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55. 隻影の正体

馬車の前方は、叩きつけられた巨大な岩塊によって完全に行方を阻まれてしまった。

「――っ、急停止だ! 捕まれっ!」

ルークが全体重をかけて手綱を引く。衝撃で果実が潰れかけるが、アスクは精密な魔力制御で、荷台に厚い水のクッションを張り巡らせてそれを防いだ。

「クソッ、なんてパワーだ。文字通り道が消えちまったぞ!」

「……来るわ。全員、身を低くして!」

霧の奥、道を塞ぐ岩の頂上に、ゆらりと一つの影が立ち上がった。異常なまでに肥大化した右腕を持つネームドモンスター、『隻影せきえいのゴブリン』だ。

「ガアアアアァッ!!」

『隻影』が咆哮し、丸太のような腕を振り上げる。これに付き合っていては、馬車も積荷も粉砕される。

「……は? 嘘だろ?」

アスクの思考回路が一瞬、フリーズした。

霧の奥から現れたのは、小柄で卑屈そうなマウンテン・ゴブリンなどではなかった。そこには、王都の闘技場でもスカウトされそうな、見事な広背筋と大胸筋を誇る「筋トレの鬼」みたいな化け物が立っていたのだ。

(おいおいおい! 筋肉の密度がおかしいだろ! ゴブリンってあんなにパンプアップするものか!? 隻腕って聞いたから油断してたのに、あの残った方の腕、肩からまるで丸太が生えてるような太さがあるぞ!)

アスクの「安全第一」という旅の哲学が、物理法則を無視した筋肉の塊を前にして音を立てて崩れ去る。さらに追い打ちをかけるように、目の前にはデカデカと道を塞ぐ巨大な岩塊。

(道がない!? 冗談じゃない、このままじゃ馬車がスクラップになる! せっかく綺麗に積み上げた果実が全部ジャムになっちまうんだぞ! それだけは絶対に許さんッ!)

パニックに近い焦燥の中で、アスクの脳はフル回転していた。

(回避! 迂回! ……無理か! ならば、強行突破? いや、あの筋肉の持ち主に正面から挑むなんて、自殺願望があるわけじゃないんだ!)

アスクは思考をフル回転させ、瞬時に「安全な回避ルート」を導き出した。

「クロエ、ユノー、アズイン! そいつと雑魚の相手を頼む! 一分でいい、オレに時間をくれ!」

「了解よ、死なせはしないわ!」

「おう、任せとけ! 脳天ブチ抜いてやる!」

「アスク様、わたしはゴブリンを削ります!」

クロエが紅蓮の剣閃で『隻影』の注意を引き、ユノーがリコールを限界まで絞りながら、崖上から迫るゴブリンを斧で迎撃する。その隙に、アスクは馬車の横に広がる「虚空」――切り立った崖の縁へと身を乗り出した。


イメージするのは、強固な城壁だ。それも、ただの壁じゃない。横に倒し、崖と崖を繋ぐ「氷の防壁」を道として架けるイメージ。

(……やれるか? いや、やるしかない! 初めての実戦構築だ、計算ミスは許されないぞ!)

アスクが両手を虚空へ突き出した瞬間、体内の魔力が濁流となって指先へ流れ込んだ。

「凍れ……ッ! 『氷結の架橋アイシクル・ロード』!!」

ドクン、と心臓が跳ねる。

未だかつて経験したことのない速度で魔力が吸い取られていく。視界の端で、自分のMPゲージが恐ろしい勢いで削れていくのが見えた。

(あ、これ、やばい……! 想像以上に持っていかれる……ッ!)

指先が凍りつくような冷気に襲われ、同時に頭の中を焼かれるような熱い焦燥が駆け巡る。氷の結晶が空中に編み上げられ、凄まじい音を立てて崖の向こう側へと伸びていくが、その一寸先は文字通りの「破綻」と隣り合わせだ。

(持て……! まだだ、まだ積荷の重さに耐えられるだけの厚みが足りない! 固まれ、もっと、もっと強固に――!!)

歯を食いしばり、血管が浮き出るほどに魔力を絞り出す。

「トッポ! 氷だけじゃ滑る、補強を頼む!」

「ほっほっほ! 任せなさい。若造の道に『つち』を添えてやろう! 『大地の舗装アース・ペイブ』!」

トッポが杖を振ると、アスクが作った氷の上に、薄く、それでいて摩擦の強い頑強な土の層が瞬時に生成された。氷と土の複合建築――空中に突き出た「仮設の迂回道路」が完成する!

「ルーク、行ける! 突っ走れ!」

「正気か!? ……いや、信じるよ! 行けぇッ!!」

ルークが咆哮し、馬車が空中へと突き出した「氷と土の橋」へ猛然と突っ込んだ。


一方、空中道路の構築が進む中、岩の上ではクロエが『隻影』と対峙していた。

クロエは一瞬で間合いを埋める、鋭い突きで『隻影』の注意を引く。

隻影がその丸太のような右腕を振るう。

ゴォッ、と空気が悲鳴を上げるほどの重圧。

丸太の如き一撃を、クロエは剣の腹で撫でるように受け流す。巨躯の突進を、紅蓮の軌跡が優雅に脇へと逃がしたが、あまりの衝撃に足元の岩が粉砕される。

(……なんて重さなの。でも、攻撃の軌道は単調。右腕一本なら、捌ききれる!)

クロエは冷徹に観察していた。隻影の左肩は完全に欠落し、肉が盛り上がった傷跡があるだけだ。攻撃はすべて右側から。彼女は左側へと回り込み、必殺の間合いへと踏み込んだ。

「これで終わりよ!」

銀色の閃光が、隻影の懐を裂こうとしたその瞬間――。

隻影の欠落していたはずの左肩から、魔力がドス黒い霧となって噴き出し、瞬時に「腕」の形を成した。

「――ッ!?」

それは実体のない、魔力で編まれた「虚像の左腕」だった。油断していたクロエの死角、左側からその魔腕が彼女の胴体を捉える。

「ガアッ!!」

「カハッ……!」

衝撃波を伴う一撃がクロエを直撃した。紅蓮の剣で防ぐ間もなく、彼女の体は木の葉のように宙を舞い、崖際まで吹き飛ばされる。

意識が朦朧とするクロエ。

「クロエさん!」

それを見たアズインが、悲鳴を上げながら駆け出そうとする。

「馬鹿っ、そこは足場が崩れ――ッ!」

アスクが制止しようとしたその時、ガッと鋭い力でアズインの肩を抱き寄せた影があった。ユノーだ。

「危ねぇよアズイン! ……クロエ姐さん、借りるぜ!」

ユノーはMPが枯渇寸前で膝を震わせながらも、倒れていたクロエを背負い上げると、凄まじい勢いで氷の橋を走り抜けた。

その時だった。

アズインが駆け寄ろうとした地点、氷の橋のわずかな窪みに、ヒラリと「黄色いもの」が落ちていた。

昨日、ユノーが補給食として食べたバナナの皮だ。運悪く……いや、アズインの「強運」が引き寄せたのか、それは完璧な位置に配置されていた。

「ガアアアアッ!!」

『隻影』が獲物を逃すまいと、その剛腕を振るいながら氷の橋へ突進してくる。

獲物を背負ったユノーを殺そうと、渾身の力で大地を蹴った、まさにその瞬間だった。

『隻影』の巨大な足裏が、そのバナナの皮を正確に踏み抜いた。

「ゴッ……!?」

ネームドモンスターたる『隻影』の俊敏さも、剛腕も、物理法則の前では無力だった。

凄まじい勢いで滑り出し、バランスを崩した巨体が大きくのけぞる。そのあまりの衝撃と重量が、アスクが必死に構築していた氷の橋の一点に集中した。

バキィィィッ!!

「な、なんだこの音は……!?」

アスクの叫びと同時に、橋の表面に放射状のヒビが入る。

隻影は滑りながらも、その鋼鉄のような爪で橋にしがみつこうと足掻く。そのせいでヒビはさらに広がり、橋全体が悲鳴を上げ始めた。

「今だ、アスクッ!!」

ユノーが背中のクロエを庇いながら、橋の向こう側へ飛び移りざまに叫ぶ。

「……計算外の『幸運』だが、これ以上ない好機だ! 溶けろ、――『蒸気球スチーム・バボール』!!」

アスクは指を鳴らし、ヒビが入って弱体化した氷の基盤へ、一点集中の熱を叩き込んだ。

一瞬で気化した水蒸気が内側から氷を爆破し、トッポの土を支えていた基盤が跡形もなく消滅した。

「ガ、ギ……!? ガアアアアッ!!」

踏みしめた足場を失い、滑りすぎて勢いを殺せなかった『隻影』の巨体は、そのまま空中に投げ出された。

アズインの運気がもたらした「バナナの皮」という一点の綻びが、ネームドモンスターの命運を決定づけたのだ。

霧の深淵へと真っ逆さまに落ちていく隻影。その絶望の咆哮だけが、渓谷に虚しく響き渡った。背後からは、主を失ったゴブリンたちの混乱した鳴き声だけが虚しく響いていた。


追撃する『隻影』を奈落へ落とすための『蒸気球』を放った直後、アスクを襲ったのは、奈落へ引きずり込まれるような凄まじい「脱力感」だった。

「……っあ、が……」

膝の力がふっと抜け、アスクはその場に崩れ落ちそうになった。

指先は震え、視界は白く霞んでいる。脳が、MP切れ特有の「空っぽの重み」を訴えていた。

「おい、アスク! 大丈夫か!?」

駆け寄るルークの声を遠くに聞きながら、アスクは荒い息を吐き、仲間の周囲に視線をやった。

「……はぁ、はぁ……。みんな……無事、だよな……?」

「ああ、なんとかな! 君のおかげだぞ!」

その言葉を聞いて、アスクは初めて全身の力を抜いた。

ルークが安堵の吐息をつく。一方、ユノーは魔力切れで御者台にぐったりと突っ伏していた。

「……なあ。あのネームド、最後に手が生えやがったよな? オイラ、見間違いかと思ったぜ……」

「いや、あれは霧の魔力を集束させた疑似生命体だ。ネームドはやっぱり、オレたちの常識じゃ計れない」

ルークはそう答えながら、興奮した脳を冷やすように冷たい空気を吸い込んだ。隣では、クロエが傷ついた防具を直しつつ、黙って自分の剣を見つめている。その瞳には、敗北の悔しさと、それ以上の「守る力」への渇望が再燃していた。

「……次は、絶対に断ち切ってみせる」

彼女の静かな決意と共に、馬車は「幻惑の渓谷」の出口、わずかな光が差し込む場所へと進んでいく。


バナナの皮という「幸運」と、無理やりひねり出した「初魔法」。

ネームドとの初遭遇という最悪の『事故』を、文字通り心身を削って回避したアスクは、12月の冷気を肺いっぱいに吸い込みながら、心地よいとは言い難い、泥のような疲労感に身を委ねた。


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