3@9.転移の記憶
ウェストゲートへと続く街道の脇、深い森の木陰で、アスクは浅い眠りについていた。その夢は、彼がこの世界に来た根源的な光景を映し出していた。
アスクの意識は、無数の光の粒子が漂う、広大な虚空に立っていた。そこは、彼が元いた世界でも、今の世界でもない、「世界の境界」だった。
彼の足元から、柔らかな金色の光が立ち上る。光は形を結び、巨大な九尾の狐の姿となった。その体毛は白く、九本の尾はそれぞれが独立した意志を持っているかのように漂っている。
「目覚めたかのぉ〜、異界の迷い子よ」
九尾の狐の声は、無数の魂の囁きが重なり合ったような響きだった。
アスクは、自分が強大な運命の流れに抗いようもなく巻き込まれていることを悟った。
「オレは……なぜ、ここに?」
九尾の狐は、その瞳を静かに細めた。
「ふむぅ……」 九尾の狐は思案するように声を出す。「汝は、『理』を深く理解する者。いくつもの世界の法則と戦略を瞬時に見抜き、実行する類稀なセンスを見込まれ、精鋭として召喚されたのじゃのぉ〜」
アスクは、すぐさま本題に入った。
「類稀なセンス?いったい、何をして欲しいんだ?」
九尾の狐は、その質問に対し、笑みとも取れる表情を浮かべた。
「性急じゃのぉ〜。だが、それこそが汝の強みじゃ」
「汝はただの転移者ではない。世界の崩壊を許すわけにはいかぬ。そして、その崩壊の波は、もはや現地の者では食い止められぬほどに近づいておるのじゃ」
「近い将来、終末戦争が起こる。そのシミュレーションの結果は...汝がSランク冒険者となり、強くなってもらう以外、未然に防ぐ方法はないという結論じゃよぉ〜」
九尾の狐はさらに続けた。
「そしてのぉ〜、汝一人ではない。汝と同じく、終末戦争に備えるべく、優秀な『プレイヤー』が数名、この世界に召喚されておる。皆が同じくSランク冒険者となるクエストを与えられたのじゃ」
九尾の狐は、アスクの胸に尾を向ける。
「召喚するにあたり、特別な力を与えよう。そなたは、どのようなものを欲するのじゃ?」
アスクは、迷いなく答えた。
「オレは...この世界で[○○○○]することはできるか?」
九尾の狐は、その要求を聞くと、予想外だったのか尾を一つ揺らした。
「ふむぅ、そんなものでいいのかのぉ。可能じゃ。他のものは、強力なスキルや職業を求めた者もあるというのにのぅ」
九尾の狐の尾が一本、アスクの胸に触れる。強烈な光が彼を包み込み、アスクの頭には、膨大なデータが一瞬で流れ込んできた。
「だが、残念なことにその膨大なデータをもってしても、Sランク冒険者になるための最も重要な『鍵』は...」
九尾の狐の姿が、光の粒子となって激しく揺らぎ始めた。アスクの意識が、現実世界へと引き戻され、九尾の狐の言葉が雑音に掻き消されていく。
「...そこから先の運命は、汝ら『プレイヤー』が己の力で切り拓くのじゃ」
九尾の狐の姿が霞み、次の瞬間、彼はラビの森の入り口へと転移していた。
「ハッ!」
アスクは激しく息を吐いて目を覚ました。彼の胸元には、九尾の狐が触れた場所が、冷たい氷のように強く脈打っていた。
隣で眠っていたアズインとキューちゃんは、まだ静かに呼吸している。アスクは、冷や汗を拭いながら、あの強烈な記憶を噛みしめた。
(...そうか。オレは、この世界の人間じゃない。異世界から召喚されたんだ...)
彼は、無意識に一人称が「ボク」から「オレ」に変わっていることに気づいた。その瞬間、彼の意識は、「迷い子」から「選ばれた戦士」へと完全に切り替わった。表情には、わずかに異世界にいた時の、達人としての自信が蘇っていた。
「終末戦争……Sランク冒険者になって、強くなる。オレの使命はそこにあったのか」
「オレの」という言葉の響きは、それまでの彼とはまるで別人のようだった。あの壮絶な追跡劇と、リーダーの圧倒的な魔力の前に、彼は自分の「力」の不足を痛感していたが、使命が世界の危機という明確なものになった今、彼の心には強い決意が湧き上がった。
アスクは立ち上がり、ウェストゲートへと続く道を歩き始めた。
■■■閑話■■■
ある晴れた日のこと、チャンドラの屋敷の地下で、ある一人の男がやってきた。彼は大きな革表紙の本を抱え、その名も『タイラー著、これであなたもエンチャント職人』と書かれた一冊を、誇らしげに掲げている。誰もいない、テーブルにソッとその本を置いて出ていってしまった。
デイリーミッションを終えて、一息ついたアスクがテーブルの上に置かれた一冊の本を見つけた。
アスクは身を乗り出してそのページを食い入るように見つめていた。彼の顔には、ずっと浮かんでいる期待と興奮の色が満ちている。
「エンチャントか……」
アスクは独り言を漏らす。
エンチャント――その響きには、冷たい金属に生命の息吹を吹き込み、凡庸な道具を奇跡の魔道具へと変える、抗いがたい魔力がある。私は、その深淵を覗き込み、魅了された一人の狂信者に過ぎない。
私の筆が熱を帯びるのは、単なるエンチャントの記録ではない。それは、魂を焦がす情熱の告白だ。
「初心者の関門?」
私は冷笑する。この道の入り口は、まるで意地悪な守護者のように、最初の大きな壁でチャレンジャーを撥ねつける。
それは、資金繰りの悪夢から始まる。エンチャントの本質は、魔力を安定させ、対象の素材に馴染ませること。だが、そのプロセスは成功を約束しない。
「エンチャントされたミスリルソード」を夢見て、その費用を計算してみろ。
成功率の低さときたら!
最初の試練: 資金。成功するまで、何十本もの凡庸な短剣や練習用の長剣を、炉に放り込む覚悟が必要だ。手元にはろくな金もなく、市場で売っても二束三文にしかならない失敗作の山が残る。
二つ目の壁: 失敗作の悲劇。それは、希望を打ち砕く「凡庸の呪い」だ。
初心者が捻り出す、痩せた魔力では何が起こるか? たとえエンチャントが形になったとて、結果は悲憤慷慨だ。せいぜい「攻撃力+10%」や「耐久力+10%」程度の、まるで気休めにもならない中途半端な恩恵。
そして、この道の真の恐ろしさはここにある。魔力の安定しない初心者には、必ずと言っていいほど、負の遺産がつきまとうのだ。
「攻撃力+10%」の光の裏には、「耐久力-5%」や「疲労度+5%」といった、致命的なマイナス補正が寄生虫のように張り付く。結果、何十時間もかけて仕上げた業物は、実戦では使い手の足を引っ張るだけの、毒にも薬にもならないガラクタと化す。
「光るゴミ」。
市場では誰にも見向きもされず、誰もが欲しがる神剣とは程遠い、ただの不器用な子供の落書きのような武器ばかりを、貴方は量産し続けるのだ。その山こそが、貴方を嘲笑う、エンチャントの道の第二の試練である。
「こんなものに、俺は有り金をすべて注ぎ込んだのか?」と、多くの者はそこで絶望し、夢を諦めてしまう。彼らは、エンチャントの真の魅力に触れることなく、安全な別の職業の道へと戻っていく。
だが、私は強く言おう。
そのリスクを超えろ。
その使い物にならないエンチャント済みの短剣の山こそが、貴方が中級者、そしてやがては真のエンチャント職人へと進化するための、登り段なのだ。
失敗作の山は、貴方の経験値の証だ。一本一本に染み込んだ魔力の痕跡は、貴方が魔力制御の何たるかを学び始めている証拠だ。資金を失う恐怖を乗り越え、実用性のない武器を作り続ける忍耐こそが、貴方の魂を磨き上げる。
いつか、貴方が惜しみなく高価なミスリルソードに魔力を注ぎ、それが閃光を放って
「特別な魔剣」へと変貌を遂げた時、貴方は理解するだろう。
あの初心者時代の資金の悪夢、失敗作の山、それらはすべて、この一瞬の奇跡のための布石だったのだと。
さあ、恐れるな。財布を空にして、再び炉の前に立て。真のエンチャントは、リスクのその先にこそ、輝きを放つのだから。
第一章の過去編、ここに完結。
4月の初投稿から半年以上の苦行を乗り越え、なんとか書き切りました。達成感よりも、安堵感が勝つこの瞬間。とにもかくにも、第二章も全力で走ります!




