57.迷いの街道
「……よし、出発だ。このサーモンが力に変わってくれるはずだぞ」
ルークの号令で馬車が動き出す。だが、先ほどの穏やかな空気は、次なる難所『迷いの街道』に足を踏み入れた瞬間に霧散した。
ここは、左右に広がる針葉樹林から常に冷気が噴き出し、方向感覚を狂わせる難所。そして何より、この街道には最悪の「住民」がいた。
「――っ、来るわ! 床下からよ!」
クロエの警告と共に、街道の地面がボコボコと盛り上がり、青白く透き通った巨大な顎を持つ怪物が次々と姿を現した。
「『フロスト・アント』の群れだ! 全員、迎撃準備!」
ルークが叫ぶ。それは一匹一匹が小型犬ほどの大きさがある雪原のアリ。一匹なら敵ではないが、問題はその「数」だった。十、二十……いや、森の奥からは、数えきれないほどの凍てつく羽音が響いてくる。
「……くそっ、統率されてる! ただの虫の動きじゃないぞ!」
アスクの叫びが、氷の甲殻が擦れ合う不気味な音に掻き消された。
フロスト・アントたちは、無秩序に襲いかかってくるのではなかった。前列の個体がトッポの土壁にわざと凍結液を吐きかけて「足場」を作り、その後ろから別の個体が跳躍して、馬車の天蓋へ次々と飛び移ってくる。
「ゆのっち、上だ! 屋根を守れ!」
「分かってるって! ……オッラ!!」
ユノーの斧が、空中で円を描きながらアリを叩き落とす。だが、一匹を仕留める間に三匹が車輪のスポークに顎を割り込ませ、馬車の機動力を削ぎ取っていく。
「アスク、側面が持たないわ! こいつら、私の剣の『引き際』を狙ってる!」
クロエの焦りが伝わってきた。
アリの群れは、クロエが剣を振り切った瞬間のわずかな硬直を突き、死角から波のように押し寄せる。一匹を斬れば、その死骸を盾にして次の二匹が踏み込んでくるのだ。まるで、こちらのスタミナが切れる瞬間を冷徹に計算しているかのような、悪意に満ちた波状攻撃。
(マズい、このままだと完封される……! 奴ら、個体の死を『資材』として使ってやがるんだ!)
アリたちは、仲間の死骸を積み上げて、アスクが展開しようとする魔法の射線を物理的に遮り始めた。クロエの紅蓮の炎を警戒し、あえて距離を保ちつつ、逃げ場をじわじわと狭めていく「包囲陣」。
(……一瞬だ。一瞬でも連携が乱れれば、馬車ごとひっくり返される!)
車体が激しく揺れる。床下からバリバリと木材が砕ける音が響き、アスクの脳内に「全滅」の二文字が最悪の鮮明さで浮かび上がった。
アスクの脳内では、アリが一匹馬車に取り付くたびに、積荷の「損害予測グラフ」が真っ赤に染まっていく。
(一匹でも入り込まれたら終わりだ。あの顎で果実の皮を破られたら、果汁が漏れて残りの鮮度まで連鎖的に落ちる。だが、パーティにこれ以上の負担は……!)
アスクは、思考を加速させる。
目の前はアリの壁。後方もアリ。
一撃一撃は重くないが、数に押されて馬車の進路が完全に止まってしまった。クロエの剣閃も、あまりの数の暴力に「捌ききれない」という焦りが混じり始めている。
前方で剣を振るうクロエの背中が、数百という「数の暴力」にじわじわと押され、馬車に近づいてくる。それを見るアスクの心臓は、警鐘を鳴らすように激しく打ち付けていた。
(考えろ! 安全第一だろ!? 全員が生きて、荷物を届ける……その『最適解』がどこかにあるはずだ!)
焦燥が冷たい汗となって背中を伝う。
大規模な魔法を撃てばアリは一掃できるが、積荷も消し飛ぶ。
ちまちまと個別に狙っていては、先にこちらのスタミナが切れる。
(……一か八かだ。完璧な無傷はもう諦める。だが、『壊滅』だけは絶対に阻止する!)
アスクの瞳に、これまでの迷いを焼き切るような鋭い光が宿った。
「ルーク! 積荷を……果実の一部を犠牲にする許可をくれ! じゃないと、ここを抜けられない!」
「何だって!? だが、これは君たちの報酬にも――」
「全滅したら報酬もクソもない! 損害は最小限に抑える! クロエ!」
アスクはルークの言葉を強引に断ち切り、喉が裂けんばかりの声を張り上げた。
恐怖と焦り。それをプロとしての「冷徹な計算」でねじ伏せ、アスクは勝負に出た。
「その『紅蓮の炎』を全開にして、前方の道を焼き払え! 熱風はオレが水膜で受け止める! 前方に立って、馬車から距離を取るんだ!」
「……分かったわ! アスク、信じるわ!」
クロエが最前線へと飛び出す。アスクは震える指先を突き出し、魔力を注ぎ込んで『水壁』を展開した。
クロエは愛剣を正眼に構え、その身に宿る魔力を刀身へと流し込む。瞬時に、極寒の街道に似つかわしくない、陽炎のような熱気が渦巻いた。
「道を空けなさい……ッ! 『紅蓮ノ剣』!!」
轟ッ! と爆炎が爆ぜた。
クロエが前方へ放った紅蓮の炎が、街道を埋め尽くしていたフロスト・アントの群れを文字通り一気に蒸発させていく。彼女が馬車から離れて前方に立ったことで、その凄まじい熱波が積荷に届くことはなかった。
その直後、アスクが鋭く叫ぶ。
(頼むぞ、アズイン……! お前のその『幸運』に、この旅のすべてを賭ける!)
「アズイン、今だ! 剥いたやつを後ろに投げろ!」
「はいっ! どんどん投げちゃいますね!」
至宝の果実を驚くべき手際で剥き、街道の後方へと次々に放り投げた。
その瞬間、果実から放たれた極上の甘い香りが、冷たい空気の中に爆発的に広がる。
「ギチギチッ!?」
前方のアリがクロエの炎で塵に帰る一方で、側面や後方にいた群れの動きが一変した。理性を失ったアリたちが、馬車を無視して「撒き餌」の果実へと殺到していく。
「今だ、全速力で駆け抜けろ!!」
アズインが投げた果実は、せいぜい10個程度。
そのわずかな犠牲と引き換えに、馬車は「数の暴力」という地獄から解き放たれ、一気に『迷いの街道』の出口へと飛び出した。
「……はぁ、はぁ……。なんとか、抜けたか」
アスクは膝をつき、空になったMPと精神力を絞り出すように荒い息を吐いた。
馬車の前方で剣を振るい抜いたクロエも、肩で息をしながら戻ってくる。
「……アスク、積荷は?」
「……大丈夫だ。前方の炎を君が引き受けてくれたおかげで、熱の影響はゼロ。……ただ、足止めの餌に10個ほど使った。ルーク、すまない。完品じゃなくなった」
アスクが悔しげに報告すると、ルークは馬車を止め、優しくアスクの肩を叩いた。
「いや……いい。あの絶望的な数の群れを前にして、たった10個の損害で済ませたのは、もはや『事故』ですらない。君の判断と、クロエの技、そしてアズインの……何というか、思い切りの良さだ。最高のチームプレーだったよ」
ルークは焦げた残骸のない、瑞々しいままの積荷を見つめて満足げに微笑んだ。
「10個の果実より、君たちが無傷であることの方が、これから私が創る『少数精鋭の同盟』にとっては大きな価値がある。……さあ、顔を上げてくれ。もうすぐだ」
ルークが指差す先、街道の霧が完全に晴れた。
そこには水平線から昇る陽光を浴びて、無数の船の帆が揺れる活気あふれる王都の港――ポート・マーリスの壮大な景色が広がっていた。
「……やっと、門が見えてきたな」
アスクがそう呟いた時、馬車はボロボロの状態だった。
アリの冷気で凍りついた車輪が軋むたびに、不快な音が街道に響く。車体には無数の鋭い引っかき傷が刻まれ、積荷を固定するロープも数本が食いちぎられていた。
馬車の上も同様だ。
クロエは愛剣の鞘にこびりついた氷の飛沫を黙々と落としているが、その指先はわずかに震えている。ユノーは斧を抱えたまま、完全に力尽きた様子で荷台の隅に転がっていた。
「……死ぬかと思った。あんな数のアリ、二度と御免だぜ……」
「ゆのっち、あんたのいびきで、またアリが寄ってくるわよ。静かにして」
クロエの冷ややかなツッコミにも、ユノーは「へいへい……」と力なく返すのが精一杯だった。
そんな疲労困憊の一行の前に、王都の巡邏兵たちが怪訝そうな顔で立ちふさがった。
「おい、止まれ。……ひでぇ有様だな。戦場から逃げてきたのか?」
兵士の一人が馬車に近づき、警戒を強める。だが、アズインがのんびりと真鍮の針を掲げて見せると、彼の顔色が劇的に変わった。
「――っ!? 待て、その針……おい、分隊長! これを見ろ!」
呼ばれた年配の兵士が駆け寄り、アズインの手元を凝視する。
「……間違いない。三波の紋。……嬢ちゃん、これ、どこで拾った?」
「え? 川で釣りました」
兵士たちは顔を見合わせた。驚きを通り越し、畏怖すら混じったような表情だ。
「……運がいいなんてレベルじゃねぇな。提督が二十年も探し続けていた一人息子の形見だ。……お前たち、槍を引け! こいつらは客神様だぞ!」
「客神様……?」
アスクが聞き返すと、分隊長は慌てて整列を指示し始めた。
「提督に直接報告を上げる。門の検査は後だ。おい、この馬車を『ロイヤル・レーン』に通せ! 特急で提督府までエスコートするんだ!」
ルークはその様子を見て、疲れの滲む顔に薄く不敵な笑みを浮かべた。
「はは、面白い。予定していた『賄賂』の予算が浮いたな。アズイン、君を雇ったのは、私の鑑定史上最高の投資だったかもしれない」
「へへ、ルーク、その浮いた分で、美味いもん食わせてくれよな……」
ユノーが寝言のように呟く。
アスクは、傷だらけになった馬車の縁をポンと叩いた。
「……ルーク、報酬の話は後だ。今はまず、この『傷だらけの英雄』を安全なドックに入れてやりたい。……それと、ふかふかのベッドもな」
兵士たちの騎馬に囲まれ、ボロボロの馬車は皮肉にも王族のような待遇で、夕暮れのポート・マーリスへと滑り込んでいった。




