13.沈む桟橋
二つの島国——セレスティアとヴァルガード。
かつては大洋を隔て、互いに干渉することのない遠い存在だった。
しかし数十年にわたる大陸移動と地殻変動により、その距離は年々縮まっている。今では、海峡の幅はわずか百数十キロ。肉眼では見えないが、双眼鏡を覗けば相手国の海岸線がかすかに映るほどだ。
両国の関係は、表面上は「友好」で塗り固められている。貿易協定、文化交流、外交儀礼——どれも笑顔と握手で飾られる。だが、その水面下では、互いの経済圏の衝突、資源の奪い合い、歴史認識をめぐる軋轢が、静かに燻り続けていた。
そして今、新たな変化が訪れている。最新の観測データによれば、両国間の海峡はこの一年でさらに数キロ狭まった。もしこのペースが続けば——二つの国は、いずれ衝突する。
そのとき何が起こるのか。地理的な衝撃だけではない。経済も、政治も、人々の日常も、すべてが形を変えるだろう。
だが、この事実を日々の暮らしの中で意識する人は少ない。ほんの一握りの人間だけが、近づきつつあるその未来に備えようとしていた——。
午前七時過ぎ。
布団の中で丸まっていた澪は、枕元のスマホからピコン、ピコン、と妙に間延びした通知音を聞かされ、片目だけ開けた。
「……なに? 朝っぱらから……」
画面を見ると、昨日自分で作ったアプリ『Fragment Finder』のアイコンが、やけに得意げに点滅している。
まるで「見つけたぞ! すごいだろ!」と自慢してくる子どもみたいだ。
「はいはい、すごいすごい……」と澪は寝ぼけ声でつぶやきながらも、指先でアイコンをタップ。
すると、地図の中央に赤いパルスが弾けるように表示され、距離と方角が瞬時に算出された。
《反応検出:旧港地区・外桟橋》
《状態:水中反応・強》
その瞬間、澪は一気に目が覚めた。
「……本当に動いた……」
このアプリは、青年から指定されたプログラム言語「Lyrian Script」で澪が一から書き上げたものだ。
潮の満ち引きや水温、風速まで計算に組み込んだ結果、誤差は数メートル以内。
昨日の夜遅くまでシミュレーションしていた甲斐があった。
表示の下には、小さく「沈みかけた外桟橋」という注記が浮かんでいた。
まるでアプリが「ほら、早く行ってこいよ!」と急かしているようで、澪は半ばあきれながらもバッグを引き寄せた。
(沈みかけたって...どうせ潜るんでしょワタシ、あ〜、色々揃えなきゃ)
旧港に向かう途中、海沿いの大通りを歩く澪の耳に、街頭モニターのニュースが飛び込んでくる。
『ヴァルガード哨戒艇、境界海域で演習。空砲十発以上を発射。政府は遺憾の意を表明』
画面には、白い飛沫を立てる哨戒艇と、そのすぐ横を全速で並走する沿岸警備艇。緊張した乗組員たちの姿が映し出されている。
だが、その下に流れるSNSのスクロールテロップは、どこか冷笑的だ。
《遺憾砲では守れない》
《また口だけか》
《海を渡ってくるのは時間の問題》
澪は小さく息を吐き、足を速めた。
この国の政治家たちが何を言おうと、彼らにこの危機を止める力はない。
止められるのは――きっと、自分だけ。
旧港の外桟橋は、老朽化で立ち入り禁止になっている。
木製の板は何枚も剥がれ落ち、支柱は錆びた鉄で補強され、波に揺れて軋む音を立てていた。
『Fragment Finder』は、まるで宝探しゲームのように矢印を点滅させ、澪を先端まで導く。
最後の地点でアプリが誇らしげに《ここ!》と表示した瞬間、澪は膝をつき、海面を覗き込んだ。
深い緑色の水の中に、朽ちかけた木箱の影。
息を整えると、澪はバッグからウェットスーツと小型の防水ライトを取り出した。
潜水用の簡易酸素マスクを装着し、ためらいなく海へ飛び込む。
水中は、ひんやりとした静寂に包まれていた。
ライトの光が、ゆらゆら揺れる木箱を照らす。錆びた鎖を解き、箱を抱えて水面へ。
重みで腕がしびれるが、なんとか桟橋の上に引き上げた。
息を整えながら蓋を開けると、中から銀色のかけらが覗いた――が、それは半分に欠けていた。
「……また半分……」
アプリの画面には、《取得:Fragment #3(50%)》と表示される。
得意げだったアイコンも、今は少し申し訳なさそうに揺れて見えた。
澪は濡れた髪をかき上げ、欠けたかけらを見つめながら呟いた。
「……これも集めれば、衝突を止められる……絶対に」
立ち上がった澪の足元で、桟橋が低くうなるような音を立てた。
気づけば、老朽化した支柱が波に押され、わずかに沈み始めている。
水面が板の隙間からじわりと染み出し、澪の靴を濡らした。
遠くで空砲がまた一発、乾いた音を響かせる。
澪はバッグを肩にかけ、最後に振り返った。
沈みゆく桟橋の上、波間に揺れる木片が光を反射している。
「……もう、戻れないんだな……」
その言葉は、波の音にかき消されていった。