4@9.消えた二人
「チャンドラ様の屋敷が襲撃されただと!? 一体どこのどいつだ!」
朝の市場に響き渡ったその絶叫は、一瞬で町中の平穏を切り裂いた。
広場に集まった職人や商人、家事に精を出す主婦たちまでもが、手にしたものを置いて顔を見合わせる。彼らにとって、それは単なる「空き巣」などではない。エコロアの守護神に対する、許されざる冒涜であった。
チャンドラは、この町を発展させ、幾度も魔物から救ってきた英雄だ。それだけではない。私財を投げ打って孤児院を建て、怪我をした引退冒険者には支援の手を差し伸べる。住民にとって彼は、強さと慈悲を体現した「聖人」そのものであった。
「あのお方が、Sランクライセンス取得のために町を離れている最中だぞ! その隙を突くなんて、人間の皮を被った獣の仕業だ!」
怒号が飛び交い、広場の温度が一段上がった。人々は、チャンドラがいかに自分たちに尽くしてくれたかを語り合い、その不在を狙った「見えない犯人」への憎悪を募らせる。
しかし、その怒りの渦に、冷や水を浴びせるような一報が舞い込んだ。
「……おい、聞いたか? あの屋敷にいた荷物持ち……アスクと、あの獣人の娘が消えたらしい」
その瞬間、人々の間に不穏な沈黙が広がった。
「アスク? ああ、あのチャンドラ様の居候の……」
「チャンドラ様は、あんな奴にも仕事を与えて、従者の娘ごと屋敷に住まわせてやっていたっていうのに」
疑惑は、榧の枝に火がつくように瞬く間に燃え広がった。
恩を仇で返し、手引きをした裏切り者なのか。あるいは、英雄に守られていなければ真っ先に毒牙にかかるような、哀れな犠牲者なのか。
「どうせ、あの無能な男がヘマをして、人攫いを屋敷に招き寄せちまったんだろうよ」
「可哀想に、アズインちゃん。あんな男に従わなきゃならなかったばかりに……」
住民たちの間に広がるのは、英雄への狂信的なまでの敬愛と、弱者であるはずのアスクに向けられた容赦のない憐れみ、そして侮蔑。
彼らの常識という名の殻の中では、アスクは永遠に「守られるべき弱者」であり、「不運な敗北者」でなければならなかった。町全体がその偏見で塗り固められていく中で、アスクたちの本当の足跡は、冬の風に消されたかのように、誰の目にも映ることはなかった。
■■■ウィル:慟哭 ■■■
「……人攫い、ですか?」
ギルドの酒場を満たす重苦しい空気の中、ウィルは震える声で聞き返した。
英雄チャンドラの不在を突いた襲撃事件。その真相として、町ではまことしやかな、しかし残酷な推測が飛び交っていた。
「ああ、ウィル。あのアスクって男、『荷物持ち』だったんだろ? 獣人の娘を餌に、裏組織に屋敷の手引きをしたって説が有力だ。報酬を受け取って、今頃どこかで高飛びしてるのさ」
酒を煽るベテラン冒険者の冷淡な言葉に、ウィルの頭に血が上った。
「そんな……アスクさんが、そんなことをするはずがない!」
ウィルは激しく机を叩いて立ち上がった。
アスクの瞳を思い出す。それは冷徹なまでに合理的ではあったが、私欲に溺れて仲間を売るような濁った光ではなかった。むしろ、誰もが気づかないような小さな綻びを見つけ出し、黙って修正するような、不器用な誠実さを湛えていたはずだ。
だが、否定すればするほど、別の恐ろしい考えがウィルの思考を侵食し始めた。
(もし……アスクさんが、自分の意志ではなく、裏組織に利用されていたのだとしたら……?)
アスクは駆け出しでレベルが低い。正面から襲われれば、抵抗する術を持たないはずだ。
(アズインさんを人質に取られ、無理やり手引きをさせられたのか? そして、用済みになったから二人とも……)
想像がそこに至った瞬間、ウィルの指先が凍りついたように冷たくなった。
アズインの天真爛漫な笑顔と、彼女を影から支えていたアスクの静かな佇まい。その二人が、今この瞬間も、日の当たらない暗い場所で苦しんでいるのではないか。あるいは、もうこの世には——。
「……僕が、僕がもっと強ければ……!」
ウィルは腰に帯びた、アスクがエンチャントした剣を、壊れんばかりに握りしめた。
かつて共にモンスターと戦い、窮地を救ってくれた仲間。アスクはあの時、自分たちの未熟さを指摘しながらも、この剣を託してくれた。それは未来への希望を託されたのだと思っていた。
「あんなに、あんなに細かく戦い方を教えてくれた人が……あんなに必死にアズインさんを守ろうとしていた人が、こんな終わり方をするなんて、あっていいはずがない……!」
膝をつき、無力感に打ち震えるウィルの頬を、熱い涙が伝い落ちる。
町中の人々がアスクを「裏切り者」と呼び、あるいは「哀れな無能」として切り捨てる中で、ウィルだけが、消えた二人の面影を探して絶望の淵に立っていた。
彼にはまだ、知る由もなかった。
自分が「弱者」だと信じて疑わなかった男が、実際にはエージェントを圧倒し、無事にウェスト・ゲートへ逃げ切ったことを。
■■■ロク:悪態の裏の慟哭■■■
「ケッ、どいつもこいつも『アスク犯人説』か『人攫い説』かよ。おめでたい野郎らだぜ」
エコロアのギルドの片隅で、ロクは荒々しく酒を煽っていた。周囲から聞こえてくるのは、アスクを裏切り者と決めつける声や、非力な犠牲者として憐れむ薄っぺらな同情ばかりだ。同じパーティで泥にまみれ、背中を預けて戦ってきたロクにとって、アスクは「無能」ではあっても「卑怯者」ではなかった。ただ、あまりに実力が伴わない、危なっかしい仲間なのだ。
ロクの脳裏には、数日前にチャンドラ邸に呼び出された時の情景が、呪いのように焼き付いていた。
聖人と慕われるチャンドラは、暖炉の爆ぜる火を見つめ、苦渋に満ちた表情で語ったのだ。
『ロク。最近アスクの従者となった獣人の娘だが……あれは特殊なスキルを持っている。もしかしたら、良からぬ輩に狙われる可能性があるんだ。……今のアスクだけでは、彼女を守り切ることは難しいだろう。君も注意しておいてくれ』
その言葉は、ロクの胸に深く突き刺さっていた。A級冒険者であるチャンドラがわざわざ危惧するほどの事態。それに対し、アスクが太刀打ちできるはずがない。
「……アスクの野郎、結局一人で抱え込みやがって」
ロクは吐き捨てるように叫ぶと、空になったジョッキを叩きつけた。
その怒りは、アスクに向けられたものであると同時に、異変に気づきながらも彼を一人にしてしまった自分自身への、やり場のない憎悪でもあった。
「死んでんじゃねえぞ、アスク……! ぶっ飛ばしてでも、連れ戻してやるからな!」
凍てつく夜の街へと飛び出したロクの背中は、かつての相棒を救えなかった後悔に、重く沈んでいた。
彼はまだ、夢にも思っていない。
自分が「哀れな被害者」だと思い込んでいるアスクが、誰よりも自由に、ウェスト・ゲートの街道を突き進んでいることを。
■■■アルメニア陣営:盤上の撤退と新たな駒■■■
窓の外に広がる王都の夜景を背に、アルメニアの政界を牛耳る大臣は、届けられた報告書を無造作に暖炉の火へとくべた。
「……例の獣人族の娘の誘拐、失敗に終わりましたか」
背後の闇から、感情を排したエージェントの声が響く。チャンドラ邸に侵入し、熟練の衛兵たちを容易く無力化した実力者であっても、その報告には隠しきれない困惑が混じっていた。
「申し訳ございません。対象を護衛していた男——アスクと呼ばれる冒険者の対応が、想定していたFランクの範疇を大きく逸脱しておりました。魔力制御、状況判断力、共に未知数。我々が事前に収集していたデータには、断じて存在しない個体です」
大臣は、揺らめく炎が報告書を灰に変えていく様を眺めながら、静かに笑みを浮かべた。その表情には、激昂も焦りもない。
「ふむ……。まぁ良い」
大臣は重厚な椅子に深く腰掛け、指先を組んだ。
「もともと、あのチャンドラが目をかけていた娘だ。彼が背後に絡んでいる以上、これ以上の深追いは避けるのが賢明だろう。現役A級冒険者の執念を敵に回すのは、現時点での国益にそぐわない。……それに、だ」
大臣は机の上に置かれた別の報告書に目を落とした。そこには、前線で目覚ましい戦果を上げている一人の少女の姿が映し出されていた。
「我が領内に『戦姫』と呼ばれるほどの逸材が現れたという。それほどの『武』が手に入る目処が立ったのなら、未知数のスキルを持つだけの獣人に、今さら固執する必要もあるまい」
「では、追跡は中止でよろしいのですか?」
「ああ。失敗もまた一つのデータだ。あの『アスク』という男、そして獣人の娘……。泳がせておけば、いずれ向こうからさらなる価値を持って現れるかもしれん。今は『戦姫』の懐柔に注力しろ」
大臣は落ち着き払った動作で、テーブルに置かれた最高級のワインを口に含んだ。
「チャンドラとの表面的な友好関係を壊す必要はない。今回の件は、しかるべき『野良の人攫い』の仕業として処理しておけば良い。エコロアの町がどれほど騒ごうと、我々の知ったことではないからな」
闇の中で、エージェントは無言で一礼し、影に溶けるように気配を消した。
国家間の謀略さえも、アスクにとっては「排除すべき効率の悪い障害」に過ぎないのかもしれません。
真実は、誰の想像も及ばない場所へと加速していた。
アスクがすでに彼らの「想定」という檻を突き破り、榧の香る森の奥で、上級魔法をその掌に収めていることを。そして、アルメニアにとって脅威となることを、この時の彼らはまだ知る由もなかった。




