人生には何の役にも立たない知識・思考をつらつらと書くエッセイ集
喫茶店のナポリタン、そして牛乳
喫茶店の定番メニュー、ナポリタン。
濃厚なケチャップソースを纏った、純喫茶には必ずと言っていいほどメニューとして置かれている、スパゲティのメニューの一種である。
知ってる方もいらっしゃるであろうが、ナポリタンは日本独自の料理である。
昭和20年という戦後直ぐの頃、ナポリタンは横浜のホテルのメニューとして開発されたとされている。それから約80年を経た現在では、ナポリタンは喫茶店の定番メニューとして当たり前のように存在するようになった。
同じような喫茶店メニューにミートソーススパゲティもあるが、ナポリタンとそれは一線を画すように思う。ミートソーススパゲティはまだ本国イタリアの空気を残しているが、ナポリタンは日本で生まれ独自の味として広まった。ある意味和風の料理といっても良いのではないだろうか。
ナポリタンの具材は玉ねぎとピーマンとソーセージ。これが定番である。ソーセージの代わりにベーコンが入った、ちょっと高級感のあるナポリタンもあるようだ。だが、私はソーセージを使ったナポリタンの方が、日本的な風情を漂わせていて“喫茶店らしい”と感じる。
ナポリタンの上に、あの定番の緑の筒に入った粉チーズをかけ、フォークでクルクルと巻き取り、口に運ぶ。ふんわりとした粉チーズの香り、その後に鍋肌で焼き付いた香ばしいケチャップの味わいが重なり、口の中が幸せになる。そんなナポリタンは多くの人が好きであろうと思う。
今回は、その喫茶店のナポリタンを自分でも作りたいと試行錯誤した、筆者の思い出話である。
美味しいナポリタンを自宅でも食べたいと、作った事がある人も多いだろう。何せ、材料は簡単に手に入るものばかりだ。玉ねぎ・ピーマン・ソーセージ、ケチャップとスパゲティ(この場合、パスタというのは憚られる)だけで出来るのだ。チャレンジしない手はない。
私もそんな食欲への熱情を滾らせて、学生の頃からナポリタンを何度も頑張って作ってみたのだが、どうしても満足できるナポリタンになった試しはなかった。
どう作っても、それはあの“喫茶店のナポリタン”ではなく、ただのケチャップスパゲティになってしまうのだ。
ケチャップスパゲティ。お子様ランチについているものが定番だろう。ケチャップをその身にたっぷりと纏わせて、やや酸っぱいながら意外と美味しい。お子様ランチと言えばケチャップライスにケチャップスパゲティ、ついでにハンバーグに掛かっているのもケチャップである。ケチャップの味は子供には憧れの味である。
だが私が求めるのはケチャップスパゲティではない。あの、喫茶店で出てくる、大人の味がするナポリタンである。お子様ランチの対象年齢はせいぜい12歳までだろう。その頃の私は既にウイザードリィもプレイしていた大人(※1)だったのだから、お子様ランチの味に胡麻化される訳にはいかなかった。
食に妥協を許さない(つもりの、素人の)私にとっては、いつかあの喫茶店の味のナポリタンを再現する事が小さな目標であった。
私は、ナポリタンとケチャップスパゲティの違いは何なんだろうと悩み、色々と試してみた。
ナポリタンはよく熱い鉄板の上に盛られており、大抵はケチャップが少し焦げている。ならば鉄板で焦がしたケチャップの味が足りないのではないかと思って、ケチャップをフライパンでしっかり火を入れて、やや焦がして作ってみたのだが、それはただの焦がしケチャップのスパゲティであった。意外と美味しかったのだが、求めるあの喫茶店のナポリタンの味では無かった。
次に、ケチャップの量の問題ではないかと思い立ち、ケチャップを少なめにしてみたり、相当多めに入れてみたりして作ってみた。これは(読者の方も予想通り)単にケチャップの味が薄いスパゲティと、べちゃべちゃにケチャップが入ったスパゲティが出来ただけであった。
それでは何か隠し味が入っているのだろう、洋食と言えばウスターソースだと考え、ウスターソースを少し足したものを作ってみた。大さじ一杯ほどのウスターソースを入れると、これはなかなかに美味しく出来たようだ。イメージする喫茶店のナポリタンには叶わないが、ウスターソースを入れてうま味を足したスパゲティは素人料理としては上等で、しばらく私のナポリタンの味となった。
そんなある日。
TVの料理番組でナポリタンをプロの料理人が作っているのを見つけた。
その番組はまさに「ご家庭で喫茶店のナポリタンを作る」と題した番組だった。
白い長帽子をかぶった先生は、ちょうど具材を炒め、ケチャップを投入する段だった。アシスタントが手順を解説してくれる。
料理人の先生「各種具材を炒めたら、ケチャップを加えます」
アシスタント「ケチャップは大さじ6です」
先「しばらく炒めて、ケチャップの酸味を飛ばします。酸味を飛ばすと、まろやかな味になるんですね」
ア「ここがポイントです。スパゲティを入れる前に、ケチャップを炒めて酸味を飛ばします」
おお、成程。そういえば鍋肌で焦がしたケチャップで作った時は美味かったっけ。先生のコツに近づいていた事がちょっとうれしい。
先「しばらく炒めてケチャップの酸味を飛ばしたら、スパゲティを加えます」
先生が茹でたスパゲティをフライパンに加える。手早くケチャップを絡める先生。横にいるアシスタントの女性が解説する。
ア「スパゲティに赤い色が付いて、ナポリタンぽくなってきましたね」
確かに赤くて美味しそうなナポリタンである。しかし、私が良く使うウスターソースを加える気配はない。まさかこのままケチャップだけで味付けするのだろうか、それともまだ何か隠し味があるのか。まさかケチャップの酸味を飛ばしただけで喫茶店の味になるのだろうか。いやいや、それは自分も試した事がある。プロの技がまだあるはずだ。そんなふうに見ていると、料理人の先生は、おもむろに白い液体を取り出した。
料「ここで、この牛乳を大さじ2、加えます」
先生、赤く染まったナポリタンに向かって、躊躇なく牛乳をどばっと投入する。
牛乳……
牛乳……?
牛 乳 ?!?!?!
それを見ていた私は唖然とした。
牛乳。ナポリタンに牛乳。思いつきもしなかった食材である。
ア「ご家庭でも簡単に手に入る、牛乳を使うのが良いですね」
アシスタントもこれが当たり前という雰囲気である。
本当かよ、そんなの美味しいの?? 本当に大丈夫なの???
頭がはてなを一杯出している間に、先生はしっかり絡めた牛乳入りナポリタンを綺麗に盛り付ける。玉ねぎも、ピーマンも、ソーセージも、牛乳を纏っているであろうそれを。
画面いっぱいに映し出されたナポリタン。牛乳入りなんて不味そう……
と思いながら画面を見つめた私は、驚いた。
盛りつけられたその色合いは、濃すぎず、薄すぎない。
ケチャップ色の真っ赤ではなく、程よく朱色に染まったナポリタンがあった。
確かにそれは、喫茶店で出てくるナポリタンに酷似していたのだ。
先「さあ、どうぞお召し上がりください」
ア「先生、凄く美味しいです。まさに喫茶店の味ですね!」
画面ではアシスタントが、先生の作ったナポリタンを絶賛していた。
だが、本当に美味しいのか。
番組なのだから、先生に忖度して美味しいと言っているだけなのかもしれない。
やはり自分で試して、食べてみないと何とも言えない。
疑い深い私は、次にナポリタンを作る時は牛乳を試さなけれればいけない、と決意した。
そんな私に、ついにナポリタンを作る機会が来た。
ある日曜のお昼ごはんに、ナポリタンを作る事になったのだ。
これは自分のみ食べるのではなく、家族の分も作るので責任重大である。
自分の分だけ失敗したなら我慢して食べればいいが、家族の分まで不味かった場合、非難轟轟になるだろう。
そんなリスク(?)を抱えながらも、私はあの牛乳ナポリタンの制作に取り掛かった。
電子レンジでスパゲティを茹でられる、専用容器に水と塩と2束の麺をセット。
レンジをスタートさせると、続いて具材をカット。
レンジが残り5分ほどになったら、具材を炒めだす。
まず玉ねぎ。少ししたらソーセージを投入。最後にピーマンを加える。
そしてケチャップを投入。
しばらく炒めてケチャップの酸味を飛ばす。ここまでは勉強した通り。
電子レンジが音を鳴らし、スパゲティが茹で上がった事を知らせてくれる。
湯切りをして、酸味を飛ばしたケチャップソースに投入する。
フライパンを煽れば、スパゲティはどんどん赤くなっていく。
さあ、ここが勝負どころである。
冷蔵庫からおもむろに、先ほど買ってきたばかりの牛乳パックを取り出す。
パックの口を開ける。計量はカレースプーンだ。おおさじ2杯。
新たな挑戦にドキドキしながら牛乳をカレースプーンに移そうと……
「あっ」
重たい牛乳パックの取り回しに失敗したため、牛乳が勢いよく飛び出してカレースプーンを飛び越える。どう見ても大さじ3杯分は超える牛乳がフライパンの中に入ってしまった。
由々(ゆゆ)しき事態である。ただでさえ牛乳を入れる事はチャレンジ精神旺盛な行為だというのに、レシピの指定以上に入ってしまったのはマズイ。しかし、鍋に入ってしまったものを取り消すことはもはや不可能である。
私は「ええい、ままよ(※2)」と心の中で唱え、フライパンの中をトングでぐるぐるとかき混ぜた。
フライパンの中では、ケチャップと牛乳が混ざり合い、トマトの赤から朱色にソースの色が変化する。牛乳の水分がフライパンの中でじゅっじゅと音を立てた。
するとどうだろう。
フライパンの中から、あの喫茶店のナポリタンの香りが漂ってきたのだ。
先ほどまでは焦がしケチャップの濃厚な、言い換えるとややクドいにおいを発していたケチャップスパゲティが、突然喫茶店のナポリタンの風格を漂わせてきたのである。
私は驚きつつも、牛乳ケチャップが絡まったナポリタンを皿に移す。
白いお皿に盛りつけられたそのナポリタンは、料理番組で見た、あの喫茶店のナポリタンに酷似していた。これは!
驚きながら皿をテーブルに給仕する。例の緑の筒に入った粉チーズも用意済み。
ついに牛乳ナポリタンの実食である。
粉チーズをぱらぱらと振りかけると、チーズとケチャップの混ざり合った香りがふんわりと立つ。もったいぶって、というよりはやや緊張の面持ちで、私はナポリタンを口に放り込んだ。
紛う事無く、それは目指していた喫茶店のナポリタンの味であった。うまい。
ああ、先生を疑ってすみません。アシスタントの人、忖度しているだけだと思ってすみません。これは私の求めていたあの味です。
そんな感慨に浸りつつ、喫茶店のナポリタンを再現した功績を誇らしげに、しかし偉そうにならないよう気を付けて、向かいに座る家族に問いかけた。
「このナポリタン、どう? 美味しいかな?」
「うん? 普通に美味しいね」
その反応に、私は拍子抜けした。
喫茶店の味を再現できた(私基準)というのに、もうちょっとこう、なんというか、もっと良い反応があるんじゃないかと。
だが、そうなのだ。ナポリタンはどこまで言っても「普通に美味しい」普段の食事。特別な日に食べる“ハレ”の物ではなく、普段からある“ケ”の物(※3)なのだ。だから家族の反応は正しい。
特別ではなく、普通に美味しい。それは実は最高の誉め言葉なのだと捉えればいいのだ。
喫茶店の味を再現できたことなど、些細な事だ。
普段の食事がちょっとこだわった美味しい物になる。それだけでいいじゃないか。
ナポリタンは、確かに美味しいのだから。
そんな「喫茶店風牛乳ナポリタン」は、今でもたまに作る定番料理である。
牛乳よ、ありがとう。名前も覚えていない先生、ありがとう。
ご馳走様でした。
(※1)ウイザードリィもプレイしていた大人
むかしむかし。ゲームとは子供のおもちゃであると世の中に認識されていた頃。にも拘らず、FC版ウイザードリィのパッケージには 「ages 13 to adult」 つまり13歳以上推奨と英語で書かれていたのだ。つまりお子様お断り。子供ではまだ私の魅力が分からないでしょ? と宣言されたカッコいいゲームだったのだ。それに託けた学生時代の筆者の大人宣言である。
(※2)ええい、ままよ
なるようになれ、とあきらめるさまを言語化したもの。そのまま行っちゃえ、という感じ。やや古い表現である。こんな表現を使う筆者はもちろんオジサンである。
(※3)ハレとケ
日本では、儀礼的な特別な日をハレ、日常をケとし、明確に区別する文化がある。柳田国男が唱えたそうだ。現代で言えばハレはおせち料理や結婚式のコース料理。ケは普段食べる家庭料理やコンビニ飯と言える。ナポリタンは、普段の生活に溶け込んだ“ケ”の料理に分類するのが妥当だろうと思われる。そう、普段着料理って事さ。
〇 なろう投稿以来、初めてエッセイ部門にて日間1位を獲得いたしました。皆様ありがとうございます!