12.接近
二つの島国——セレスティアとヴァルガード。
かつては大洋を隔て、互いに干渉することのない遠い存在だった。
しかし数十年にわたる大陸移動と地殻変動により、その距離は年々縮まっている。今では、海峡の幅はわずか百数十キロ。肉眼では見えないが、双眼鏡を覗けば相手国の海岸線がかすかに映るほどだ。
両国の関係は、表面上は「友好」で塗り固められている。貿易協定、文化交流、外交儀礼——どれも笑顔と握手で飾られる。だが、その水面下では、互いの経済圏の衝突、資源の奪い合い、歴史認識をめぐる軋轢が、静かに燻り続けていた。
そして今、新たな変化が訪れている。最新の観測データによれば、両国間の海峡はこの一年でさらに数キロ狭まった。もしこのペースが続けば——二つの国は、いずれ衝突する。
そのとき何が起こるのか。地理的な衝撃だけではない。経済も、政治も、人々の日常も、すべてが形を変えるだろう。
だが、この事実を日々の暮らしの中で意識する人は少ない。ほんの一握りの人間だけが、近づきつつあるその未来に備えようとしていた——。
夜明け前の海は、重たい鉛色をしていた。
波間に浮かぶ黒い影――それはヴァルガード海軍の主力艦のひとつ、「グラディウス」だった。
全長百五十メートル、厚い装甲をまとい、甲板には二門の大口径砲とミサイル発射管が並んでいる。
その艦が、境界線を示す赤い灯のブイを越えて、わずかに領海内へ入り込み、停泊していた。
沿岸警備隊の巡視艇が警告灯を点滅させながら接近し、甲板上の隊員が拡声器で叫ぶ。
「こちらは〇〇国沿岸警備隊! 直ちに領海を離れろ!」
だが無線から返ってくるのは低い声の短い文だけだった。
「我々は航行の自由を行使している。そちらこそ接近を控えろ」
数秒後、軍艦の艦首に取り付けられた巨大な照明灯が一斉に点灯し、海面と巡視艇を真っ白に焼いた。
海上はまるで昼間のように明るくなり、警備隊員たちは目を細め、舌打ちする。
「完全な威嚇だ……」
背後ではもう一隻のヴァルガード艦が静かに現れ、二隻で巡視艇を挟む形を取っていた。
午前十時。
その映像がテレビのニュース番組で繰り返し流れた。
「政府は本日、ヴァルガード政府に対し、領海侵犯および軍艦の境界海域停泊に関する抗議文を送付しました」
外務大臣が原稿を見下ろし、ゆっくりと読み上げる。
「わが国の主権を侵害する行為であり、即時の撤収を求める」
しかし昼過ぎ、ヴァルガード外務省の報道官が声明を発表した。
『我々の行動は国際法に基づくものであり、抗議は根拠を欠く。必要とあらば、さらなる行動を取る』
その挑発的な言葉が読み上げられるたび、キャスターの表情は険しくなった。
街頭インタビューで、市民の声が次々と映し出される。
「紙切れ一枚で何が変わるんだ」
「このままじゃ飲み込まれる」
「上の人たちは何してるんだ、ただ座ってるだけじゃないか」
やがて国会前では市民デモが始まり、政府総辞職を求めるプラカードが林立した。
SNSでは「無策内閣」「傀儡政権」といった言葉がトレンド入りし、野党は緊急会見で不信任案提出を検討していると発表した。
政局は完全に混迷し、メディアは連日そのニュースを生中継で垂れ流す。
――だが、澪はそのテレビを一度もつけなかった。
この国を救うのは、多勢の無能な政治家たちではない。
「鍵のかけら」を集める使命を知っているのは、自分だけ。
それを託してくれた青年の声だけが、自分を動かす理由だった。
その日の午後、澪は気分転換に近所のカフェへ向かった。
扉を押して入ると、カウンター越しにタカコさんが笑顔を向ける。
「いらっしゃい、澪ちゃん」
注文を告げて席に着くと、タカコさんはコーヒーを淹れながら、ふと海の方へ視線をやった。
「ヴァルガードはね、昔から海の向こうを欲しがってたのよ」
その言葉は、コーヒーの湯気よりも重く澪の耳に残った。
「……どういう意味ですか?」と澪が聞き返す前に、タカコさんは笑って話題を変えた。
「はい、砂糖は二つでしょ」
カップが置かれた音だけが、妙に響いた。
夜。
澪が窓を閉めようとしたとき、外側に貼られた一枚の紙に気づいた。
白い紙に、赤いペンで大きく書かれた二文字――
『警告』
指先が少しだけ震えた。
心臓の鼓動が早くなり、背中を冷たい汗が伝う。
けれど、それでも澪は紙を剥がし、机の引き出しにしまった。
その瞬間、もう後戻りはできないのだと、はっきりわかった。
小さく、しかし確かに唇が動く。
「……怖い。でも……きっと私たち、できるよね」