第七話
その日の放課後。
「相崎くんはいるかーっ!」
「あっ、伊津見先輩」
ガラリと教室の扉を開けて入って来たのは三年の伊津見であった。
「で、相崎くんは?」
「あいつなら、とっとと帰っちまいましたよ」
「早くないっ⁉」
「それで、今日も徹の勧誘に来たんですか?」
「いや、違う……それよりも、相崎くんが女の子と仲良くしているという噂が耳に入って来たのでな、羨ま——ではなくて、けしからんと思ってな。武道家としての心得を今一度説く必要がありそうだと思ったのだよ。だから、こうしてやって来たという訳だ」
「なるほど、終業してから間もないですから急げば見つけられるかもしれませんよ?」
「む、確かにそうだな。それはいい事を聞いた、感謝するよ赤金くん。では私はもう行くからまた今度会おうっ!」
「赤川ですからね」
赤川と一通り話した伊津見は、あっと言う間に教室から去っていく。
「ふぅ、嵐みたいな人だな……それにしても、徹のやつ、あんなに女子と仲良くなりおってぇ……」
教室に残された赤川は、愛想のない友人に増え始めた女子たちを羨ましく思い歯噛みするのであった。
* * *
俺は校門に続く学内の道路の上を歩いていた。
昨日はてんやわんやで大変ではあったが、宮坂に関わるなと言われた以上、悪魔のことについては頭からすっぽり忘れようと思っている。
非日常から日常へ……うむ、素晴らしきかな。これで自由時間、もとい鍛錬の時間が削られるようなこともなくなったわけで——
「あっ、いたいた相崎く~んっ!」
平和的思考に身を委ねていると、突如後ろから聞き覚えのある声が聞こえてくる。
ゲッと思いながら振り向くと、案の定そこには伊津見先輩がいた。
「——よし、逃げるか!」
俺の判断は一瞬だった。再び彼女へ背中を向けて駆け出し始める。
「なっ⁉ それはないだろう相崎くん‼」
対して、伊津見先輩の方も俺を追って走り始める。
……残念ながら、かけっこでは伊津見先輩の方に分があったようだ。
俺と伊津見先輩の距離は段々と詰められてゆき、遂には手を伸ばせば届くほどの距離にまで近づかれてしまう。
「捕まえたぁーっ!」
伊津見先輩が俺に飛びかかって来る。
「はぁ⁉ あんた何やって——‼」
——ズサァァァッ
俺の言葉は最後まで続かず、腰に伊津見先輩の組み付きを受けた俺はバランスを崩して倒れてしまう。
「いってぇ……」
うつ伏せに地面に倒れた俺と伊津見先輩。
……しかし、迂闊だった。まさかあんな行動を取ってくるとは思えず、伊津見先輩の飛びつきの衝撃を逃がすことが出来なかった。迂闊というより、修業不足と言うべきか。
俺は何とか上体を起こすと、俺の腰にしがみついている伊津見先輩を引っぺがそうとするが、凄まじい力でこちらの胴を締め上げて離そうとはしない。
「畜生……なんて馬鹿力だ……」
下手したらあのベルドゥームより上だぞっ。
「やっと捕まえたんだ……絶対に離さないぞ……っ!」
くそっ、力が凄いっていうよりは執念が凄いのか。
仕方ない……。
「……わ、分かりました。逃げませんから離して下さい」
俺がそう言っても、伊津見先輩はホールドの力を弱めてはくれない。
どうやら、俺が嘘をついて離した瞬間に逃げ出すことを危惧しているようである。
「私と手を繋いでくれるのなら離してもいいよ」
「それは……分かりました。そうしましょう」
だが代わりに、俺を離してくれる条件を伊津見先輩は出してきた。
ちょっとは抵抗感はあったが、俺はそれを受ける事にする。流石にこの状態を続けられるのはたまったものじゃないからな。
俺の返事を聞いた伊津見先輩は俺から離れて立ち上がってくれた。勿論、その前に俺の右手首を左手でガッチリと掴んではいたが。
「やれやれ……よいっしょっと」
俺も続けて身体を起こす。
俺と伊津見先輩は二人で横に並ぶ形になった。
「で、ここからどうするんですか。俺は家に帰りたいのですが……」
「別にそれで構わないよ。私はただ相崎くんと話をしに来ただけだからね……でもまあ、時間はまだまだある。少しくらいはゆっくり歩いてもいいと思うのだけどね」
そう言って伊津見先輩は時計へチラリと視線を送った。
時間は四時半、確かにまだ余裕はある。
「伊津見先輩の方はどうなんですか? 部活があるでしょう」
「今日は休みだよ。だからこうして君と話しているんじゃないか」
「ああ、そういう……」
伊津見先輩は普段なら俺を深追いはしてこない。それは、彼女なりの気遣いでもあるが、部活動に遅れないようにするためでもあったらしい。
「……で、今日は何の用ですか。まさか、いつもみたいに部活の勧誘をするだけという訳でもないでしょう?」
「ああ、そうだな。そうだった……相崎くん、君、近頃女の子と仲良くしているそうじゃないか」
「近頃と言うより昨日からですけどね。後、仲良くしている訳じゃありません。都合上接触の機会が多くなっただけです」
「そうかい? 宮坂とかいう女子生徒に近づくためにその友達を口説いているとかいった噂が立っているんだが」
「それは誤解です……って言うか、恋愛どうこうというのは個人の自由でしょう。別に俺にはそのつもりはありませんが……」
俺がそう言うと、伊津見先輩は急に黙り込んでしまった。
いったいどうしたのだろうか?
「あの~先輩?」
「……相崎くん、その恋愛するつもりはないという発言は本当かい?」
「はい?」
「その宮坂さんやお友達とやらに興味はないという事でいいのかい? ……と聞いているんだ」
「ええっと……ええ、そういうことになりますね……」
何を意図しているのか分からない伊津見先輩の言葉に頭を傾げながらも俺はそう答えた。
「そうか、そうかぁ……えへへ……」
俺の返答を聞いた伊津見先輩は何やら頬を緩めて笑っている。
……本当に、何なんだ?
そこから暫く俺達は歩いていたが、伊津見先輩はあれ以降俺に話しかけてくることはなく、だらしなく口元を緩ませていた。そのくせ、俺の手首を掴んでくる力だけはますます強くなっているのだから本当に意味不明である。
頭がこんがらがっていた俺であったが、その時ふと俺の視界にとある建物が写った。
「空手道場か……」
『新古流空手館』と看板を掲げたその場所は、俺の学校への登校経路に存在している建物である。
新しいのか古いのかどっちかにしてもらいたいものだが、なんでも古流空手をベースに新たに発足した空手の流派であるらしく、ここはその本部であるという。
武術に関わる身としては、中々興味のそそられるところではあるのだが、生憎、ただの一度もこの建物に足を踏み入れる機会を得てはいなかった。
「むっ、もうついてしまったか……残念だ」
その時、伊津見先輩が空手館を見つめながらそう言葉を漏らす。
突然正気を取り戻したようにしてそう言葉を発した伊津見先輩に驚きつつも、俺は疑問の声を上げる。
「ついた?」
「ああ、話していなかったな……ここが私の家なのだよ」
「えっ……」
予想外の回答に俺が言葉を詰まらせる。
その時、
「——京子、その男は誰だ?」
突如後ろから放たれた声。
俺と伊津見先輩はほぼ同時に振り返った。
そこには、四十代後半と思われる男性がこちらを向いて立っていた。
白い道着姿に、その下に見え隠れしている鍛え抜かれた身体。
俺はこの人が新古流空手館の人間であると推察した。
だが、いつの間に俺達の後ろを取ったんだ……。
「お父さん……」
「京子、もう一度聞くぞ……その男は、誰だ」
瞬間、すさまじい程の精神的圧力が彼——伊津見先輩のお父さんと思われる人物を中心として放たれる。
この人……かなりやる……。
伊津見のお父さんの威圧に当てられた俺は、思わず伊津見先輩の手を振りほどき、構えを取る。
ここで初めて、俺は伊津見のお父さん——面倒臭いのでこれからは伊津見さんと呼ぶことにする——から声をかけられた。
「ほう……私の道場の人間ではないと思えば、こちらの殺気を受けても怯まない胆力……一体どこの流派だい? そして、どうして私の愛娘の手を握って歩いていたのかい? ……返答によっては、生きては返さないよ」
口調こそ丁寧だが、言っていることはかなーり物騒だ。
そして俺は確信した……この人、かなりの親バカだと。