第九話
一連の攻防を終え、再び正面から向き合う俺と邦彦さん。
張り詰めた緊張感がこの場を支配していた。
「何だよ今の……」
「後ろに倒れたと思ったら、前に出てた……」
「っていうか、館長の使った技、俺達は知らないぞ」
驚愕と戦慄が周囲から伝わって来る。
かく言う俺も少し、いやかなり驚いている。
あの時——邦彦さんの腹に拳を添えた時点で俺は勝ったと思っていた。だが、勝負を決めれなかった。
相手の動きに無駄がなかったと言えばそれまでだが、俺が王手をかけた状態からいくら動きを効率化しようと止められるとは予想外であった。
「……今の技はなんと?」
俺は戯れに問いかけてみた。
「教えると思うかい? ……と、言いたいところだけどね。既に見られているんだ。隠す意味などないだろう。
あれは、蛇倒……が決まらなかった時のつなぎとして、地昇脚の動きを応用したものだ」
「蛇倒、地昇脚……どうやら、弟子の方々は知らなかったみたいですが?」
「そりゃあね。まず彼等には基礎を極めてもらわないといけないしね」
「極めてから、ですか……」
「ああ、変に技に傾向して基本がおろそかになっても強くはなれないから」
「……まあ確かに、そうですね」
俺達はそこで会話を区切った。
再び無言の緊張が走る。
今度は、俺から仕掛けることにした。
俺は前に出していた左足を抜重する。
身体にかかる重力を前進する力へと変換し、邦彦さんとの距離を詰める。
抜重による歩法。それは、多くの武術に共通してみられる技術の一つである。
スポーツにおける最高速度域には到底及ぶものではないが、この歩法はある一つの特徴から実戦において有利であるとみることが出来る。
それは、『溜め』が必要ないということだ。
『溜め』が要らないということには二つの利点がある。
一つは、身体に常にかかっている重力を利用するため、何時でも一定の速度での動き出しを実現することが出来るということ。先の攻防で見せたように、抜重する足を入れ替えることで急な移動方向の転換を行うことも可能である。
もう一つの利点は、動きを相手に悟られないこと。
古武術においては、動きを消す——目立ちやすい四肢の動きを相手に見せないことが重視されており、そのための技術として動きが見えにくい胴体部分の筋肉を利用して歩くといったものがあるが、今回の場合は『胴体部分の筋肉』という言葉を『重力』に置き換える事が出来る。
以上の二つの要素を組み合わせれば、素人ならば近づかれたという感想を持たせることもなくその懐に入ることを可能にするが……。
「はぁぁっ!」
流石に達人。こちらの動きではなく気を読んだのか、完璧にこちらの動きに合わせて右の裏拳を放ってくる。
しかし問題はない、予測は出来ていた。
——それに、空手に関節技はないが。中国拳法にはある。
俺はその場で急停止すると、俺の前を通り過ぎた右裏拳を俺の右手で掴み、外側へ捻りあげた。そこから身体を、邦彦さんの右腕に沿うようにしてピタリとくっつかせ、捻ったことで下を向いた肘に、下から俺の左手を添えると、それを上方向へと押し上げた。
邦彦さんの右手も彼の身体側に押し込むことで、彼の右肘がギチギチと音を立てて軋む。
勿論、邦彦さんもやられっぱなしではない。俺の腹に向けて左脚で膝蹴りを放ってくる。
だが、俺も極めかけている右腕を離したくはない。
僅かに息を吸って腹圧を高めると、来たる衝撃に備えた。
ボフッ——
「っ……⁉」
衝撃に合わせて息を吐く。イメージとしては、パンパンになった状態からしぼむ紙風船。
これでかなり衝撃を緩和できたとは思うのだが、それでもなお消しきれない衝撃が俺の腹部を貫いた。
流石にこれは堪える……っ。
だが、俺は手を離さない。
手首、肘と極めたら次は肩だ。
俺は肩の可動域を殺すようにして邦彦さんの右腕ごと押し上げる力を加えた。
邦彦さんの踏ん張りが弱くなったのを感じる。
今……っ!
俺は邦彦さんの身体を横に転がそうとした。
そして、あっけに程に抵抗なく彼の身体が倒れる——。
ゴッ——
「なっ……」
頭に感じた衝撃。
邦彦さんは倒れながらもこちらに蹴りを放っていた。
いや、それだけでなく、足の甲を俺の首に引っ掛けるようにして残している。
俺は床に倒されそうになる。
勿論、邦彦さんも倒れたのは同じなのだが、俺の方が倒れた始めたのは遅い。このままでは彼に先に立ち上がれてしまう。
俺はその場で踏ん張る。そして何とかその場に踏みとどまる事が出来た。
このまま、倒れた邦彦さんに追撃しようと思った俺であったが——
「はやい……」
既に立ち上がってこちらを向いていた邦彦さんを見て俺は思わず呟いてしまう。
多分、先程足の甲を俺の首に引っ掛けたのは俺を倒す為ではない。そうすることで自身の態勢を変化させて、文字通り立て直す事が目的だったのだ。
……化物。そんな言葉が頭に浮かんでくる。
しかし、それは俺の目指す先にあるものでもある。
俺はいつになく心を高ぶらせた。しかし、それでいて心の中は凪のように静まり返り、僅かな波紋にすら反応できそうである。
……が、俺は待たずに攻める。
先の攻防から既に攻めるのを躊躇うという感情は消し飛んでいた。
右足を大きく踏み出し、前に出る。
このまま邦彦さんに突進するのではと思うほどの勢いで進む俺に、邦彦さんが正拳突きを放つ。
だが、身体を左斜め下に捻って左側にすり抜ける。
俺は身体を捻った勢いのまま身体を振り返らせた。
そして、左拳を邦彦さんの腹に押し当てる。
今度こそ喰らえ……っ‼
ズッ——
俺の左拳が邦彦さんの腹部にめり込む。
「八極拳・寸勁」
八極拳の奥義の一つ。
それを放つと同時に、邦彦さんの身体から力が抜けてその場に倒れ落ちた。
勝った……のか?
俺は喜びを表す余裕もなく、その場に座り込んだ。
右のあばらが随分と痛い……これは骨折したな。
どうやら、邦彦さんの意識はまだ途絶えていないようで、彼は力絶え絶えといったようすでその身体を仰向けにした。
「……流石だ。どうやら君を認める他ないようだ……」
俺に目だけをやりながらそう言ってくる邦彦さん。
そう言えば、伊津見先輩の件で立ち会う事になるんだったな、俺達。
そう考えると、この勝負は本来する必要は無かったのではあるが……今は邦彦さんと戦うことが出来て良かったと思っている。
いやはや、身近にこんな化物がいるとは誰も思わなんだ。
俺は周囲を見渡してみる。
自身の師匠か負けたのが信じられないのか、観衆たちは呆然とした顔で俺と邦彦さんのことを見つめていた。
「嘘だろ……」
「邦彦師範が……」
「寸勁……って発勁のことか?」
中には最後に使った俺の技に驚いている者もいた。
まあ、普通なら拳を押し当てた状態から威力のある打撃を放つことは出来ないからな。
そうこう考えていると、俺に向かって一人の少女が駆け寄って来る。
伊津見先輩だ。
「やったな相崎くん! まさか、父を倒してしまうとはっ‼」
そう言いながら俺の背中をバンバンと叩く先輩。
その衝撃が骨折したあばら骨に響いてとても痛い。
「京子、父さんには何かないのか……」
その様子を悔しそうに見ている邦久さんだったが、俺に負けたこともあって、その態度は立ち合い前よりも軟化している。
「お父さん、見たでしょ。これが相崎くんだよ、凄いでしょ!」
いつも俺と接しているときとは違う、年相応な反応で父親にそう言う伊津見先輩。
いつもそうしていれば少しは可愛いものなのだが——
「っ……⁉」
苦笑いしながら伊津見先輩の様子を見ていた俺であったが、途端寒気のようなものを感じて咄嗟に身構えた。
何かがおかしいと思って周囲を見渡してみるが、なんらおかしい所はない。
……いや、先程まで仕合について語り合っていた邦彦さんの門弟たちが気を失って倒れている。
これは……っ⁉
そう思ったのも束の間、俺の右腹に激痛が走った。
見ると、俺の右腹からは何やら長いクローのようなものが生えている。
口から血がこぼれ出てきた。
そして、強烈な眠気が俺を襲ってくる。
なんだ……これ……。
「はぁ~。所詮は人間、こんなものだよね~」
暗くなってゆく視界の中、少年特有の高い声を耳にしながら、俺は意識を失う事になった——