38.絶望の紅光
周囲を包んでいたセリスの霧が、まるで巨大な手が引き裂いたかのように、音もなく割れた。
濃い紅色の光が、巨木の空間を照らした。
「遅いぞ、雑種」
そこに立っていたのは、一人の男だった。彼は全身を漆黒の鎧で覆い、まるで魔力を凝縮させたかのような濃い紅色のオーラを放っていた。彼こそ、追跡組織に諜報活動のために雇われたリーダーだった。
男は周囲の霧が晴れたことに対し、何の疑問も抱かず、鼻で笑った。
「くだらない。精霊の威光も、この程度か。そして、貴様ごときが、この古木の根元で、何を企んでいる?」
男の関心は、アスクの魔力的な弱点と獣人族の娘にのみ注がれているようだった。彼はアスクの名前も、この扉の存在も知らない。目の前の光景を、単なる偶然の現象として処理した。
「貴様には、あの獣人族の娘を所有する資格がない。今すぐ引き渡せば、その命だけは助けてやる」
「断る!」
アスクは腰の短剣を抜くと同時に、左手の指先から過冷却の氷の指弾を連続で放った。しかし、男は動かなかった。
男の周囲の紅色の魔力が一瞬にして球状の結界を形成し、アスクの氷の指弾は、何の抵抗もなく空気中で霧散した。短剣での接近戦など、論外だ。
「無駄だ。その程度の力で、俺に触れることは叶わん」
男が片手を振る。それは、まるで魔力の鞭のような一撃だった。
ドッ、という鈍い音と共に、アスクは内臓を揺さぶられるような衝撃を受け、巨木に叩きつけられた。短剣は手から滑り落ち、彼を支えていた右肩は骨が軋むほどの激痛を訴えた。
「アスク!!」アズインが悲鳴を上げた。
男はゆっくりとアスクに歩み寄る。アスクは全身の魔力が完全に抜けた感覚に陥り、身体を動かすことすらできなかった。
男はアスクの首元に、紅色の魔力の刃を突きつけた。
「道具は、道具の持ち場へ戻るべきだ」
その時、二つの満月の光が巨木の中心に収束し、激しく回転していた魔力の壁が虹色の通路へと変貌し始めた。
「扉が開く!」アスクはかろうじて叫んだ。
通路は、微かな光を放ちながら回転している。アスクの残りの魔力では、数秒で枯渇するが、扉の通過条件である「一定の魔力」は、かろうじて満たしているようだった。
「さあ、獣人族の娘。素直に来い。さもないと、この男の命は…」男はアスクを脅し、アズインへ手を伸ばした。
アズインはヒナを胸に抱き、通路へ向かって一歩踏み出した。
通路の表面に、アスクの身体が触れる。通路は彼の魔力を認識し、一瞬だけ強く輝いた。
しかし、次にアズインの身体が触れると、通路の光は一気に弱まり、彼女の周りだけが灰色に沈んだ。
「なっ…」
通路は、魔力枯渇状態のアズインを拒否したのだ。
「フン、なんだ。この光の輪は魔力でできた結界か」男は事態を理解した。「ちょうどいい。貴様が向こうへ行けたところで、あの娘を連れて行く。貴様が、獣人族の娘の誘拐を防げなかったことだけを記憶に刻め」
アスクは絶体絶命の危機に陥った。目の前には、自分だけは通過できる通路と、魔力不足で動けず、敵に狙われるアズイン。
通路は開き、扉の向こうの光がアスクの顔を照らしていた。選択の時が迫っていた。
男がアズインの腕を掴もうとした、その瞬間だった。
アズインの胸に抱かれていたコバルトブルーとホワイトのヒナが、その小さな嘴を大きく開いた。ヒナは、自分と眷属を繋ぐアズインの魔力の枯渇と、アスクへの危機を、獣人族の絆で察知したのだ。
キイイィィィィィィィィッ!!!
それは、超音波のような、甲高く耳をつんざくほどの高周波を帯びた、小さなヒナから発せられたとは思えない鋭い叫びだった。
ゴオオッ、と周囲の魔力の流れが一時的に乱れ、音波は男の紅色の魔力結界をも揺さぶった。
「ぐっ……な、なんだこの音は!」
男は、自分の魔力を通して脳を直接叩かれるような激痛に襲われ、思わず片手で耳を覆い、膝をついてしゃがみ込んだ。彼の周囲の紅色の魔力が、一瞬にして不安定になった。
アスクもまた激しい衝撃を受けたが、アズインとの絆で繋がれたヒナの叫びは、追跡者への攻撃に特化しており、彼は辛うじて意識を保った。
その一瞬の隙。
ヒュオオオオオン!
満月の光を切り裂き、巨大な鳥の影が上空から猛スピードで降下してきた。その鳥は、翼幅が二メートルはあろうかという巨大な猛禽類だった。
「…な、なんだと!?」男が顔を上げようとしたときには、もう遅かった。
巨大な猛禽類は、その強靭な爪でアスクの背中と、アズインの肩を正確に掴み取った。
次の瞬間、鳥は上昇気流に乗るように、虹色の通路ではなく夜空へ向かって一気に飛び立った。
「待て!逃がすか!」
男が立ち上がって魔力を集中させたが、鳥の速度は想像を絶していた。猛禽類は、コバルトブルーのヒナの甲高い叫びを合図に、この危機的瞬間を狙って飛来したのだ。
アスクとアズインは、濃密なラビの森を飛び出し、二つの満月が照らす夜空へと舞い上がった。
地上では、リーダーが悔しげに空を見上げていたが、その瞳には空飛ぶ鳥を追うための手段が映っていなかった。
「くそっ…!あの娘、眷属に空を飛ぶ魔獣を飼っていたというのか…!」
男は、ヒナの甲高い叫び声が、巨大な救助者への合図であったことを知り、激しく舌打ちした。
アスクは、鳥の爪に掴まれたまま、遠ざかる巨木と、今まさに完成しつつある虹色の通路、そして地上で怒りに燃えるリーダーの紅色の魔力を見た。
彼らの逃走は、「ラビの森」の試練を抜け、空という新たな舞台へと移行した。
巨大な猛禽類は、アスクとアズインを遥か南西方へ運び去り、ウェストゲート領に近い山脈の麓に静かに彼らを降ろした。
「はぁ……はぁ……ボクは……無事だ……」
アスクは荒い息を吐きながら、地面に倒れ込んだ。爪に掴まれていた背中は痛むが、生きて逃げ切れたという事実に、安堵が全身を駆け巡った。
アズインは、すぐにヒナの様子を見た。ヒナは、コバルトブルーとホワイトの胴体を縮こませ、超音波の叫びで魔力を酷使したためか、小刻みに震え、ぐったりと目を閉じている。その小さな体には、大量の汗が滲み出ているようにも見えた。
「ヒナ……大丈夫?」アズインは優しくヒナを胸に抱き寄せ、魔力枯渇で動かない自分の体で、僅かな体温を与えようとした。
猛禽類は、彼らを降ろすと、一度も鳴き声を上げることなく、静かに夜空へと舞い戻っていった。その背中には、ラビの森の満月の光が宿っているようだった。
「助けられたな。ヒナの叫びが、あの鳥を呼んだのだろうか。いずれにせよ、運が良かった」アスクはよろめきながら立ち上がり、周囲を見回した。
そこは、ウェストゲート領へと続く街道を見下ろす、山脈の麓だった。追跡組織の集団は、遥か北東のラビの森で足止めを食らっているはずだ。彼らには、一時的な安全がもたらされていた。
アスクはアズインの隣に座り込み、息を整えた。
「ひとまず、生き延びた。あのリーダーの強さは異常だった。今のボクたちじゃ、真正面から勝つのは無理だ。奴らの次の本格的な追跡が始まる前に、安全な場所へ移動する必要がある」
アズインは、ヒナを抱きしめたまま静かに言った。「あんな恐ろしい人たちに、二度と捕まりたくないわ」
「ああ、もう二度と道具にはさせない」
アスクは強く頷いた。
「よし。休んでいる暇はない。敵の捜索範囲が広がる前に動く。ウェストゲート領は近い。人混みに紛れて身を隠すのが最善だろう。ウェストゲートに向かうぞ」
アズインは、アスクの決意に満ちた横顔を見上げた。「わかったわ、アスク様。あなたについていくわ」
彼女は、静かに眠るヒナを見つめた。この小さな命が、自分たちを救ってくれたのだ。
「ねえ、アスク様」アズインはそっと囁いた。「この子に、名前を付けてあげたいの」
アスクは、コバルトブルーとホワイトの独特な霊鳥の姿を見つめた後、少し考えて言った。
「そうだな。響きが強くて、覚えやすい名前がいい」
アズインは、小さなヒナを撫でながら、そっと名前を口にした。
「生まれた時、『キュー』って鳴いたでしょう?だから、キューちゃんにする」
新たな眷属の名と共に、アスクとアズインは、ウェストゲート領へと続く道を歩き始めた。彼らの胸には、巨大な組織への恐怖と、互いへの信頼、そして新しい仲間への愛着が同居していた。
ep.33→ep.38
【ステータスウィンドウ】
アスク
LV:44(ステータスポイント残+9)
AP:0/200(次のLVまで残り3740)
HP:40/320
MP:80/240
SP:90/90
スキル:
- 短剣・中級、
- 水魔法・中級、
- 探知・中級、
- 潜伏・中級、
- 鑑定・中級、
-アイテムボックス・中級
-エンチャント・中級
-インキュベーター・上級
AV:筋力110、体力110、敏捷110、器用70、知力120、精神120




