第3話
職員室では校長をはじめとした教師たちが、今回の事件についてどのように対処すべきか、兵吉の処遇をどうすべきかを話し合っていた。
肝心の兵吉は別の部屋に連れていかれ、この場にはいない。
「すべての責任は兵吉にあるわけですから。」
「あいつには、いなくなってもらうしかないでしょうな。」
誰も兵吉の擁護をしない中、担任の鈴谷が校長に恐る恐る意見した。
「何が原因なのか、発端をつくったのは誰なのか、まずはそれを確認するべきではないでしょうか。」
その時、別の教師が鈴谷に向かって強い口調で言うのであった。いや、叱り飛ばすと言ってもいいくらいであった。
「あなたね、そんなことを言ってるから生徒になめられるんですよ。相手の生徒は大怪我を負ってしまった。これは立派な傷害事件です。」
そう言われて黙り込んでしまった鈴谷を尻目に、結論ありきの話し合いは淡々と進んでいった。
まるで弁護人すら認められない欠席裁判のように。
「まあ、鈴谷先生の言うこともわかりますが、理由はどうあれ怪我人が出ているわけですから。それに我々は警察ではないので、事件内容を調べるわけにもいかないですし。ましてや、警察沙汰にするというのもね。まあ、他の生徒に動揺が広がらないよう、そして、学校の秩序を維持するためにも。」
校長の言葉は、学校としての体面をいかに保つか、それを念頭においたものであった。
「こんなところでよろしいですね、みなさん。鈴谷先生も。」
鈴谷には言いたいことが山ほどあった。しかし、それを言葉にすることがどうしてもできなかった。
事細かに調べたうえで判断を下そうとすれば、他の生徒や教師たちの責任も問われかねない。すべての責任をひとりに押し付けた方が組織としては楽であろう。
周囲の人間を敵に回してまで行動を起こす勇気をどうしても持つことができなかった。
他の教師たちの中にも鈴谷と同じ思いを抱いていた者は間違いなくいたであろう。
しかし、みながだんまりを決め込んでしまう。
それが、差別の最も恐ろしい一面なのかもしれない。
侮蔑に満ちた言動を向けることは明らかな差別である。
それを黙って見ていること、見て見ぬふりをすることは、差別に与していないように見えて、実のところ、お先棒を担いでいることなのではないだろうか。
ほんの少しの勇気、ほんの少しの思いやり。
みながそれを持つことが出来さえすれば、誰も不幸にならずに済んだのではないだろうか。
そして、普段からアイヌの生徒たちを快く思っていない別の教師が、皮肉っぽい笑みを浮かべながら吐き捨てるように言い放った。
「そもそも、土人や原住民に教育を施すこと自体に無理があったんだよ。」
その言葉を聞いても、鈴谷は下を向いて拳を握り締めることしか、己の勇気のなさを恥じることしかできなかった。
会議の後、校長が尊たちの教室を訪れた。
本来であれば担任である鈴谷が生徒たちに説明すべきであるはずなのだが、校長自らがその役を引き受けることとなった。
「この度、ひとりの不良生徒によって大変な騒ぎが引き起こされた。しかし、みなは動揺することなく、これまでどおり勉学に励んでもらいたい。」
尊は校長の話を聞いて、「やはりそういうことになってしまったのか」と思った。分かりきっていたことではあるが。
校長の話はさらに続いた。
「この夏、大陸において支那との戦争が始まり、忠勇なる皇軍は赫々たる戦果を挙げてはいるが、敵は未だに抵抗を続けている。生徒諸君もこの国家の重大事において、余計なことで決して心を乱すことがないよう、なお一層気を引き締めてもらいたい。」
そして、最後にこう締めくくった。
「今回の件については一切他言無用。以上である。」
校長は事務的に話し終えると、鈴谷などあたかも存在しないがごとく、一瞥をくれることもなく教室を出ていった。
その日以来、兵吉が学校へ来ることは二度となかった。
尊と正二は兵吉の家を訪ねようと思ったのだが、校長の話を聞いた手前、どうしても行動に移すことができなかった。
数日後、鈴谷が兵吉のことについて口を開いた。
「残念なことではありますが、兵吉は学校を辞めることとなりました。できればひとりも欠けることなく卒業して欲しいと思っていたのですが…。」
鈴谷はその後も何かを話し続けていたようだが、尊の耳には全く入ってこなかった。
その日の授業は全く頭に入らず、ただただ終業の鐘が鳴るのをひたすら待ち続けた。
正二も同じ気持ちだったのであろう、放課後になると一目散に兵吉の家へ向かった。
「兵吉、いるか!」
尊と正二は大声で呼びかけたが、何の返事もない。
しかも、何か様子がおかしい。
そう思いながら恐る恐る玄関の引き戸を開けた。
そこには、人の気配が全くなかった。
「裏に回ってみよう。」
家の裏側に回ってみたが、庭には物が散乱し、もはやここには人の生活の営みが存在しないことを示していた。
「兵吉…。」
ふたりは何も話すことなく、ただただ茫然としていた。
帰宅した尊は母に事の顛末を伝えた。
母なら何か聞いているかもしれないと思ったからだ。
「三笠さんのところは、二日前に町を出ていったよ。朝一番の汽車に乗って。」
「母さんは知っていたのか。どうして教えてくれなかったんだ。」
「どんな顔して見送ろうっていうんだい。見送られる方はもっと辛いんだよ。」
そう言う母の目からも、母の言葉を聞く尊の目からも悔し涙が流れていた。