146 エリゼのために
エリゼハート視点
『ああ……わたし、もう死んでもいい』
馬鹿で愛らしい女の心にふざけた言葉が響いた。
ずっと昔に置いてきた感情がようやく追いついてくれたらしい。
昏き内側に鐘の音が鳴る。
祝福の天使が笛を吹いている。
その直後、私は叩き起こされた。
深層心理にある昏き世界から虹の橋が架けられた眩い世界へと、腕を引っ張り上げられる。
☆
目覚めてまず視界に入ったのは顔だった。
視界の先には、胸どころか全身をこれでもかと締め付けられるぐらいには好きな女の顔がある。
ミュエル・ドットハグラが私を抱いている。
状況から察するに、どうやら私が眠っている間に事は終わりを迎えたらしい。
ぼやけた世界を徐々に認識していく。
金色の髪が首に垂れてこそばゆい。
唇が温かい。
その奥にある舌にまで熱が届いている。
なにか、湿り気のある温く柔ない肉のようなものが私の舌をなぞっている。
あ……これ……べろちゅーだ。
青空見下げる真昼間の口付けにしては、些か情熱が入り乱れすぎている。
もっとこう、軽く掠める程度のものにしてもらいたい。
味わったことのない初めての感覚がピリピリと口内を貪っている。
むず痒いような、気持ち良いような。
なんだか脳みそがふわふわしている。
これはこれで……最高……。
悦に浸りかけたところで、ミュエルは咄嗟に私の口から舌を引っ張り上げた。
「え、エリゼハート!?」
目を見開きながら叫ぶメイドに抱かれて、私は今世紀最大のふにゃけた顔を露わにしていた。
「すみません、絶好のタイミングで出てきちゃったみたいで。
けど、ミュエルが悪いんですよ?
エリゼを幸せで殺そうとするから」
「そ、そんな無茶な……ゔっくっ!?」
突如、端正な顔立ちが崩れた。
眉間に皺を寄せるその姿はまるで……何も言わないでおこう。
……いや、文句は言わせてもらうぞ。
「あの、臭そうな顔しないでもらえます?」
聖騎士の性らしく、ミュエルは魔族や魔獣に対する嗅覚が鋭い。
分裂したエリゼの心に宿った魔族の魂。
それがこの私だった。
分裂したエリゼの代弁者という立ち位置の私だが、魔族特有の香りは醸し出してしまうらしい。
仕方ないとは言え、エリゼの面を前にしてその表情はどうかと思う。
「臭いと言うか……その、逆に刺激される……かも……」
「なっ!? こ、この変態っ! 盛るのは後にしてください!」
そうだった。
この世界で一番かっこよく可愛い女は元聖騎士。
その肩書きにそぐわない乱暴な型で敵を蹂躙する戦闘狂。
ミュエルにとって魔族の匂いとは血を激らせてしまう香りなんだ。
「こほん……ま、まぁ上出来です、ミュエル。よくここまで」
「駄目だ……止められない……」
「え?」
「もう少しだけ、もう少しだけ口付けを……」
辛抱堪らなさそうな表情がお腹の底を引き締める。
って、何考えてるんだ私。
私はエリゼだけど、エリゼじゃないんだ。
いや、エリゼだからいいのか。
ああああ、もう分からん。
私は何なんだ。
葛藤の余裕なんてあるはずもなく、世界で一番好きな顔が近付いてきた。
「え!? ちょっ、んんんんんんん!?
ぷはぁ、まっ、あむ、ん、や、やめっ、ぅあ、や……」
念願の行為を体験しているからか、私もメイド同様煩悩に支配されていた。
……。
二度目の口付けが終わる。
「……仕切り、直しましょう」
「……口を開けろ……舌を出せ」
「この発情煩悩脳筋馬鹿娘!!
もう駄目ですよ! その、私、エリゼハートですから!!」
「分かってる」
ミュエルは逞しさを思わせる腕を後頭部へ回し、そのまま私の体を抱き寄せる。
「え……ちょ、やめ、やめて!!」
……。
三度目の接吻が終わった。
「最悪だぁ……うぅ、口周り唾液まみれでくさいです……この不貞不埒不純メイドめ!」
悪態をつきながらも体が喜び過ぎているせいで、私の幸せ知らずの心はそれに抗えていなかった。
「貴様もエリゼ・グランデだろ。だったら問題無い」
「そ、そうですけど」
「浮気じゃ……ないよな……?」
「即効で罪の意識感じてるじゃないですか。
はぁ、まったく……安心してください。
体はエリゼのものですし、私もエリゼの別側面みたいなものですから」
私がわたしと同一人物かどうか。
ここから先の論争は哲学的な話になってくる。
元々一つだった心を私とわたしに分けられた。
その上、『奇跡』の発動によって見知らぬ魔族の魂が意思なき片割れへと引き寄せられてしまっている。
そんな私がわたしであるか……。
それはもう解釈次第ですね。
こんな難しい話は風に乗せて何処か遠くへ飛ばしておこう。
私にはもう時間が残されていない。
「とにかく、上出来です。
ミュエルの容赦ない打撃斬撃のおかげで、『奇跡』が勝手に蓄えていた魔力はほとんど消滅しました。
これで……えっと、良い感じです。
ほら、周りに充満していた魔力も消えてるますよね」
時間は……もう少しだけ残っている……。
「本当だ、夢中で気付かなかった」
ここら一帯を覆っていた絶望の魔力は綺麗さっぱり消失していた。
とは言えど、『シュガーテール』の呪いが解けた訳ではない。
『奇跡』によって蓄えられていた兵器レベルの魔力が全消費されただけ。
エリゼが愛情を以って上書きすることで一時的に抑えられてはいるけど、絶望は今も溢れ出ている。
「あれほどの魔力を消費させるなんて、一体何をしたんですか?」
「殴り合ったり、星を降らせたり、いろいろと」
二言目で星を降らせるなんて言葉がでてくることあるんだ。
ロマンに満ち溢れているけど、ミュエルが言うと暴力の上位互換にしか聞こえない。
「あの……少しお話をしませんか? エリゼが目を覚ますまで暇ですし」
絶望に絡まって死を選択するいつもの自殺未遂とは違い、今回の呼び出しは少しだけ特殊なもの。
エリゼが諦めないで一心不乱に進んできた恋路、だけど心の何処かでは叶わないと思っていた夢。
幾千の時間を越えてその願いは果たされた。
絶望に沈んでいた心に特大の幸せが墜落した今、この体の持ち主たるエリゼはハッピーに溺れている。
端的に言うと、エリゼは今幸せで死にかけている。
少女はすぐに目覚めるだろう。
だからその間、私と話をして欲しい。
意味ありげな発言に対してミュエルはクスリと笑った。
「分かった。私ももう一度会いたい思っていたんだ」
最後に会ったのはアヤイロ・エレジーショートとの対峙か。
色々と思い出したくないあの日のこと。
顔を合わせた時間なんてほんの数十秒程度であり、二度目の邂逅は最悪の形で終わっていた。
あの日の面影はミュエルから綺麗さっぱり消え去っている。
駄目だったメイドは私の知らない間に頼れる人へ成長していた。
「可愛らしいだけのあなたはもう何処にもいないんですね。
結局、エリゼへ手を伸ばせた決め手は何だったんですか?」
「……一週間も離れてしまったからだと思う。
ご主人様が私にとってどれだけ大きな存在だったか、それをようやく時間できたんだ」
「へぇ〜、離れてようやく気付いた恋の花ってことですか」
ミュエルは、私が口にしたよく分からない例えを不思議そうな顔で聞いていた。
精一杯の愛想を込めた笑みを浮かべているけど、どこか胡散臭くて嘘めいている。
正直者らしく嘘が顔に出る辺り、エリゼとあなたは似た者同士ですね。
ミュエルは私の問いに対して、ほんの一瞬だけ言い淀んでいた。
それはつまり、背中を押してくれた最後の一手はまだ別にあるということの証明。
導き出されるのはたった一つの答えだった。
「あー……見たんですね、日記」
「……うん」
バツの悪そうな顔で頷く。
毎日のように綴っていたにも関わらず、自分ですら読み返すことがなかったエリゼの日記。
『エリゼダイアリー』なんて安直の極みである名前を付けたその秘匿文書を、ミュエルは解読してしまったらしい。
エリゼの中に潜むギャルの魔力に唆されて私も色々と細工を仕掛けた訳だけど、いざ読まれたとなると私まで恥ずかしくなる。
「エリゼには秘密にしておきますから安心していいですよ。
でもまさか、あのミュエルがそこまで大胆になるとは驚きです」
「必死だったんだ、誰も知らないご主人様を知りたくて……すまない……」
「いえ、別に許すも何もエリゼは寧ろ喜んでくれるんじゃないですかね。
今度勇気振り絞って話してみたらどうです?」
「無理だろ……」
でしょうね。
人の秘密を勝手に盗み見したのだから、それを打ち明けるなんて無謀な気がしてならない。
でもいつかは打ち明けてみても良いと思う。
それで吹っ切れたエリゼはきっと愛を暴走させてしまうだろうから。
そんな光景を目にすることができないのは残念かな……。
「そうだ、『エリゼダイアリー』にも書かれていないとっておきを教えてあげましょう」
「是非聞いておきたいが、私に伝えて大丈夫なものなのか?」
「大丈夫と言うか、今ミュエルに伝えておかないとこの先残らない記録ですから」
それに、私のことも知って欲しいから。
覚えていて欲しいから。
この世界で私を知っているのはミュエルだけだから……なんて。
少しばかり重すぎるか。
「『御伽大剣シュガーテール』は願いを叶える力をエリゼに授けた訳なんですけど。
ミュエルはエリゼがその力をどう使ったのか知っていますか?
「ご主人様の願い事か……私のことだったら良いな……」
そう言いながらミュエルは顔を真っ赤にしていた。
自分の言葉で照れるなんて可愛いが過ぎる。
深淵の遺跡の最下層。
呪いの総体と相対する中でエリゼは『御伽大剣シュガーテール』を手にした。
代償による感情の波と呪いの総体を背負い込んだことで、エリゼの精神は悉く破壊し尽くされていく。
常人だろうが超人だろうが関係無く死へ逃げたくなる絶望の最中、それでもエリゼは願ったんだ。
「エリゼの願いは『生きたい』という単純なものです。
ミュエルと結ばれる為にまだ生きなくちゃいけないってことですね。
終着点を見据えた点で言えば、ミュエルの答えは正解です」
生と死の瀬戸際でエリゼは夢を見た。
ミュエルに対する憧れと恋を強く抱いて剣に願う。
生きたい、ミュエルと並ぶ為にはまだ生きないといけない。
願いの先にはミュエルがいる。
エリゼは死に際でも憧れの人を夢見ていた。
「生きたい……か。
それでエリゼハートが生まれたんだな」
「お、正解ですよミュエル。
『シュガーテール』がもたらす絶望を逃す用の心として分けられたのが私です。
後、絶命防止も担ってます。
見事当ててくれたエリゼハートポイントを二億程贈呈しますね」
「何に使えるんだ、それ」
「貯まるだけです」
しょうもない私の言葉でミュエルは笑ってくれた。
釣られて私も破顔する。
ありきたりで何気ない日常のひとときでも、私にとっては至福の一瞬だった。
叶うなら、こんな時間が永遠に続けば良いのに。
「それにしても、なんですかその猫耳は」
ミュエルがその身に纏っているのは、高い技術力と科学力に魔術を細かく組み込んでいるような給仕服。
至る所に仕掛けが施されていて近未来的にも見えるスタイリッシュなデザインは、ミュエルにどハマりしている。
ただ、その頭のカチューシャだけは異質極まっていた。
半ば決戦に足突っ込んでいたこの場所には、どこか不釣り合いな気がする猫耳仕様のカチューシャだったから。
明らかに誰かの趣味が混ぜられている。
誰か、なんていうのは一人しかいない訳で、あの名も知らぬ女店員だろう。
「似合ってないか……?」
「似合いすぎてるんですよ。
かっこよくて可愛いなんて好きになる以外の選択肢がないです」
その元聖騎士様は長いスカートを摘んでもじもじと身を捩らせる。
可愛さで眼球が蒸発しそうだった。
やっぱり、私もわたしらしい。
ミュエルの仕草が一々心を刺してくる。
それから話せるだけのことを話した。
エリゼのこと。
ミュエルのこと。
私から見た友達のこと。
そんな他愛のない話をし続けた。
もう満足、そう思っているのにいくらでも話題が湧き出てくる。
だけど、終わりにしないと。
そろそろエリゼの目が覚める。
もう……終わりにしないと……。
「毎回最低な気分で呼び出されるんですけど、今回はその対を感じました。
初めて幸せだと思えたんです。
ミュエル、あなたに最高級の感謝を……ありがとうございます」
暗い感情で埋め尽くされていた私の心に幸せがやってきた。
絶望が極まったエリゼの自殺への追及によって起こされる私なのに、今回だけは愛情の塊に殴打されて呼び出された。。
私に温もりをくれて、ありがとう。
「それは良かった。
エリゼハート、貴様には何度も助けられたんだ。
もっとお礼をしたい……次はいつ」
質問を遮るように私は口にする。
最後に一つだけ、これだけは聞いておきたかったんだ。
「ミュエル、私と初めて邂逅した時のことを覚えていますか?」
「あ、ああ、春の終わり頃だな。
あんまり良い思い出ではないが、明瞭に覚えている。
あの時、私を救ってくれてありがとう」
冷めきっていた片割れの心に熱を感じた。
私のことを記憶に残してくれる人がいる。
それが素直に嬉しかったんだ。
一人でも誰かに覚えていて欲しい。
そんな我儘も彼女なら叶えてくれる。
「今のミュエルならもう私の助太刀も必要なさそうですね」
……これなら任せられそうです。
「さて、不安要素は除去されましたし、私の心残りもなくなりました。
後は幕を閉じるだけですね」
「え……?」
「ミュエルが『奇跡』を瀕死にしてくれたんです。
あとはトドメを刺すだけ。
ついでに諸々の呪いも殺しちゃいましょうか」
「エリゼハート……何を……?」
右手を突き出して命じる。
「おいでませ、死様刀『腹切』」
間もなくして物騒な名称を持つ刀が召喚される。
「何を……してるんだ……」
「ありがとうございました、ミュエル。
エリゼが愛する人とお話ができてとても楽しかったです」
「嫌だ……嫌だ……もう誰にも消えてほしくないんだ……だから……」
「そんな悲しそうな顔をしないでください。
あなたにはもうエリゼがいるじゃないですか」
「でも……」
「もう理解してるんでしょ、ミュエル。
エリゼの幸福の為にはこうするしかないんだって」
『奇跡』の持つ性質と『御伽大剣シュガーテール』がもたらした絶望。
私がそれらを道連れに死ぬことで全てが解決する。
深い傷が出来た過去は随分遠くへ行ってしまった。
記念日となり得る今日、エリゼはようやく痛みから解放される。
普通の少女に戻って最高の恋を手に入れる。
私の願いはようやく叶えられる。
「私がいなくてもエリゼは生きていけるでしょう。
もう作り物の奇跡は必要ない。
永久に降り続ける絶望も。
眩さを失っていた少女は、愛に抱かれて笑えばいいんだ」
「駄目だ! 行かないで! まだ、まだ何もできていないじゃないか!!
料理だって振る舞ってない……だから、だからっ!!」
「それはもう、是非エリゼにあげてください。
私はわたしなんですから」
「いやだ……いかないで……」
強い抱擁を受ける。
筋肉質だけど、どこか柔らかさが残る大きな体に抱き締められている。
体を包むミュエルは力を目一杯込めていた。
私を動かさないようにと、全身を絡めて縛り上げる。
だけど、この拘束では私を止められない。
右手に握られた真っ黒な刀、『腹切』。
私の刀は誰も傷付けない自決専用の刃。
とは言っても、相手に斬りつければ痛みが走るんですけど。
骨が折れてしまう程締め上げられている右腕を動かして、刀の位置を調整する。
このままミュエルを貫いて、私の腹へと到達する角度へ。
「嗚呼快い。
其れは偽りの心象。
来たるかの日には席を共に。
もうじき春が訪れる。
雨が降りしきれば良いのに。
河を渡る為に着飾るお姫様は血を水と呼ぶ」
これ、幸せになっても出てくるんだ。
思わず笑みが溢れる。
意味の分からない詩を吐き続けてしまうこれは、『シュガーテール』がもたらした謎の呪い。
この呪いに大した意味は無く、少しだけ気恥ずかしさを感じてしまうぐらい。
息を吸う。
零距離のミュエルの髪を限界まで嗅いで私は降り始めた幕に手を掛けた。
「ミュエル、エリゼ・グランデをよろしくお願いします」
空を見上げれば満天の蒼が広がっていた。
太陽に照らされる大地には純白の雪が満遍なく敷かれている。
そして、目の前には大好きな女がいる。
死に場所としては、少しばかり出来すぎていますね。
最後に幸せを知れて良かった。
私を抱きしめている女の横腹を貫くようにして自決用の刀を突き刺す。
そのまま刃を進めて先端が私の腹へと接触した。
ミュエル、ごめんなさい。
ちょっとだけ痛いから我慢してね。
魂に刃を突き立て、死に様を司る刀は最初で最後の役目を果たす。
ま、そこそこ楽しめたかな。
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ありがとうございます。




