151 ずっと扉を開けてくれていた二人の幼馴染
エリゼ視点
結局、シャウラちゃんが足を拭く為のタオルを用意してくれて、なんとか家に上がることはできた。
玄関を上がると、シャウラちゃんはわたし用と言って、羊を模したもこもこのスリッパを用意してくれた。
姿を消した後もわたしのことを想ってくれていたんだ。
嬉しい、とっても。
ぽかぽかと胸の内側が温かくなる。
素足に触れる羊のスリッパは最高に履き心地が良かった。
シャウラちゃんに案内される形で家の中を進んでいく。
後ろを付いていくんじゃなくて、隣を歩いて一緒に進む。
自然の光がうっすらと入った廊下を、狡猾な少女は清楚な体でゆっくりと進む。
人が持つ歩行速度の平均を大幅に下回る移動は、呪いの器を使用した代償によるもの。
わたしはシャウラちゃんに合わせて隣を歩く。
「それにしても、随分派手にやらかしたな」
「……うん、ちょっとやんちゃし過ぎたかも」
「朝っぱらからお前の濃い魔力堪能させてもらったわ。
で、騎士様には並べたのか?」
シャウラちゃんには全部お見通しだったんだね。
今日街を包み込んでいた魔力がわたしのものだってことも、わたしの夢がみゅんみゅんだったことも。
「ううん、全然届かなかった。
後少しだと思ってたのに、あの人はずっと先を行ってた」
確かに背中は見えていたんだ。
だけど、それは地平線の彼方で微かに揺蕩う蜃気楼。
みゅんみゅんは……わたしの憧れは全盛期を超越した状態でやってきた。
深淵の遺跡の最深部で手に入れた強力な器とわたしの経験を総動員して戦ったのに、体の表面に傷を与えるのが限界だった。
氷による凍結で一度は完全に熱を奪ったりもしたけど、次の瞬間には何事も無かったかのように動き回っていた。
常識も理も通じない無茶苦茶な人。
それがわたしのメイド、わたしが世界で一番愛している人。
「だろうな」
「うん」
久しぶりの会話は早い段階で途切れてしまった。
でもそこに気まずさやいたたまれなさは無くて、あるのは懐かしさを噛み締める余韻だけ。
そう言えばわたし達は色んな会話をしていたなとか、空気感はこんな感じだったなとか。
心地の良いノスタルジーが映像となって脳内を駆け巡る。
思考に浸っていると、部屋に続く扉が見えた。
そこまで長くない廊下は終わりを迎えようとしている。
そして、シャウラちゃんは歩みを止めた。
「……エリゼ、面下げろ」
わたしから見える彼女の横顔は垂れた髪に隠れて表情が伺えない。
口調は最悪だけど、声には優しさが乗っている気がする。
「こんな感じ?」
訳も分からないまま、言われた通りに頭を下ろした。
お辞儀のような姿勢をしているおかげで、見えるのは床の木目だけ。
そんな姿勢でじっと待っていると、体を強く引き寄せられた。
後頭部には暖かな手が、顔には服の柔らかな素材と硬い鎖骨の感触がある。
頭を優しく撫でられながら、ゆっくりと動く心臓の音を聞く。
「……ずっと……ずっと心配してたんだからな」
耳元で低音が囁かれた。
声は体に張り巡らされた神経を辿って全身へ届き渡る。
吐息混じりの本音はむず痒さと過ちに対する後悔を同時に引き起こしていた。
シャウラちゃんとカトレアちゃん。
この二人にどれだけ迷惑をかけていたか、わたしはそれを心臓に刻むべき。
「……心配かけてごめん」
「何してたか洗いざらい吐いてもらいたいが、今日はそういう要件じゃねぇんだろ?」
「うん」
積もり積もったあれからとこれまでの話もしたいけど、それはこれからの時間で喉が潰れるほどできる余裕がある。
今しないといけないのは罪に対する禊。
救えたはずの傷を癒す為に、わたしはここにやって来た。
シャウラちゃんはわたしから離れると、顎先振って先に行けと合図する。
この先に誰がいるのか、そんな分かりきったことを想像しながらわたしは扉を開けた。
扉を隔てた先には、大きな窓から外光が入り込み部屋を照らす清らかな空間が広がっていた。
左手には家の外観に揃えられた白いキッチンがあり、連なるようにして庭へと続く勝手口がある。
右の方向にはリビングが設けられていた。
存分に団欒を楽しめるような家具は一通り揃えられていて、卓上遊戯やスケッチブックなんかも置いてある。
そして、ソファにもたれながらこちらを眺めている大きな体があった。
茶髪の毛先が金色に染められた髪を持ち、欠損してしまった右腕と左膝、そして右目に包帯を巻いている少女。
彼女は、わたしの顔をじっと見つめると徐々にその表情を変えていった。
鋭い目を見開けて、薄い口を軽く開ける。
「え……エリゼちゃん!?」
傷だらけの少女は歓喜と驚きを口にしていた。
もう逃げたりしない。
そもそも、最初から逃げる必要なんて無かったのにな。
落ち着きのあるインテリアで統一された聖域へと足を踏み込み、わたしは口にする。
「ただいま、カトレアちゃん」
「おかえりっ! めちゃくちゃおかえり!!」
カトレアちゃんは呪われた不治の傷を気にすることもなくソファの背もたれに乗り上がると、勢いよくわたしの方へと飛び込んできた。
「おわあっ、危ないよカトレアちゃん」
「エリゼちゃんは絶対受け止めてくれるから心配いらないよ。
それに、この体シャウラちゃんのだから傷付いてもいいんだ」
「おい」
大きな体を抱き締めながら部屋の中を見渡していると、大きな紙に描かれた絵が何枚も飾られていることに気付いた。
簡素な額縁に飾られているそれらは、おそらく二人の描いた風景画。
わたしが知っている頃よりも大幅に上達していた。
そっか、もうわたしとは別の時間を過ごしているんだ。
自分勝手だけど、それが少しだけ寂しかった。
「ごめんね、カトレアちゃん。勝手に居なくなったりして」
「ううん、許す。すっごく許す。
それに、謝らないといけないのは私の方だから。
ごめんなさい、エリゼちゃんの気持ちちゃんと分かってなかった……ごめんなさい……」
「それはわたしが話さなかったからだよ……。
でもありがとう、わたしを待っててくれて」
「うん、ずっと待ってた。
でも、いつか絶対帰って来てくれるって信じてたから、寂しかったのは少しだけ。
おかえり、エリゼちゃん」
カトレアちゃんの涙声につられて、わたしも視界を濡らしていた。
もう一度受け入れてくれた喜びが脈々と湧き出している。
過剰に発生していた罪の意識が本来の値へと姿を変えていく。
ずっと昔に芽吹いた後悔は許されて役目を終える。
カトレアちゃんの暖かさに包まれながら、わたしは今この瞬間を噛み締めていた。
十分に抱き合ったところで、二人をソファに座らせる。
わたしがここへやって来た意味を果たす為に。
「今日は二人の呪いを解く為に帰って来たんだ。
もっと早くにしなくちゃいけなかったことだったんだけど、ごめんね、遅くなっちゃった」
「謝ってんじゃねぇよ。これはオレら三人の責任だろ」
シャウラちゃんの言う通り、これは誰かの一人の責任じゃない。
だとしても、呪いを解消できる力を持つわたしにはそれを怠って来た責任がある。
それをどう償うかなんてのは一つしかないわけで。
何もない空間に手をかざしてその名を呼ぶ。
「来て、シュガーテール。甘いお話を聞かせてよ」
赤黒い光が巻き起こると、それを斬り裂くようにして大剣が目の前に召喚された。
刃で家を傷付かせないよう最善の注意を払いながら、身の丈を余裕で越している大きな剣を抱きしめる。
依然として禍々しい造形を保っているけど、目にするだけで吐き出しそうな絶望はもう襲ってこない。
「二人も見たことあると思うけど、この剣が二人の呪いを解いてくれるはずなんだ」
「知ってるつぅの。そんなのはお前があの遺跡で異形を背負い込んだ時に分かってたんだよ」
「え……じゃあ、なんで……言ってくれれば……」
「大切な女苦しめる幼馴染どこにいるんだ……ば、バーカ……」
「あ……」
同じだった。
三人全員が同じことを考えていたんだ。
わたしが二人を想うように、シャウラちゃんとカトレアちゃんもそれぞれを想い合っている。
こんな簡単なこともわたしは理解していなかったんだ。
ずっと一緒に生活してきたのに、わたしって馬鹿だな。
「だから、オレらのことはもう良いんだ」
「ううん、大丈夫だよ。心配なんていらないんだから」
「エリゼちゃん……流石に無理だよ……。
どれだけ頭を下げられても、これ以上エリゼちゃんを苦ませたくないから」
首を振って否定する。
わたしだって再び絶望を味わうつもりはない。
あんな暗い世界はもう勘弁願いたい。
「わたしはもう苦しまないよ。
誰も苦しませずに何もかもを綺麗に終わらせる方法を見つけたから」
「そういうことか、どうりで顔が晴れてるワケだ。
でも、そいつは無条件っつう訳じゃねぇんだろ?」
こくりと頷き肯定する。
理不尽な契約で課せられた呪いを排除するには、理不尽で対抗するしかない。
それも、とっておきの太陽みたいな理不尽で。
理不尽な不幸があるなら、理不尽な幸福だって存在するんだ。
「呪いを引き受ける代わりに、大切な人の幸せを心の底から願ってあげて。
そして、この大剣シュガーテールにお話を聞かせてあげて。
それで呪いは打ち消されるから」
ついさっきまで繰り広げられていたわたしとメイドの大喧嘩。
その乱闘を振り返って気付いたことがある。
触れるだけで戦闘不能に落とし込む量の絶望が注ぎ込まれるのに、みゅんみゅんは平然を保っていた。
あの恍惚を普通と捉えるのはどうかと思うけど、今は置いておこう。
とにかく、みゅんみゅんが大剣に触れたことで直感したことがある。
『御伽大剣シュガーテール』は幸福を求めているということ。
ずっと気付いてあげられなかったけど、『シュガーテール』はその名の通り甘いお話を求めていたんだ。
それは例えば、誰かが誰かを思う恋のお話だったり。
この剣はそんな人の幸せを望んでいる。
つまり、『御伽大剣シュガーテール』には幸せな感情を与えることで呪いを相殺する力があるということ。
「……それ、ちゃんと根拠あるんだろうな?」
「え、いや、それは多分いけると思う。
直感がそう言ってるから」
「それじゃ駄目だ」
「そうだよエリゼちゃん。
今すぐ試す必要は無いんだから、ちゃんと安全を確かめてからにしよ?」
「うっ、確かにそうかもしれないけど……。
もー!! 二人ともわたしを信じてよ!」
右手でカトレアちゃんの手を、左手でシャウラちゃんの手を掴み強引に剣へ触れさせた。
「ほら! 早くしないとわたしが苦しんじゃうかもしれないよ!」
「やってくれたなエリゼ」
「……エリゼちゃんのこと信じるからね」
多大なる心配の壁を強行突破したせいか、二人から強く非難の視線を感じている。
もし失敗したとしても、たった二人分の負の感情程度まばたきで潰してあげるよ。
なんて口にしたら、今度こそ嫌われるかもしれないな。
「目を瞑ってとびきりの幸せを願って。
幼馴染でも、愛する人でも、憧れの人でも。
なんなら自分の幸せでも良いからね」
今、絶望と憎悪で満たされていたこの器の中には何も残っていない。
だから、おとぎ話のような幸せな願いをシュガーテールに聞かせてあげて欲しい。
今度は光でこの剣を満たしてあげて欲しい。
二人は大剣の柄を握って瞼を閉じた。
重ね合わされた手で柄を強く握りながら光を望む。
シャウラちゃんは誰の幸せを望むのか、カトレアちゃんは誰の幸せを望むのか。
そんな分かりきったことを考えながら、わたしはその時が訪れるのを待った。
……。
光の粒子が発生したり大剣の刃が発光したり、そんな異変が起きることなく時間は進んでいく。
部屋に飾られた時計の秒針が動く音と、三人の微かな呼吸音だけが鮮明に聞こえる。
二人の少女は俯きながら祈る。
……。
「……エリゼ、いつ終わるんだ」
五分ほど経過したところで、長身の体から低めの声が発せられた。
正直な話、わたしもこれが初めての解呪行為だから勝手が分からない。
シュガーテールを介して、二人の願う幸せな感情が流れ込んでくれたりすれば終わりを確信できるんだけど。
「ごめん……それは分かんないかも」
「ばか」
「え、えーっと……二人の入れ替わりが解けたりしてると分かりやすいんだけど。
……って、え? え、えっ? い、今誰が喋ったの?」
体に馴染みのある声と口調が完璧に合致していて気付くのが遅れてしまったけど、もし声の主がその体ならば……。
「あ? オレだけ……ど……って、マジか」
満身創痍で長身の少女は、低めの声でわたしの疑問に答えた。
聡明なシャウラちゃんは事態に気付いたみたい。
つまり、何か特別なアクションが起きる訳でも無く、二人の呪いは既に解消されていた。
判断の容易い魂の入れ替えはいつの間にか解けていた。
おそらく、内臓の機能停止や不治の傷なんかの枷も取れているだろう。
想像していた派手さはやってこなかったけど、これで儀式は完了しているはず。
気付かれることなく不幸を肩代わりする。
それが君の優しさなんだね、シュガーテール。
大剣の柄を握る二人の手にわたしの手を重ねる。
「二人とも、目を開けてみてよ」
言葉に応じて、少女達はゆっくりと瞼を上げる。
潤いのある瞳が世界を覗く。
「うおっ、視界がたけぇ」
「うわぁっ、視界が低い」
二人の第一声はなんだか面白い感じだった。
長い間体が入れ替わっていた人は、元の体に戻ったときまず視界の違いに驚くのか。
今後使うことのない知識が増えてしまった。
思い出としてはちょっとだけ特別かも。
元通りになった二人を見て、自分の責務を果たせたことを実感する。
もう二人に辛い思いをさせずに済むんだ、なんて考えていると二人の視線がこちらを向いていることに気付いた。
「エリゼ、苦しくねぇだろうな?」
「エリゼちゃん痛いところない?」
わたしはこの二人を対等な幼馴染だと思っていたけど、もしかすると保護者なのかもしれない。
「大丈夫っぽい……かも……?」
昨日まで共に過ごしていた酷い絶望は感じない。
頭蓋を割って脳へ直接打ち込まれる釘のような痛み。
強酸を一気飲みするような熱さ。
そんな複数の苦痛も襲って来ていない。
これはもう完全に解呪成功だと言える。
曖昧な返事をしたせいか、二人はじっとわたしの顔を覗き込んできた。
「ちょっ、ちょっと! そんな見つめないでほしいな。
ほ、ほら、もっと自分の体心配してあげた方がいいし!」
シャウラちゃんはわたしの目の前から体を引くと、首を回したり体を撫で回したりして存在を確かめ始める。
カトレアちゃんは肩を揉みながら自分の体を見下ろしていた。
「なんつーか、不思議な気分だな。
自分の体に戻ったのにしっくり来てねぇ」
「私も肩が軽過ぎる気がする……シャウラちゃん、それ返して欲しいな」
「馬鹿、これはオレのだ」
微笑ましいやり取りは、各々生まれ落ちた時に与えられた器からしっかりと聞こえていた。
魂と肉体が調律されて、言葉と声の波長が重なり合っている。
「後は傷を治療するだけだね」
呪いが解けたからここでおしまいというわけにはいかない。
むしろ、ここからが本番なんだ。
欠損したシャウラちゃんの肉体のような、呪いによって失われた機能は変わらずに状態を維持している。
今はただ、怪我や病気が治るようになっただけ。
何もかもが元通りになったとき、ようやくわたし達は歩くことができる。
「治療って言っても、シャウラちゃんの腕と脚と目玉ぐらい?」
「カトレア、お前も内臓とか死んでるっつぅの」
二人は向き合って次の段階を相談している。
どの部分から治療するか。
二人の力で完治させられるか。
そもそも内臓動かす魔術なんて知らない。
いっそのこと聖女様を頼るか。
わたしとしては一番最後に出てきた案を推したい。
セレナちゃんは、体のほとんどを失って死ぬしかなかったわたしを救ってくれた。
彼女なら巧みな治癒術で呪いの残滓を片付けてくれるはず。
「わたしは聖女様に頼った方がいいと思う。
あの子なら完璧に治療してくれるから」
「そうだね。明日にでも会いに行ってみようかな。
聖女様って会うの久しぶりかも。
どうしよ、シャウラちゃんが浄化されちゃったら」
「あー、ありえるな。笑顔の練習とかしとくか」
「いや全然ありえないよ!
セレナちゃんは天使みたいな女の子だから!!」
「ふふっ、エリゼちゃんがそこまで言うなら安心だね。
えっと、じゃあこの後どうする?
お菓子でも作ろうか?」
「あっ、どうしようかな」
即答できなかった。
脳内で思考が走り回っている。
屋敷に帰りたい。
だけど、今まで逃げて来た分のお返しを二人にもしてあげたい。
今屋敷を離れても、みゅんみゅんなら必ず許してくれるはず。
でも、本当は今すぐにでも大好きな人の胸に飛び込みたい……。
「それはまた今度だな。エリゼ、お前もう帰れ」
言い淀んでいると、シャウラちゃんがなかなか棘のある言葉を口にした。
今の一文をそのまま受け取るとかなりショックを受けることになるけど、これはシャウラちゃんなりの優しさだった。
わたしが何に葛藤しているか、それを理解しているからこその言葉だから。
「うん、そうだね。
呼び止めちゃってごめんね、エリゼちゃん。
よく知らないけど、今日はもう疲れてるんじゃない?」
「……そうだけど」
「屋敷でメイドも待ってるんじゃねぇのか?
待たせるのはオレらだけにしとけよ」
「ふふっ、そうだね。
エリゼちゃんまた家に来てね。
ここはいつまでも三人の家だから、待ってるね」
視界が滲む。
もろくなってるな、わたしの涙腺。
わたしはこんな陽だまりを自ら蹴って深い闇の方へ向かってしまっていたんだ。
もう一度ここへ戻って来られるなんて考えていなかった。
嬉しい、心の底から喜びを感じている。
もう、絶対に手放さない。
「分かったよ、また帰ってくるから。
ありがとう二人とも」
「感謝するのはオレらの方だっての。
……ありがとな、エリゼ」
「ありがと! エリゼちゃん!」
今なら分かるかも。
あの時逃げずにちゃんと対話をしていれば、シャウラちゃんとカトレアちゃんは応援してくれたはずだって。
夢を追いかけるわたしの背中を押してくれたんじゃないかって。
でも、そうなると独り夢を追い続けるわたしは二人に負い目を感じて壊れていただろうな。
難しいな、生きるのって。
わたしの運命、結局どこかで躓くようにできているのかもしれない。
「そうだエリゼ、帰る前にお前に渡す物があるんだ。
カトレア、アレ取って来てくれるか」
「あー……アレだね。了解」
そう言うと、カトレアちゃんは颯爽と廊下へ出て行った。
階段を駆け上がる音が聞こえてくる。
良かった、体の調子は良いみたいだ。
色々心配は絶えないけど、あの身のこなしならすぐにでも本調子に戻るはず。
……それで。
「なにアレって?」
「忘れ物だよ、エリゼの」
シャウラちゃんは不敵な笑みを浮かべる。
偽物全開の笑顔を作ると、とうとう何も言わなくなってしまった。
どう考えても悪巧みをしているようにしか見えないし実際そうなんだろうけど、カトレアちゃんが手伝う辺り直感に対する信憑性が欠けている。
忘れ物ってなんだろう。
自分の荷物は例外なく持ち運んだと思ってたんだけど。
わたしの寝姿を収めた写真とかじゃないだろうな。
あるいは家出直前に食べ残していた残り物とか。
あれこれ考えている内にカトレアちゃんは戻って来た。
何か大きなものを抱えて。
「エリゼちゃん、これ預かってたやつ」
そう言いながら、清楚な少女はどこかいかがわしいグッズを差し出した。
それは記憶の深海に沈んで思い出すことすら阻まれていた裏世界の物体。
無論、今のわたしには必要の無いないものだった。
なぜなら、わたしにはもう本物が側にいてくれるから。
そう……だからそんな物は焼却炉にでも突っ込んで灰にしてくれればよかったのに。
今更どうぞと渡されても、わたしはこれをどうすればいいのか分からない。
『等身大ミュエル様抱き枕非公式』
いつかの日に目が眩んで購入してしまった最低で低俗な安眠及びその他諸々の役割を持つ抱き枕。
カトレアちゃんは柔らかな笑顔を保ちながらそれを持って来てしまった。
「ど、っどどどどおおおああ、あああぇええなっなっななな」
声は言葉にならず驚きを表現するだけの波と化している。
弁明も拒否もままならないまま時間だけが過ぎていく。
停止した世界の中で……わたしは手を伸ばしていた。
抱き枕へと。
等身大の名前に相応しい大きな物体を受け取ると、固唾を飲みながらそっと脇に抱えた。
できるだけのおすまし顔を作って、わたしは感謝を伝える。
保管してくれていてありがとうと。
「ふっ……ありがと二人とも」
「いや、流石に無理だぞ。
今更良い感じの雰囲気出しても、三秒前の荒ぶり方は塗りつぶせねぇから」
……。
「じゃ、じゃあ行くね!
シャウラちゃん、カトレアちゃん、わたしまた帰ってくるから!」
「またね、エリゼちゃん!」
「今度は恋人も連れて来いよ、エリゼ・グランデ」
こ、こここここ、恋人!?
ななな、なんでそれをシャウラちゃんが知ってるの!?
だ、だってついさっき成されたわたしの夢の一つなわけで、もしかしてシャウラちゃんってば心を読めるタイプの幼馴染だったりするの。
これ以上わたしの情緒を破壊しないで欲しいんだけど。
っと、いけないいけない、ここで動揺しても悪戯好きな彼女を喜ばせるだけだ。
去り際はぐらいはクールに決めないと。
「わっわわ、分かったよ。ちゅ、ちゅぎ……次来るときは紹介するね」
「噛み過ぎ、あと顔真っ赤」
「じゃあねバイバーイ!!」
わたしは颯爽と部屋を出た。
とは言え、限界を迎えていた体はもうどう足掻いても走れない。
姿勢を落として空気抵抗を下げることで精一杯だった。
「恋人……恋人って? え、エリゼちゃん彼女できたの!?」
「多分な」
「それって、ミュエルさんだったりするのかな?」
「あのデカ女以外いねぇだろ」
「でも、じゃあエリゼちゃんあの抱き枕困るんじゃ?」
「困るだろうな。オレもマジで持って帰るなんて思ってなかったし」
「……エリゼちゃん、変態気味なところは変わってないんだね」
……わたしは勢いよく飛び出た部屋へと戻っていた。
扉を開けて叫ぶように言う。
「変態じゃなくて純愛だからっ!!」
それだけを残してわたしは家を出た。
疲労困憊の体は足腰をガタガタと振るわせて住宅街を歩く。
片腹に抱き枕を抱えて……って、これで変態じゃないって無理があるのでは……。
この抱き枕どうしよ……。
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ありがとうございます!




