53.街道の脅威
翌朝。フラワーガーデンの境界を一歩外へ出れば、そこは湿度の極端に低い12月の乾いた世界が待っていた。
作業用ゴーレムによって積み込まれた「五種の至宝」を前に、アスクは昨日手に入れたパパイヤの恩恵を全開にしていた。
(……空気が乾きすぎている。このままでは、ライチの果皮から魔力が霧散し、マンゴーの瑞々しさが死ぬ)
アスクは荷台に積まれた木箱に対し、指先を高速で躍らせた。
昨日までの彼なら、荷台全体を大まかに水気で包むのが精一杯だっただろう。だが今の彼には、それぞれの箱が求める「最適な湿度」が、指先の研ぎ澄まされた感覚を通じて手に取るように理解できた。
「パパパッ!」と空を打つアスクの指先から、目に見えぬほど微細な魔法文字が、雪の結晶のように箱へと吸い込まれていく。
「……何をしているんだい、アスク?」
ルークが不思議そうに覗き込んだ。
「湿度の固定だ。12月の乾燥した風を遮断し、箱の中だけを常に『朝露に濡れた直後』の状態に保つよう術式を組んだ。グァバの発熱で蒸発した水分を、ライチの冷気で結露させ、循環させる……。オレは、この荷台そのものを一つの完結した生態系にするつもりだ」
アスクの淡々とした説明が終わった後、馬車内には一瞬の静寂が訪れた。ルークやトッポたちが、今聞いた内容の「異常さ」を脳内で処理するための時間だった。
「……ちょっと待ってくれ、アスク」
ルークがこめかみを押さえながら、確認するように言葉を繋ぐ。
「つまり君は、グァバの『熱』とライチの『冷え』という、本来なら荷運びの邪魔でしかない厄介な特性を、逆にお互いを補完し合う『加湿器のパーツ』として組み込んだ……ということかい?」
「そうだ。片方が熱を発し、片方が冷やすなら、その温度差で結露が起きる。魔力制御で誘導し、箱の中に閉じ込めた。オレの手間は、最初に魔力の『循環路』を組むだけだ。あとは果実たちが勝手に鮮度を保ち続けてくれる」
アスクの回答に、ベテランのトッポが呆れたように、しかし最大級の敬意を込めて溜息をついた。
「……恐ろしい男じゃ。普通は熱を抑え、冷気を封じ込めることだけに必死になるものを。エネルギーを相殺させるのではなく、『生態系』として再構築するとは。知力と器用さが跳ね上がった結果、君の思考はもはや職人の域を越えておるな」
「オレにとっては、これが最も効率的で『安全』な運び方だと思っただけだ」
アスクはそう言いながら、自身の指先を見つめた。
パパイヤを食べる前なら、理論は分かっていても、これほど複雑な多重術式を同時に、かつ完璧な精度で編み上げることは不可能だっただろう。
「(……異世界人補正か。この力が、これからの『事故』をどれだけ未然に防いでくれるか、試させてもらう)」
「よし、準備はいい。アズイン、お前は運を味方に、周囲の死角を警戒しろ。ゆのっち、クロエ、道中の安全を頼む」
「応よ! このゆのっち様の剛腕と、アスクの繊細な魔法……最高の組み合わせじゃねぇか!」
ユノーが「オイラに任せな」と斧を軽く回し、クロエが静かに頷いて馬車の横に並んだ。
「出発だ。ポート・マーリスまで、この鮮度をたった一滴も零さずに届けるぞ」
ルークの号令とともに、馬車は冬の乾燥した風を切り裂き、王都への長い道程へと滑り出した。
御者台のルークが愉快そうに肩を揺らした時、それまで騒がしかったユノーが、ふとアズインの横顔を凝視して声を上げた。
「アレ?アズイン、耳の後ろに何か隠れてるね。……鳥か?」
アズインの長く柔らかな髪の隙間から、小さな丸い影がひょこりと顔を出した。
「あ、気づいちゃいました? この子は『キューちゃん』っていうんです。すごく人見知りだから、いつもはこうして隠れてるんですよ」
アズインが愛おしそうに指を添えると、キューちゃんと呼ばれた小鳥は「キュッ……」と小さく鳴いて、再びアズインの髪の中へ潜り込んだ。
「へぇ、可愛い相棒じゃねぇか! でも、そんなに恥ずかしがらなくていいのになぁ」
その姿を見て、アスクは旅の途中でこの不思議な生き物と出会った時のことを思い出す。
(……聖獣、キューちゃん。出会った時は驚いたが、アズインにすっかり懐いてるな。あの小さな体に秘められた聖なる魔力が、彼女の『運』とどう共鳴するのか……)
馬車がフラワーガーデンの境界を越え、乾燥した冬の風が吹き抜ける街道へと進む。ルークは手綱を握り直し、背後のアスクたちへ向けて、これから遭遇するであろう脅威について警告を発した。
「いいかい、ここからは『至宝』の香りに惹かれた連中との戦いだ! 最初の難所、フラワーガーデン周辺には、『クリスタル・ビートル』が巣食っている!」
ルークが叫ぶと同時に、街道の左右から氷の甲羅を軋ませ、10匹ほどの巨大な甲虫が姿を現した。
(……10匹か。串刺しなんてことになったら、クエスト失敗どころか命がいくつあっても足りないな。氷の甲羅か。なら、オレの魔法で熱い水蒸気を叩き込む。『蒸気球』で装甲を脆くすれば、勝機はあるか?)
アスクが指先に魔法陣の構成を練り始めたその時、隣から鋭い熱気が放たれた。
「心配ないわ。私の『紅蓮の剣』で、その装甲ごとブッタ斬ってあげる」
クロエが不敵に微笑み、愛剣に炎の魔力を纏わせる。彼女は迅速な踏み込みで、群れの中央へと突っ込んだ。
「ほっほっほ、若いのう。ワシも後衛からしっかり支援してやるわぃ。氷が滑るなら、足元を少しばかり弄ってやればいいだけのこと」
トッポが杖を軽く叩くと、冬の乾燥した地面に微かな魔力の揺らぎが走った。前衛と後衛、そしてサポート。
クロエの動きは、冬の澄んだ空気そのものを切り裂くようだった。
「シッ!」
鋭い呼気とともに一閃。先頭のビートルが振り上げた巨大な角を、紅蓮の刃が根本からなぎ払う。鉄よりも硬いはずの氷殻が、熱せられた刃の前では飴細工のように容易く融解し、断たれた。
続けざまに彼女は、二匹の突進を最小限のステップでかわし、そのすれ違いざまに腹部の接合部へ剣を突き立てる。
「熱いでしょう? じっとしていて」
冷徹な声と共に魔力を流し込めば、内側から膨張した熱が氷の鎧を爆散させた。パリンッ、パリンッ! と硬質な音が連続して響き、ダイヤモンドダストのような輝きが彼女の周囲を包む。
だが、多勢に無勢。死角から別の二匹が、鎌のような脚を突き出して彼女を挟撃した。
「チッ、二匹抜けたわ!」
クロエは一瞬で判断し、自身の周囲に炎の円を描いて敵を後退させるが、撃ち漏らした個体が加速して荷台へと向かっていく。
「任せろ、クロエ! 『蒸気球』!」
アスクは、逃れた2匹の隙間に高圧の蒸気球を叩き込んだ。氷の甲羅が急激な熱変化で悲鳴を上げ、バキバキと粉砕される。
一方、馬車の後方ではユノーが苦戦していた。
「この野郎! どりゃあああ!」
ユノーが剛腕を振るい、巨大な斧をビートルの脳面に叩きつける。だが、氷の甲羅は鉄より硬く、斧の刃を無情にも跳ね返した。
「クソッ、硬すぎて刃が立たねぇ! まるで岩を叩いてるみたいだぜ!」
「ユノー、そのまま押さえとけ! 狙い撃つぞ!」
アスクはすぐさま指先をユノーの対峙する1匹へ向け、最小限の魔力で一点集中の蒸気を放った。ピンポイントで加熱された装甲が脆くなった瞬間、ユノーの斧が氷を突き破り、中身を粉砕する。
「……ふぅ。よし、一丁上がりだ。鮮度も維持、馬車も無傷。完璧だな」
アスクが額の汗を拭うと、アズインの髪の中からキューちゃんが「キュイッ!」と誇らしげに鳴いた。その声に導かれるように、厚い雲の間から光が差し込み、街道を黄金色に照らし出す。
「助かったぜアスク! まったく、魔法ってのは便利でいけねぇな」
ユノーが照れくさそうに頭を掻く。
倒した十匹のクリスタル・ビートルを前に、ルークが馬車を止め、感心したように声を上げた。
「アスク、少し時間をとってもいいかい? クリスタル・ビートルの殻と魔石は、王都の工房で高値で取引きされるんだ。特に冬場のこの時期のものは硬度が良くてね」
「了解。術式は安定しているから、少しなら大丈夫だ。……オレも手伝おう」
アスクは腰のナイフを抜き、横たわるビートルの死骸に向き合った。アスクのナイフが、迷いなく氷の隙間へと滑り込み、花びらが散るように甲羅が剥がれ落ちる。取り出された「氷晶の魔石」は、傷一つなく完璧な輝きを放っていた。ユノーがその手際の良さに絶句する。
その傍らで、クロエはただ無言で剣を鞘に納めていた。その表情は、勝利の達成感とはかけ離れた、むしろ不満と焦燥に満ちたものだった。
(……二匹。あの程度の動きも捌ききれなかった。もっと速く、もっと正確に動けていれば、アスクの援護など必要なかったはずだ)
クロエは、自分の剣技がまだ「完璧」ではないことを痛感していた。
アスクが蒸気魔法で仕留めた二匹のビートル。その事実は、彼女にとって何よりも許しがたい「不出来」の証だった。
彼女が強さを求めるのは、単なる武芸者としての功名心からではない。
(――もっと、もっと剣速を上げなければ。……このままでは、あの『里の脅威』が再び迫った時、私はまた何もできないまま同胞を失うことになる)
彼女の脳裏をかすめるのは、かつて己の無力ゆえに守りきれなかった故郷の光景だ。
里の仲間を、家族を、かけがえのない同胞たちを救うこと――それが魔法戦士として生きる彼女に課された、譲れない使命だった。
「素晴らしい……。これほど傷のない魔石は滅多に拝めないよ。アスク、君は解体も見事なもんだよ」
ルークの称賛が、クロエの耳には届かない。彼女の視線は、再び街道の先へと向けられていた。
まだ見ぬ強敵との遭遇を、その肉体と魂が飢えたように求めていた。
結局、十匹分の解体は、アスクの器用さとクロエの冷静な手際で素早く終わった。上質な甲殻の破片と、十石の完璧な魔石。これだけでも、今回の旅の路銀を補って余りある収穫だ。
「よし、お宝も積んだ。……それじゃあ、改めて出発だ」
ルークが手綱を握り直し、馬車の空気を引き締める。
街道の先、両側から切り立った崖が迫りくるような地形が見えてきた。そこには、12月の低い雲が地上まで降りてきたかのような、不自然に濃い「霧」が溜まっている。




