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第6話

「それじゃ、行くよ。」


 尊は陸軍に志願することとなった。

 列車に乗って旭川へ行くため駅へ歩いて向かったのだが、母は忙しい中、妹の恵子を連れて見送りに来てくれた。

 駅までの道中、母はあまり話すこともなく、ただただ申し訳なさそうな顔をしていた。

 自分が不甲斐ふがいないばかりに息子に苦労をかけてしまうと思っているのだろう。


「今すぐ戦地に行くわけでもないから。」


 尊自身は出稼でかせぎにでも行くような感覚であり、赤紙によって兵隊にとられるような悲壮な思いなどは、あまり感じていなかった。

 軍隊に行くことへの不安よりも、家族の今後の方がよほど気がかりであった。

 そして、片時かたときも尊のそばを離れようとせず、不安げに兄の顔を見上げている恵子に向かって声をかけた。


「今はつらいだろうけど、嫌な思いをしないで学校に行けるようになる日が必ず来るから。それと、母さんのことを頼んだよ。」


「…」


 恵子は涙を流すばかりで、何も話すことができなかった。

 そんな恵子の頭を尊はで続けた。


「落ち着いたら手紙を書くから。」


 その一言を残して、尊は列車に乗り込んだ。

 出発時刻となりゆっくりと進み始めた列車の窓から身を乗り出し、手を振るでもなく、ただただじっと母と妹の顔を見ていた。

 気が付くと涙が流れていた。

 無理もない、まだ少年なのだから。



「人の嫌がる軍隊に、志願で出てくるバカもいる。」


 入営して真っ先に古年兵こねんへいに言われた言葉だ。

 陸軍士官学校か海軍兵学校でも出ていない限り、このんで軍隊に来る者もそうはいないだろうが、尊と同じような貧しい家の子が何人も志願してここへ来ている。


 入営した日に軍服や靴を支給され、私物は実家に送り返したのだが、生まれて初めてまともな靴を履いた。

 田舎の貧乏な家の子は皆そうなのだろうが、服は年上の兄弟や親戚のお下がりばかりであり、肘や膝の部分には ”つぎはぎ” がしてあるのは当たり前であった。

 靴も履き古されたボロボロのズック靴やゴム長靴を与えられるのがせいぜいである。


 それに、銀シャリと呼ばれる白い米の飯だ。


「お前ら、ここに来るまで ”まっちろいおまんま” なんて食ったことないだろ。」


 古年兵が志願の初年兵に向かって言うのであった。

 

 それまでは、雑穀ざっこくを混ぜてかさ増ししたような飯やいもばかり食べていた。

 しかも、腹いっぱい食べた記憶がほとんどない。

 ここに来て白い米を食べたとき、しょっぱかったのを覚えている。

 うれしくてご飯に涙がこぼれたのだ。

 同じようなことを言っている者が何人もいた。


 北海道はそのような境遇きょうぐうの者たちであふれている。

 戊辰ぼしん戦争で敗れた武士、内地ないちで食えなくなった貧乏百姓、新天地で一旗ひとはたげようとした山師やましくずれ。

 明治以後、北海道に移住した者にはこんな連中がくさるほどいた。

 そして、そのほとんどが夢破れ、彼らの子や孫も赤貧せきひんあえいでいる。


 確かに軍隊は辛いところだ。

 古年兵の機嫌きげんそこねようものなら容赦ようしゃなくビンタを張られ、気の休まるときなどなかった。

 だが、娑婆しゃばに戻ったところで極貧ごくひんの生活が待っているだけの者たちにとっては、ありがたい場所なのかもしれない。



 陸軍に志願して1年ほどが経ち軍隊生活にも慣れ、辛い訓練や古年兵からのしごきもありながら、それすらも日常の一部と感じられるような日々を送っていた。


 師走しわすを迎え、年納めと新年の準備でも始めようかという頃、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃しアメリカと開戦したことが報じられた。

 さらには、4年前に始まった支那しなとの戦争も含め、今次の戦争を「大東亜だいとうあ戦争」と呼称こしょうすることが定められた。


「ついにやったな!」


「日本が欧米からアジアを開放するんだ!」


 多くの若い兵士に高揚感こうようかんき起こった。

 日本の快進撃が続き、東南アジアを次々に占領、アメリカやイギリスの軍隊を駆逐くちくしていった。


「シンガポールが落ちたぞ!」


「山下中将(ちゅうじょう)率いる皇軍こうぐんにシンガポールの英軍が降伏したぞ!」


「このままでは俺たちの出番がなくなってしまう!」


 世界情勢など知るはずもない若い兵士たちの中には、もう日本は勝ったも同然であり、近いうちに戦争が終わるとさえ思っている者もいた。


 しかし、尊は何となく違和感を覚えていた。

 アジアの開放は素晴らしいことだが、そうやって我々アイヌと同じように支配される民族が生まれることになるのかもしれない。

 アイヌを差別した和人が、東南アジアの人たちを差別しないということがあるのだろうか。


 ここの部隊の者たちも、くちではアジア開放などと叫んではいるが、アイヌである尊に対する差別を日常的に行っている。


「アイヌが日本人なら、ちょうやトンボも鳥のうち。」


「お前が何をやろうと、二等国民なんだよ。」


「手柄を立てて、名誉の戦死でもすれば、日本人だと認めてやるよ。」


 悩みぬいた末に行きついた軍隊ですら、尊にとっては安息あんそくの場所ではなかった。

 尊は、周りの若い兵士と同じように手放しで喜ぶ気にはどうしてもなれなかった。



 楽観的な考えを持つ者もいたのだが、戦争が終わる気配は見られず、それどころか、兵士だけでなく銃後の民間人さえも戦争遂行のためのひとつの道具として取り込まれようとしていた。


 日本は島国であり、米国の艦隊が日本の占領地や本土を攻撃してくる恐れがあった。

 しかし、全ての海域を日本海軍だけで警戒するわけにはいかず、民間の漁船を徴用ちょうようし、これをもって敵の艦船の警戒にあたらせようというのである。

 これらの船は「特設監視艇とくせつかんしてい」と呼ばれた。


 立派な名前を与えられたところでもともとは漁船であり、軍艦と違って足も遅く、船体ももろい。

 敵を発見し無線電信(略称:無電)で報告を行えば、間違いなく敵にも傍受ぼうじゅされ、自分たちの存在が露呈ろていしてしまう。

 支給される武器は機銃か小銃くらいであり、敵の軍艦や戦闘機に見つかってしまえばひとたまりもないことは明らかであった。

 早い話が、使い捨ての「人間電探(レーダー)」でしかない。


 そして、釧路の正二が乗る漁船も例外ではなかった。


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