10.監視者
二つの島国——セレスティアとヴァルガード。
かつては大洋を隔て、互いに干渉することのない遠い存在だった。
しかし数十年にわたる大陸移動と地殻変動により、その距離は年々縮まっている。今では、海峡の幅はわずか百数十キロ。肉眼では見えないが、双眼鏡を覗けば相手国の海岸線がかすかに映るほどだ。
両国の関係は、表面上は「友好」で塗り固められている。貿易協定、文化交流、外交儀礼——どれも笑顔と握手で飾られる。だが、その水面下では、互いの経済圏の衝突、資源の奪い合い、歴史認識をめぐる軋轢が、静かに燻り続けていた。
そして今、新たな変化が訪れている。最新の観測データによれば、両国間の海峡はこの一年でさらに数キロ狭まった。もしこのペースが続けば——二つの国は、いずれ衝突する。
そのとき何が起こるのか。地理的な衝撃だけではない。経済も、政治も、人々の日常も、すべてが形を変えるだろう。
だが、この事実を日々の暮らしの中で意識する人は少ない。ほんの一握りの人間だけが、近づきつつあるその未来に備えようとしていた——。
朝。
カーテンの隙間から差し込む光が、埃の粒をきらきらと照らしていた。
澪は布団の中で丸くなったまま、スマホを手に取る。
昨日撮った港の写真を何度もスワイプしていた。
商店街の通り、港の青い海、防波堤——
そして、その端に小さく写る、黒いコートの人物。
(……やっぱり、偶然じゃない)
胸の奥がひやりとする。
でも同時に——
(これ、青年に見せたら、喜んでくれるかも)
頬が少し熱くなった。
昼前、タカコさんのカフェ。
ガラス越しに入る柔らかな陽射しと、焙煎した豆の香り。
木製のテーブルは少し擦り傷があって、それが妙に落ち着く。
「いらっしゃい、澪ちゃん」
カウンター越しに笑うタカコさん。
澪は少し戸惑いながらも、カウンター席に腰を下ろす。
「この前から、よく外に出てるみたいね」
「え……あ、まぁ……ちょっと」
耳が赤くなる澪を見て、タカコさんは目尻を下げた。
「いいじゃない。なんだか、顔色も明るくなったみたい」
その声には、心底うれしそうな響きがあった。
——このマンションに来てから、澪のことをこんなふうに見てくれる人は、タカコさんだけだった。
そのとき、カフェのテレビからニュースキャスターの声が流れた。
「——ヴァルガード政府は本日未明、新たに防衛艦をセレスティアとの境界海域に派遣したと発表しました。現地では緊張が高まり……」
店内の空気が、ほんの一瞬だけぴんと張りつめる。
澪は思わず手元のカップを握りしめた。
(……近づいてる。何か、始まるのかも)
タカコさんはテレビを横目で見て、すぐに澪へ視線を戻す。
「港のほう、最近パトカーがよく来てるらしいわよ」
澪は迷った末、小さな声で切り出す。
「あの……もしかしたら、変な人に見られてたかもしれなくて」
タカコさんは一瞬だけ、笑顔を消した。
「……そう」
けれどすぐ、いつもの柔らかい表情に戻る。
「大丈夫よ。でも、気をつけなさい」
カフェを出たあとも、その言葉と温かい眼差しが胸に残っていた。
(タカコさん……やっぱり何か知ってる? でも、嬉しかったな)
翌日。
旧港の防波堤で、海風に髪を揺らしながら写真を撮っていた。
シャッター音の合間に、背後で足音がした。
黒いコートの人物——昨日の写真と同じだ。
今度は、はっきり距離を詰めてくる。
(やば……逃げ……いや)
足がすくむ。
でも、不思議と完全な恐怖じゃない。
(これも……青年に報告できる)
心臓が速く打ち始めるのを感じながら、必死にシャッターを切った。
その夜、白い図書館。
長机の向こう、青年が澪の写真を食い入るように見ていた。
「澪、それは“ヴァルガードの目”だ」
「……ヴァルガードの?」
「君の動きを把握して、鍵のかけらを奪うための者たちだ」
澪はごくりと唾を飲み込んだ。
「じゃあ……私が集めきらなきゃ、ですよね」
青年は小さく頷き、地図を差し出した。
「旧港の奥、閉鎖された灯台に行ってほしい」
「……行きます」
自分でも驚くほど迷いがなかった。
(だって……また、あの人に褒めてもらえる)
夜更け、自室の窓。
外を見下ろすと、暗がりに黒い影が立っていた。
その顔がゆっくりと上がり、澪と目が合う。
——次の瞬間、スッと闇に消えた。
背筋に冷たいものが走る。
けれど唇は、震えながらも強く結ばれていた。
「……もう、逃げない」