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33.忍び寄る影

昨夜の熱情的な別れのあと、チカの姿は、当然ながらアスクの部屋にはなかった。彼女は遠征に出るチャンドラの旅立ちを、もっとも近くで見送るだろう。

朝焼けが空を薄紅色に染め上げる中、アスクは屋敷の中庭に立っていた。馬車が数台、厳かに並んでいる。その傍らで、動きやすさを重視した、仕立ての良い皮の軽装。その中に、チャンドラの持つ威厳が垣間見える。部下の冒険者たちに指示を出している。その威風堂々とした姿は、まさしく遠征隊の長であった。

やがて、チャンドラはアスクの方へと歩み寄ってきた。


「アスク、重ねてとなるが、留守の間、この屋敷は自由に使ってくれ。エンチャントの研究でも、冒険者としての活動でも、好きにして構わない。」


チャンドラは、まっすぐな視線をアスクに向け、言い含める。


「屋敷の周りには腕の立つ冒険者たちが見回りしている。彼らには私の名で通してある。何かあれば彼らに伝えればいい。」


その言葉は、アスクが安心してこの地で活動を続けるための、力強い後ろ盾であった。


「ありがとうございます、チャンドラさん。お気遣い、感謝いたします。」


アスクは深々と頭を下げ、顔を上げた。


馬車の準備が整い、チャンドラが乗り込もうとしたその時、少し離れた場所に立つチカの姿をアスクは捉えた。彼女は、まだ夜明けの空気を纏い、チャンドラを見上げている。その一瞬、昨夜別れたばかりの彼女を、もう一度見送るという状況に、アスクは言い知れぬ感情が胸に湧き上がるのを感じた。

アスクはぐっと唇を噛みしめ、その感情を飲み込んだ。そして、チカの背中越しに、馬車に乗り込む直前のチャンドラに向けて、最高の笑顔で大きく手を振った。

高らかに、その声が響き渡る。


「いってらっしゃい! ご武運を祈ってます。」


チャンドラはわずかに振り返り、小さく頷きを返した。そして、静かに馬車が動き出す。馬車の車輪の音が遠ざかるにつれて、アスクはチカとの複雑な繋がり、そして新たな研究への期待を胸に、静かに屋敷へと引き返していった。


■■■忍び寄る影■■■


賑やかな市場の喧騒の中、アスクは肌に纏わりつくような視線を感じていた。


「どういたしましたか、アスク様?さきほどから何度も後ろを向いて。」


隣を歩くアズインが不思議そうに声をかけた。アスクは歩みを止めず、なるべく平静を装って答える。


「いや、なんでもない。…ただ、どうも落ち着かない。」


「落ち着かない?」


「ああ。誰か、つけてきているような気がするんだ。」


アズインは警戒して周囲を見回すが、行き交う人々の波の中に不審な人影は見当たらない。


「まさか。人が多すぎて、分かりませんわ。」


アズインの言葉はもっともだ。だが、その声を聞いても、アスクの背中を這い上がる冷たい予感は消えなかった。探知スキルでいくら探っても空振りに終わる。それこそが、何よりも気味が悪い。


「そうだな。考えすぎかもしれない。」


アスクはそう言いながら、誰にも聞こえないように、そしてその「誰か」にも悟られないように、唇だけで小さく呟いた。


「…でも、影が一瞬遅れてついてくるような、この感覚が、どうしても頭から離れない。」


■■■誤算■■■


屋敷へ戻ったアスクは、アズインにはこれ以上の尾行の件を話さなかった。チャンドラが不在の中、彼女に不安を与えるわけにはいかない。レンジャーであった頃の教訓が、アスクに告げていた。「得体の知れない脅威には、己の能力で対処せよ」と。


アズインが眠りについた真夜中、アスクは静かに屋敷を出た。彼は単独で、チャンドラ邸の防衛線を構築し始めた。

真夜中、アスクはレンジャーの道具を手に、敷地内を音もなく移動した。


アスクは、まず敷地の四隅にある大きな植え込みの奥深くに入り込んだ。そこで彼が取り出したのは、特殊な加工を施したキノコの胞子だった。

アスクは、日中は無色だが、特定の魔力や振動波に反応して微かに発光するよう処理したキノコの特殊な胞子を、敷地内への主要な侵入経路となる生け垣の根本や、使用されていない裏門の錠前周辺に吹き付けた。

アスクの探知スキルは、通常は生物の生命反応や魔法の痕跡を捉えるが、この特殊な胞子は、侵入者が発する僅かな体温や摩擦の魔力を吸収し、それをアスクのスキルが捉えやすい独自の波動へと変換する特性を持っていた。

これらは、キノコに関する膨大な知識を持つアスクだからこそ考案できた、高度で秘密裏の警戒網だった。侵入者が触れたとしても、それがキノコの胞子であることに気づく者はまずいない。


次に、彼は建物本体の出入り口へと向かった。

裏手の勝手口の扉と枠の隙間に、アスクは極小の乾燥キノコ片を挟み込んだ。これは、扉がわずかに開けられると同時に潰れ、一瞬だけ特有の微細な臭気を放つ。アスクはその臭気を察知することで、探知スキルが捉える波動と合わせて、正確な侵入位置を特定できる。


全ての作業を終えたアスクは、自室のベッドサイドで静かに待機した。彼は両手を組み、探知スキルを常時展開し、敷地全体に張り巡らされたキノコの波動に神経を集中させていた。彼は一人で、アズインを守り抜くという孤独な決意に囚われていた。


そして、そのとき。

アスクの意識の中にある広大な敷地の地図の隅に、突如として微かな、しかし明確な波動が光を放った。それは、アズインの部屋の真下にある、ほとんど使われていない地下貯蔵庫の換気口だった。

波動は、人間の体温から発せられたものが、特殊な胞子に触れて変換されたものだ。アスクは即座にそれが侵入者の存在を示すものであることを悟った。しかも、その場所は、アスクが最も警戒を緩めていた地点だった。


「…まさか、地下から…!」


敵は、彼の予想と警戒の更に上を行っていた。奇襲の幕が、静かに切って落とされたのだ。


ep.28→ep.33

【ステータスウィンドウ】

アスク

LV:43(ステータスポイント残+6)

AP:0/200(次のLVまで残り2260)

HP:300/320

MP:190/240←+40

SP:90/90←+20

スキル:

- 短剣・中級、

- 水魔法・中級、

- 探知・中級、

- 潜伏・中級、

- 鑑定・中級、

-アイテムボックス・中級

-エンチャント・中級

-インキュベーター・上級

AV:筋力110、体力110、敏捷110、器用50+20、知力100+20、精神100+20

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