154 わたしにはもうあなたしか見えない
エリゼ視点
暖かくて強かな手に引っ張られて連れられたのは、先ほどまで騒がしさを着飾っていた団欒のリビング。
慣れ親しんだ椅子に座らされると、みゅんみゅんは一言「楽しみにしていてくれ」とだけ残しキッチンへ向かっていった。
堂々と部屋を歩くその背中には頼もしさが宿っていて、出会ったばかりの頃に纏っていたドジさは完全に消えていた。
少なくとも家事という行動の中からはだけど。
一週間ぶりの食卓、一週間ぶりの料理を頂ける。
あの日の朝までとは違って、今度はその味を堪能することができるんだ。
いつかの日から味わうことを許されなくなった大好きな料理を楽しめる。
そう思うだけで唾液が口内に溢れ始めていた。
ただ、その一週間前っていうのはもう思い出したくもない悍ましい歴史。
屋敷から飛び出した日の夜、わたしはもうみゅんみゅんと一緒に居られないんだと全てを諦めていた。
わたしなんかが彼女と暮らしてたら駄目なんだって、そう理解してしまったから。
高尚なミュエル・ドットハグラに低俗なエリゼ・グランデは相応しくない。
だから、綺麗に生きることを諦めて何もかもをやり直そうとしていた。
世界を崩壊させて存在するかも分からない来世に祈る。
わたしはそんな馬鹿げたことを疑わずにただ信じていた。
無様でもそれを信じたかった。
生まれ変わって綺麗になった体でもう一度あなたを愛したい。
それだけが救いだと思っていたし、現実逃避を選ぶ方が楽だったから。
なのに、あなたはわたしを迎えに来てしまった。
最低なわたしに手を差し伸べてくれた。
夢物語を現実にしてくれた。
愛してくれた。
受け入れてくれた。
強く抱きしめてくれた。
口付けを交わしてくれた。
こんなわたしのことを好きだと言ってくれた。
それが堪らなくて、愛おしくて、迷いの揺らぎを殺してくれた。
叶わないと思っていた恋は遠い昔に実り始めていたんだ。
ああ、わたしはもうあなたから離れられない。
そういう体にされてしまった。
心の根っこからあなたのことが好きだよ。
もう絶対に逃げないし逃がさない。
逃げられないし逃がされない。
あなたもわたしと同じ想いを抱いているのだから。
……。
リビングの奥にあるキッチンから、食器の擦れる音や食材を切り刻む包丁の調べが聞こえる。
フライパンに油が敷かれてパチパチと液体が弾けると、食欲をそそる香ばしさが鼻腔を貫いた。
わたしの位置から見えるあなたは、慣れた手つきで料理をこなしていく。
フライパンで炒め物をしながらトマトのソースをかきまぜるその姿は、まさにメイドそのもの。
俯き垂れた前髪の隙間から垣間見えるその真剣な表情がわたしの体を容易に火照らせる。
感情の昂りは天までの登り詰めてしまいそう。
いつもいつも、あなたを直視していると気絶してしまいそうだ。
少しでも意識を保つために窓の外に目を向けると、庭に見える花壇からは冬の花が空を向いていた。
もうすぐ、冬が来る。
ずっとずっと寒くて、心を冷ましていた暗い季節。
思い返すことが憚られる程に苦手な時間。
だけど、今年は暖かくなりそう。
わたしの隣にはあなたがいるから。
どれだけ肌寒い夜でも、二人一緒なら星空へも海へも世界の果てへだって行けちゃいそう。
きっとその向こう側まで行けるよ。
そんな感じで思考に耽っていると、調理を終えたメイドがキッチンから綺麗な足取りで出て来た。
二人分の料理を運ぶ彼女には、もはや失敗の心配を抱く必要すらもない。
「お待たせ、ご主人様の大好きなオムライスだ」
目の前に置かれたのは真っ白なお皿に乗せられたオムライス。
布団のようにご飯を包む卵には、デフォルメされた可愛い子猫がケチャップで描かれていた。
特大に可愛い。
可愛いの極地。
これはもう誰がどう見ても子猫だと認識できるだろう。
みゅんみゅんのイラストスキルは着実に上がっていた。
「すっごく可愛いよこの猫ちゃん!
このまま冷凍保存しておきたいぐらい。
あの、わたしもみゅんみゅんのオムライスにお絵描きしていいかな?」
「もちろん、ご主人様の絵がないと私は食べられないからな」
「ふふっ、えーそんなにわたしの絵が大事なの〜?」
「大事だ。ご主人様の手が加わってようやく完成だから」
「ふふーん、じゃあエリゼさんがとっておきを披露してあげるね」
メイドはもう一つのオムライスとケチャップの入れられた小皿をわたしの前へ置くと、そのまま隣の席へ着席した。
対面で座り合うよりも隣に座られた方がより接近するためか、心臓がドキドキしている。
温かな体の熱が衣服を超えて緩やかに肌へと届く。
脈打つ血管をよそに、わたしは小さなスプーンでケチャップをすくいみゅんみゅんのオムライスへ簡単な絵を描き始めた。
丁寧さと迅速さを兼ね備えた動きでスプーンを進める。
その最中、少し大きめのふとももがわたしの脚に接触した。
気のせいだと思いながらも、触れる面積がどんどん広くなっていく。
しまいには、柔らかさと筋肉を併せ持つ上半身が、わたしの腰から胸の辺りを包み込むんでしまった。
「みゅ、みゅんみゅん、色々当たってるよ……?」
「嫌?」
「……ううん、全然嫌じゃない」
……。
理性を崩壊させながらも、わたしはなんとか最後の飾り付けを完成させた。
綺麗なオムライスの上に描いたのはもちろん恋人の似顔絵。
完成された料理の味を損なわないように適量のケチャップで済ませたんだけど、かなり良い感じに仕上がった。
うん、わたしもそこそこ上達している気がする。
絵のテクニックを会得したわけでもないし、願望器に願ったわけでもない。
成長の秘訣は、あなたをずっと側で眺めていたことかな。
瞳に焼き付いたその容姿をなぞるようにして描けばいいだけなんだ。
「ありがとう、ご主人様。ふふっ、なんだか照れくさいな」
言葉の通り、あなたはどこか恥ずかしそうにわたしの描いた絵を眺めていた。
喜んでくれたみたいで良かった。
「じゃあ、食べるね」
「ご賞味あれ」
スプーンを手に取り、オムライスへとその縁を突き立てる。
程よく熱が加わった柔らかな卵は、スプーンを吸い込むようにして受け入れていく。
すんなりと本体から切り離すことのできた欠片の断面を覗くと、茜色をした綺麗なチキンライスが見えた。
一口サイズに整えたそれをスプーンに乗せて口元まで持ってくる。
そして、隣からずっと向けられている視線の中、わたしはオムライスを頬張った。
口の中に幸せという概念が広がる。
卵の甘味、チキンライスに込められた具材の塩気、それとケチャップの酸味。
その全てを感じられている。
壊れていた舌は正常に機能していた。
字面ではたったそれだけのことなのに、わたしの心は踊っている。
味覚があることは当然ながら、大好きな人の手料理を味わえるということがとても嬉しかった。
「甘くて……美味しい……」
わたしの知らない間に、こんなにお料理上手になってたんだ。
本当はずっと一緒にいたのに、ずっと食べ続けてきたのに……。
上達していく過程をちゃんと味わいたかった。
みゅんみゅんの成長をもっと近くで眺めていたかったな。
「美味しいよ、大好きな味……とっても、とっても美味しい」
嬉しくて、悲しくて、寂しくて、愛しくて。
そして心はあなたを求めていた。
みゅんみゅんは何も言わずに頷く。
わたしの感想を聞き逃さないよう耳を傾けてくれている。
「また、作ってくれる?」
「いつまでも作り続ける、あなたのために」
わたしのあなたは優しく微笑む。
二人は次の一口を含んだ。
秋の終わり頃、冬の始まり。
わたし達はかけがいのない平凡な日常を過ごした。
綻びた願いをあなたは紡いでくれた。
どこかで狂ってしまった歯車は歪を均すように回っていく。
わたしにはもうあなたしか見えない。
『第五章 戯言は別れを紡いで、真実は二人を結ぶ』 終わり
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