコンが淡く点滅を始めた。
まるで「ほら、また見つけたよ」と自慢しているかのように。
「……何だよぉ〜、こんな時に」
思わずぼやきながらも、胸の奥がざわめく。
怖い。けど――引き返す道は、もうない。
澪はゆっくり息を吸い込み、アイコンをタップした。