50.雨の境界線
榧の森を抜け、宿場町フォーチュン・ウェルへと続く街道の空は、昼過ぎから急速に色を失い始めた。やがて、しっとりとした冬の雨が、深い霧と共に降りてくる。
「あうぅ……降ってきちゃいましたね。アスク様、どこかで雨宿りしましょうか? 私の尻尾、濡れると乾かすのが大変で……」
アズインが耳を伏せ、自慢のふさふさとした尻尾を抱え込むようにして丸くなる。獣人にとって、雨による体温低下と毛並みの不快感は、戦意を削ぐ天敵だ。
「……必要ない。移動効率を優先する」
アスクは足を止めず、右手をわずかに動かした。「上級水魔法」の真髄——二人の周囲だけ、物理法則が書き換えられたかのような空間が形成される。
「えっ……? 雨が、当たらない?」
アズインが驚いて声を上げた。境界線の外側では激しい雨音がしているのに、内側は驚くほど静かで、埃一つ立たないほどに乾いている。
「アスク様、見てください! 溶けて消えちゃいます!」
アズインは子供のように目を輝かせると、恐る恐る、境界線の端へと指先を伸ばした。
彼女の指が「境界」に触れた瞬間、空から落ちてきた大粒の雨が、指先に触れる直前でシュンッという小さな音と共に白い霧へと姿を変えた。
「わあぁ……! パチンって、指の周りだけ雨が真っ白になって消えていきます! アスク様、これ、おもしろいです!」
面白くなったアズインは、境界線のあちこちに指を突っ込んでは、雨粒が触れた瞬間に蒸発し、小さな綿菓子のような煙を上げる様子にはしゃぎ始めた。
「こっちは? えいっ! あはは、やっぱり逃げちゃう! アスク様、私、魔法使いになったみたいです!」
ぴょんぴょんと跳ねながら、透明な壁をなぞるように手を動かすアズイン。その指先からは、絶え間なく薄い湯気が立ち上っている。
その拍子にふさふさの尻尾が揺れ、境界の外へはみ出しそうになる。アスクは無表情のまま、指先をミリ単位で動かし、彼女の動きに合わせて結界の形状をリアルタイムで変形させていく。
「……アズイン、はしゃぎすぎだ。魔法負荷が増える」
口ではそう注意するアスクだが、その瞳は霧の中に消えていく雨粒とアズインの動きを精密に追っていた。
(……雨粒の軌道予測、および対象の不規則な運動への追従。良い水魔法の訓練になる。アズインが楽しそうにしていることで、彼女の心拍数と体温が安定し、結果として風邪を引くリスクが低下する。……これは、極めて合理的な『修行』だ)
アスクは自分の中に湧き上がる「こいつを濡らしたくない」という原始的な保護欲を、必死に論理の言葉で塗りつぶす。
「アスク様、見てください! ほら、ここも!」
無邪気に笑い、境界線の内側でくるくると回るアズイン。雨のカーテンに閉ざされた冬の街道で、二人の周囲だけが、まるで切り取られた温かなサンクチュアリのように進んでいく。
エコロアでウィルやロクが、自分たちを「人攫いに蹂躙された犠牲者」だと思い込み、絶望の淵にいることなど——。
今の二人には、降り続く雨の向こう側の、遠いおとぎ話のようであった。
やがて、叩きつけるようなゲリラ豪雨は唐突に勢いを失い、雲の隙間から差し込む陽光が濡れた地面を反射させた。
辿り着いたのは、豊かな水脈の恩恵に授かる宿場町――フォーチュン・ウェル。
その名の通り、豊かな水脈の恵みによって栄える宿場町は、冬の雨が止んだばかりで、しっとりと濡れていた。
町へと続く街道はぬかるみ、道行く旅人や冒険者たちは皆、全身を濡らし、寒さに震えながら足早に門を目指している。泥で汚れた外套をまとった彼らが吐く息は白く、その表情には疲労と不快感が色濃く刻まれていた。
「へっくしゅん!……やっと止んだか。ったく、火を熾す前から薪も俺もびしょ濡れじゃねーか。これじゃあ準備どころか、乾かすだけで日が暮れちまうぜ」
「ちっ、宿はどこも満員だろうな。このザマじゃあ、風呂もいつ入れるか……」
そんな愚痴が聞こえてくる中、フォーチュン・ウェルの町門が近づいてきた。
石造りの巨大な門には、ずぶ濡れになった門番が二人、うんざりした顔で立っていた。彼らの装備も、雨風にさらされてくたびれている。
街道の向こうから、傘も差さずに歩いてくる二つの影。
一人は見慣れない獣人の若い女性。もう一人は、背の高い細身の青年だ。彼らは周囲の泥を一切気にすることなく、まっすぐにこちらへと向かってくる。
「おい、あんちゃんたち、こんな雨の中、どこから来たんだ? そりゃずいぶん……」
門番が声をかけようとして、言葉を失った。
近づいてきた二人——アスクとアズインは、周囲の誰とも違っていた。
アズインのふさふさとした尻尾は一筋の濡れもなく、まるで太陽の下でくつろいでいたかのように乾いている。着ている服も、革製のブーツも、埃一つ、泥跳ね一つついていない。まるで、どこかからテレポートしてきたかのような、完璧な「ドライ」状態だった。
アスクに至っては、その黒い外套の端すら、雨の湿り気を帯びていない。顔に雨粒が当たった形跡もなく、息は乱れず、その眼差しは周囲の混乱を冷徹に分析しているかのように澄んでいた。
「……は? おい、嘘だろ? お前ら、どこをどう歩いてきたんだ?」
門番のひとりが、自分の濡れた頬を拭いながら、呆然と呟いた。
周囲にいたずぶ濡れの冒険者たちも、アスクたちの姿に気づき、その場の空気が凍り付いた。
誰もが泥を跳ね上げ、水を吸って重くなった革鎧に喘いでいる中で、二人の足元だけが砂埃さえ舞いそうなほどに乾いている。
「俺たちが死に物狂いで雨の中を歩いてきたってのに、なんであいつらだけ……」
「まさか、高位の魔法使いか? そんな芸当、見たことがねぇぞ……」
ひそひそと交わされる言葉は、驚きを通り越して、ある種の恐怖に近い。
冒険者たちにとって、過酷な天候を「なかったこと」にする力は、単なる便利術ではない。それは戦闘継続能力において、計り知れない格差を意味するからだ。
「おい、あの身なりを見ろ。……上級か。それも、相当に場数を踏んだ手練れだぞ」
門番の視線が、アズインの無垢な振る舞いではなく、彼女を守るように一歩前に立ったアスクへと集中する。アスクはそれらの視線を「ノイズ」として切り捨てると、無機質な手つきで通行証を差し出した。
「フォーチュン・ウェルへの入町を希望する。我々は冒険者だ」
その声は、湿気た空気の中で、奇妙なほどはっきりと響いた。
門番は反射的に入町許可証の提示を求めるが、その思考は、今目の前にいる「乾いた二人組」の異様さで完全に麻痺していた。
フォーチュン・ウェルの町門で、アスクとアズインを取り巻く奇妙な沈黙は、門番が絞り出した言葉で破られた。
「おめぇら……今の豪雨の中を抜けてきたってのか? なんでそんなにピカピカなんだ。いや、ピカピカどころか、服の一枚、髪の一筋まで完璧に乾いてやがる。一体どういう手品だ?」
門番の一人が、信じがたいものを見る目でアスクの外套に手を伸ばした。湿り気一つない生地の質感を確かめようとするその指先を、アスクは最小限の動きで、冷徹に回避する。
「手品ではない。落下する雨滴を、接地前に気化・排斥しただけだ」
アスクは、まるで「空は青い」とでも言うような平坦な声で、淀みなく言い切った。
しかし、その精密すぎる説明は、荒事と税収にしか縁のない門番たちの理解を遥かに超えていた。
「はぁ? ……キカ? ハイセキ? なんだ、さっきから難しい理屈を並べやがって」
門番は苛立ちと困惑が混ざった声を上げ、背後の仲間に助けを求めるように視線を走らせた。しかし、同僚たちもまた、あまりに隙のないアスクの佇まいに気圧され、黙り込んでいる。
関われば面倒なことになる。門番の長年培った勘が、そう告げていた。
「……まあ、いい。理由なんてどうだっていいさ。通行税を払うなら、さっさと通れ。そこの、ええと……『綺麗な』お嬢さんもな」
門番は吐き捨てるように言い、指先で街の入り口を指し示した。
アスクは無表情のまま、規定の硬貨を門番の手に滑らせる。受け取った門番は、その手が自分よりもはるかに温かく、そして乾燥していることに気づいて思わず指を震わせた。
「行くぞ、アズイン」
「はいっ、アスク様!」
二人が門をくぐり、フォーチュン・ウェルの活気ある石畳へと足を踏み出す。
背後では、門番たちが「あれはどこのギルドの上級職だ?」「関わるな、空気が違った」と、ひそひそと囁き合う声が雨上がりの湿った風に乗って消えていった。
「……ありゃあ、人間か? 幽霊か何かじゃねえのか」
背後で門番が漏らした呟きは、石造りの門をくぐった瞬間に遠のいた。
人々の喧騒と、街の至る所を流れる水路のせせらぎ。
フォーチュン・ウェルの空気は、雨上がり特有の重たさと、洗い流されたばかりの清涼さが混ざり合っている。
「アスク様、なんだか皆さんにじろじろ見られちゃいましたね。私、何か変でしたか?」
アズインが隣で小首を傾げた。その瞳に曇りはなく、ただ純粋に自分の主人が成した「手品」の余韻を楽しんでいる。
「……少し、やりすぎたようだな」
アスクは周囲の畏怖に満ちた視線をいなすように、吐息を漏らした。
「道中、雨滴を完全に排除し続けるような上級水魔法を行使する人間は、このあたりには少ないらしい。……非効率な真似をした自覚はある」
アスクは無機質な言葉を選び、自らの過剰な保護欲を「技術の誇示」という枠に押し込めようとした。だが、その声には、自分でも気づかないほどの僅かな硬さが混じっている。
「えへへ、でも私、ちっとも濡れなくて、魔法使いのお姫様になったみたいで嬉しかったです!」
アズインはそんなアスクの内心も知らず、自身の服の裾を摘んで軽やかにステップを踏んだ。彼女の屈託のない笑顔は、アスクが費やした膨大な魔力と精密な計算を、一瞬で「価値あるもの」へと変えてしまう。
「……そうか。なら、計算の狂いも許容範囲内だ」
アスクは短くそう応じると、アズインの視線を促すように街の奥へと歩き出した。
「アスク様」
「なんだ」
「……お腹、空きました。あったかいもの、食べられますか?」
アズインはいつもの笑顔を貼り直すと、アスクの袖を軽く引いた。
アスクは短く「ああ」とだけ頷き、彼女を連れて、黄金色の灯りが漏れる宿場町の奥へと進んでいった。




