148 おはよう、わたしの大好きな人
エリゼ視点
視界が暗い。
全てを閉ざす完璧な黒とまではいかず、日光を透かした赤が混じっている。
瞼を開ければ世界に迎え入れられる。
だけど、もう少しこうしていたい。
後頭部を支えている柔らかさと硬さを兼ね備えた究極の枕。
つまりは愛する人の太ももを堪能していたい。
なんか、前もこんなことがあったな。
いつかの日、わたしはこの幸せを味わったことがある。
……。
……とても大切な夢を見ていた気がする
悲しくて嬉しくて寂しくて、それで幸せだった夢。
だけど、その全貌を何一つとして覚えていない。
夢なんていつもそんな感じだ。
大雑把な印象が漠然と残るだけで重要な部分は欠け落ちてしまう。
覚えておかないといけない何かだったはずなのに、何も思い出せない。
心が半分消えたみたいな、そんな空白を想わす感覚だけが残っている。
体が重い。
百年ぐらい眠っていたかのように重い。
信じられない程の疲労が蓄積している。
それこそ、一度死んだかのような気怠さが。
少しだけ寒い。
わたしが降らした雪は厚い層となって周辺に積もっている。
でも、火照りが未だに治っていない体にはちょうど良いかも。
冷たくって気持ち良い。
晒した肌は雪のおかげで爽快かつすっきりとしていて、おまけに頭の裏はもちもちとしている。
そして、心の内からはすっかり闇が消えていた。
わたしに課せられていたしがらみが悉く消えている。
呪いによって蝕まれていた体はいつかの遺跡で消失したはずの『普通』に戻っていた。
「ご主人様、起きてる?」
「まだ寝てるよ」
寝返りを打つように体を捻って、メイドの下腹部へ顔を埋めた。
ああ……やっちゃった……。
顔面が太ももで潰れている。
今、わたしは尋常じゃ無い程の最低を犯している気がするけど、それに見合った物凄い量の幸福を感じている。
正真正銘の幸せがわたしの心に灯り始めていた。
それはつまり、シュガーテールの代償が消えていることを示していて。
感情を貪り絶望へと変換していくあの不健康まっしぐらな代償が無くなっている。
まさかそんな重要なことをみゅんみゅんの下半身で理解させられるとは思っていなかったけど。
でも、どうして呪いが解けたのかは分からない。
恋の焔がそうさせたのか、はたまた何か別の奇跡が起こったのか。
何も分からないけど喜ぶべきなのは分かる。
悲しんじゃいけないのは分かる。
幸せを噛み締めるついでに鼻からたっぷり息を吸い込んでおいた。
「石鹸の匂いしかしないと思うけど……」
「うん、すっごく良い匂い。お風呂入ってきたんだね」
みゅんみゅんの言う通り清涼で清純で清潔で清メイドな粒子が鼻を劈く。
……石鹸の香りの中に汗の匂いが混じっているのは秘密にしておこう。
ただ、その香りも不快に感じることはなく、むしろもっとこうしていたいというふしだらな欲求が駆り立てられてしまっている。
って、何変なこと考えてるんだわたし。
そういうのはもういつでもできるんだ。
だから、そろそろ起きよう。
いくら頑丈なメイドとは言え、これ以上雪の上で座らせておく訳にもいかないし。
枕代わりの太ももに名残惜しさはあるけど、わたしはみゅんみゅんの下半身から顔を離す。
体を起こそうとした直後、体を思い切り引き寄せられた。
晴れかけた視界は再び暗闇へと誘われる。
頭を左右から包み込む比較的柔らかめな感触から、胸に顔を埋めていることだけは理解できた。
「むぎゅっ!?」
「い、今は駄目だ! だらしない顔してるから、見られたくない……」
「だらしない顔って!? すっごく見たいんだけど!」
「顔が赤くなってるだけだっ!」
生憎衣類の質感の感触感じ取れないけど、ぎゅっと抱きしめられたわたしの頭はあろうことか彼女の両胸に包まれている。
赤面見られるよりこっちの方が恥ずかしいと思うんだけど、いいのかな。
……いや、待てよ。
これ、嘘だ。絶対嘘だ。
わたしのメイドは赤面どころか、ふにゃけきった顔をしているに違いない。
ふにゃふにゃに崩れた表情を晒しているに違いないんだ。
凛々しい以外の顔ができないと噂されているミュエル・ドットハグラの可愛い顔が見たいよ。
なんとか拘束から逃れようともがくが、両胸の圧と頭を抱える腕で強く縛り付けられている。
この女、強すぎる。
加えて、わたしの本能がこの状態から逃れたくないと低俗無粋な電気信号を全身に伝達していて、上手く力を入れることができない。
ここはみゅんみゅんの意思を尊重して抱きしめられておこう。
……それにしてもお風呂か。
経験したばかりの夢どころかここ数日の記憶すら曖昧なわたしな訳だけど、わたし、ちゃんとお風呂入ってたのかな。
絶望に呑まれる瀬戸際でそれどころじゃなかった気もする。
その上、この大喧嘩で血と汗を嵐のように流してしまった。
もしかしてわたし……臭いのか……。
「ねぇ、みゅんみゅん……わたし……臭い……?」
「特に匂いはしないけど」
「こう、頭をすんって感じで嗅いでくれないかな?
なんか、ちょっとだけめちゃくちゃ気になるかも」
「どっちなんだ、それ」
みゅんみゅんがそう言うと、頭頂部に熱が近付いた。
この世で一番安心する体温を感じる。
そして、ここでようやく寝ぼけていた脳みそは覚醒する。
あれ、これもしかしてかなり恥ずかしいことをさせているんじゃないか。
これまでだって幾度も密着状態に陥ったことはあった。
幸せで気絶する直前なんて零距離界の頂点に君臨する零の中の零を体験したばっかりだし。
そう、わたしは人生一度きりの初キスをお見舞いした上に粘液を交換したんだ。
なんだか低俗で下品な感じだけど、わたしの中では高尚で至高の幸福だった。
って……わたし、ほんとにキスしちゃったんだ……。
危険だ……幸せで死ぬ……これ以上気絶する訳にはいかないのに……。
勝手に脳内お祭り状態を繰り広げていると、すんっと匂いを嗅ぐ音が耳に入ってくる。
そして、息を詰まらせてしまったような音が頭上から聞こえてきた。
「んぐっ、くっさぁ……くはない……。
汗の匂いはするけど、密着して嗅がないと分からない程度だ……だから、もう一回だけ……すん……」
……あ。
……ああ。
あああああああああああ!!!
精神世界は阿鼻叫喚に天変地異。
失態だ、大失態だ。
いくら脳が機能していなかったとはいえ、最愛の人に嗅がせることないだろうに。
人生で一度だけ過去へ戻る機能があるのするならば、わたしは今この瞬間に一分前へと遡っているだろう。
好きな人の前だから叫ぶこともできないわたしは、メイドの胸の間に埋まって呆然とするしかなかった。
「帰ったらお風呂入りたい……」
「お風呂は掃除してあるから……すん……すぐに入れると思う……すん……。
それで……すん……お風呂から出たらご飯にしよう……すんすん……」
「それ、めちゃくちゃ良い。
なんか、想像するだけで最高過ぎるかも。
懐かしくてちょっと泣きそうだよ……あと、嗅ぎ過ぎだと思う」
わたしの体内にだけ夏が訪れている。
羞恥の極みと来たる安寧への焦がれが体に熱を与えている。
何年も忘れていた喜びって気持ちが一斉に押し寄せている。
絶望を患っていた頃がもう遠い昔のよう……は流石に言い過ぎか。
ただ、幸せに浸る中で一つだけ気掛かりが発生した。
掃除……。
何故かその単語が耳の奥で引っ掛かる。
変哲皆無なその言葉。
だけど、やけに気になる不思議な言葉。
その答えは少し思考を巡らせてみるとすぐに表に出てきてくれた。
「ねぇ、みゅんみゅん。わたしが留守にしてる間も家事やってくれてたの?」
何気無い疑問は日常に紛れて放たれた。
どこにでも存在し得るその会話は、わたしにとっての最重要。
みゅんみゅんの答え次第で、わたしの過去は色を得る。
わたしを抱きしめる腕がふわりと緩くなった。
少しの不安を馳せてわたしは見上げる。
ゆっくりと視界が上げていくと、優しく笑うメイドの顔があった。
「もちろんだ、メイドだからな。
今日も屋敷を出る前に済ませたばかりだ」
「そっか……そっか……!」
心のどこかで期待していた答えを聞けたおかげで、いつぶりかの安堵が芽生えた。
この一週間、延々と掛かり続けていた重圧が消える。
忘れてたけど、安心するのってこんなに気が楽になるんだ。
みゅんみゅんが口にした言葉は、わたしの過去へ彩を飾っていく。
戦闘以外のことは例外なく失敗してしまう元聖騎士。
そんな彼女の夢はメイドになること。
あなたは今、半ば諦めていたその夢の続きを走っている。
わたし、あなたの運命を変えることができたんだね。
願いを叶える力じゃなくて、わたしがあなたの背中を押せていたんだ。
そんなのって、すっごくうれしい。
うれしくてたまらない。
「そうだな……私が願うとするなら、それはご主人様の幸せだろう」
「え……? も、もしかして……わたしの心の中読めてたりする?」
「願いを叶える力のことを考えてるんだろ。
安心してご主人様、私を変えたのはあなただ」
「そっか、すっごく嬉しいな。
わたしも……わたしもみゅんみゅんに変えられたんだよ!
今も、昔も、もう数え切れないぐらい幸せをもらってるんだから!」
幼い日に拝見した騎士なりたてのミュエル・ドットハグラ。
一目惚れなんていう情緒が全く感じられない惚れ方だったけど、あの日わたしは明確に変えられた。
単に美形だったのも一つの要因かもしれないけど、わたしの底を揺らしたのは圧倒的な暴力で全てを捩じ伏せていく獣のようなシルエットだった。
なんとなく生きてなんとなく死んでいくしかなかった少女に、あなたは夢を与えてくれた。
誰も並べないであろうその隣に意地でも並んでみたくなったんだ。
その他にも影響を受けたことは無数に存在する。
それを伝えるとなると、少なくとも一ヶ月は必要かな。
だから、これから続いていく未来の中でゆっくり伝えていくね。
「知ってるよ。ご主人様は私を初めて追いかけて来てくれた人だから」
「ふふっ、覚えてくれてたん……だ……?
え……? それって、わたしがみゅんみゅんのファンだって知ってたってこと?」
「ああ、騎士の私に初めて親しみを与えてくれた少女、それがご主人様だろ。
私が表へ出る度に煌めきを乗せた視線を向けてくれて、たくさん手紙も贈ってくれて、ずっとずっと応援してくれてとても嬉しかった。
ありがとう、ご主人様。
ご主人様の応援が無かったら、私は今頃恐れの象徴だっただろうな」
「そ、そか。ど、どいたまして」
呂律も脳も回らない。
思考を司る器官は頭ごと溶けていた。
全部バレていたんだ。
わたしがみゅんみゅんの追っかけをしていたことも、ありったけの愛を綴った不気味な手紙を送っていたことも。
有象無象の聖騎士ファン内の一人だからと思って大胆不敵に動いていたのに、まさかファンとしてアクションを取った一人目の女だったとは。
複雑な気持ちだ。
大好きな人の特別になれたことは超新星爆発を起こしてしまう程に嬉しいのに、面食いのミーハー女染みた過去を知られているのが恥ずかしくて堪らない。
羞恥から逃げるために死にたいけど、この幸せはもう手放したくない。
癖になっている破滅願望をいなして浅い考えを飲み込む。
何もかもバレていた以上、もう馬鹿正直に喜んでおこう。
……無理だぁ、この現実を受け入れるのは少しだけ時間が掛かりそう。
「そう言えば家事のことだけど、流石に気が滅入って怠り気味だった日もあるんだ」
「あ……それは……わたしのせ」
「私達のせいだな」
「え……あっ、そうだね……うん、わたしたちのせいだ。ふふっ」
「これまでの出来事なにもかもも二人の責任だ。
私がメイドになれたのも、ご主人様を好きになってしまったのも」
「じゃあ、わたしに幸せをくれたのも、わたしが剣士に憧れたのも二人のせいだね」
「もし私が不手際で屋敷を崩壊させたとしても、それも二人の責任にしよう」
「え!?」
「冗談だ」
「ちょ、ふふっ、良い感じのところでふざけるのずるいよ、あははは!」
笑い合いながらわたしとみゅんみゅんは頬を擦り合わせた。
突き合わせた手の指を絡めて、わたしは強靭な体へと重さを預ける。
「なんか、こうやってると恋人みたいだね」
「恋人だからな」
「そっ、そうだった!
わたし達もう恋人なんだ。
あはは……なんか、あっついね」
眼球は斜め下を捉え、瞼を高速で上下させながら顔を俯かせた。
カラカラに乾いた喉は液体を欲している。
手で顔を扇いでみるけど、熱が籠る頭蓋は一向に冷却されない。
改めて認識する。
事実を脳みそに焼き付ける。
そうか、わたしとみゅんみゅんって恋人なんだ。
照れずにそんなこと言えるなんて、みゅんみゅんやっぱりすごいな。
目だけで上を覗くと、血行の良さそうな肌が見えた。
みゅんみゅんの綺麗な顔は紅葉のように赤く染まっている。
赤面も白い肌に映えるなんて、ずるいな。
「みゅんみゅん、ほっぺた真っ赤だよ」
「ご主人様とお揃いだな」
澄み渡る青空の下、照れ顔のわたし達は目一杯幸せを振り撒いた。
二人とも心臓が大きく動いている。
あえてそれを気にしないようにして体を寄せ合った。
どこか滑稽だけど、そのあどけなさが初々しくて歯痒くて楽しかった。
黒いドレスからはみ出た素足は雪に埋もれている。
ひんやりと感じるその冷たさだけが、これは現実なんだと優しく訴えていた。
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