キスをしましょう
「ちょっとクロ。一体どこへ行っていたのよ」
「悪い……野暮用でな」
「ふーん? まあ別にいいけれど」
エドワードの店を後にした僕は、間欠泉周辺のお店で食べ歩きをしていたルーシアと合流した。
ルーシアの手には紙袋一杯の食べ物が抱えられている。
彼女はおもむろに紙袋の中へ手を突っ込むと、骨付き肉を引っ張り出して豪快にかぶりついた。
「まったく……もぐもぐ、お前はすぐ迷子になるのだから。もぐもぐ、気をつけなさい。もぐもぐ」
「もぐもぐしながら口を開くな。あと仮にも王女がそんな下品な食べ方をしてもいいのか?」
「様式美よ。骨付き肉を上品に食べる方が、骨付き肉に失礼じゃない。あと聞き流しそうになったのだけれど、今『仮にも』と言わなかったかしら?」
「言ってない」
ルーシアは訝しげな視線を寄越しつつ、骨付きの肉を食べ終わると、最後に骨を丸ごとバリバリ噛み砕いて飲み込んだ。
「さて、それじゃあお腹も満たしたことだし、メインの温泉に入るわよ」
「そうだな。そうするか」
「クロ。この紙袋を持ちなさい」
「……」
僕は嫌な顔をした。
だが、ルーシアが「ん」と催促してきたので、拒否権のない僕は渋々ルーシアが購入した食べ物の詰められた紙袋を持つ。
「僕は荷物持ちじゃないぞ」
「大丈夫よ。クロに荷物持ちは文字通り荷が重いのは分かっているから」
「おい、それは僕が荷物持ちすらできないくらい非力だと言いたいのか」
「言わなければ分からないのかしら」
「自覚しているから言わないでくれ。自分の非力さを再確認して悲しくなるから」
「クロって荷物持ちができないレベルの非力さよね」
「泣いた」
「でも大丈夫よ。お前は私が守ってあげるから」
「普通は立場が逆なんだよなぁ」
「お前の仕事は私を守ることじゃなくて私を愛することよ」
「それなら安心だ。僕はお前のことを世界一愛しているからな」
言った直後、ルーシアがすっころんで顔面を地面に強打した。
「おい大丈夫か?」
「……だ、大丈夫よ」
そう言って立ち上がったルーシアの鼻から血が出ていた。
顔面を強打したせいだろうか。
「おい、鼻から血が出てるぞ」
「これは別にぶつけたから出たわけじゃないから気にしないで」
「そ、そうなのか? まあお前が言うならいいけど」
ルーシアは懐からハンカチを取り出して、鼻を抑えながらゆらりと立ち上がる。
「ふふ……なるほど、これは危ないわね。危うくこの私がクロにやられるところだったわ」
「は? なにを言ってるんだ?」
「なんでもないわ。こっちの話よ。それより早く温泉にいきましょう」
「へいへい」
僕は肩を竦めて、先を歩くルーシアの後ろをついて歩いた。
※
宿に戻った僕たちは、さっそく宿に併設されていた温泉へ向かった。
男湯と女湯、その間には混浴ののれんが下がっている。
「さあ、クロ。混浴に行くわよ」
「僕はもちろん混浴でもいいのだけれど、ちょっと嫌だなぁ」
「どういう意味?」
「だって、混浴ってことは他のお客さんもいるんだろう? 他の人にルーシアの裸体を見せるのには抵抗があるというか」
「あら、独占欲が強いのね。でも安心なさい。すでにここの混浴は貸し切っているわ」
「用意周到だな」
「当たり前よ。私とクロの時間を邪魔させないわ」
「……」
僕とルーシアはそのまま一緒に脱衣所へ入り、服を脱いでバスタオル一枚の姿で温泉に入った。
夜空が見える露天風呂で、今日は満月だった。
「ふう、温泉が体に染み渡るのだわ」
「そうだな。左腕の痛みが引いていくようだ」
僕は左腕のようすを窺いながらお湯をかける。
首なし巨人にぶった斬られた部分がやや紫がかっているが、他にはこれといった変化が見受けられない。
一応、今のところは大丈夫そうだ。
「その左腕、まだ痛むのかしら」
「ん? まあ、少しな」
「なにやら変色しているようにも見えるけれど」
「大丈夫だ。気にすんな」
「……お前が言うのなら、気にしないことにするわ。でも、なにかあったらすぐに言いなさい」
「分かってるよ」
そう答えると、ルーシアは満足げに頷いて気持ちよさそうに肩までお湯に浸かる。
「ねえ、クロ。ひとつ聞きたいのだけれど」
「どうした?」
「なぜこちらをチラチラと見てくるのかしら?」
「……いや、ぜんぜんそんなことないが?」
「誤魔化しても無駄よ。お前から明らかに視線を感じるのだわ。そんなにチラチラと見られていたら落ち着いて温泉にも浸かれないじゃない」
「じゃあ、ガン見してもいいか?」
「ええ、構わないけれど」
「いや、そこは恥ずかしがってくれ」
「なぜ?」
「それが普通の反応だからだ」
「ふーん? 裸を見られるのが恥ずかしいだなんて、普通って変なのね」
相変わらずの箱入り娘め……。
僕は内心でため息を吐きつつ、夜空を仰ぎ見る。
すると、再びルーシアが声をかけてきた。
「ねえ、クロ」
「まだなにかあるのか」
「ちょっと気になることがあるのよ」
「気になること?」
僕が首を傾げてルーシアに目を向けると、ルーシアもまた不思議そうな顔で視線をゆっくり下へ移動させ――。
「お前の脚と脚の付け根あたりにある大きなキノコみたいなものはなに?」
「……」
僕は夜空を仰いだ。
※
「ふう……いいお湯だったわね」
「そうだな。月明かりも綺麗だったし」
僕とルーシアは温泉から上がり、宿泊している部屋のテラスに出て、夜風に当たっていた。
ルーシアはバスローブ姿が似合っているが、ルーシアを真似て着てみた僕のバスローブ姿はあまり似合っていなかった。
「いい旅行になりそうでよかったわ」
「だな。いつもならルーシアがここら辺で一発どかんと問題を起こすところなんだけど、それもないし」
「そうね。ここらで一発どかんと……今なんて言ったかしら?」
「わぁ、月が綺麗だなぁ」
「あら、本当。あまりにも綺麗だからうっかりギロチンを出すところだったわ」
「じゃ、じゃあうっかり出てしまう前に、部屋に戻るか」
「私はもう少し月を楽しみたいわ。今日はせっかくの満月なのよ?」
「だけど、あまり夜風に当たっていると風邪を引くぞ。間欠泉が近いから、幾分か暖かいとはいえさ」
「大丈夫よ。魔王はこの程度で風邪を引かないわ」
僕は肩を竦めた。
「分かったよ。付き合うよ」
「別に無理しなくてもいいわよ。私と違ってお前は貧弱なのだから、すぐに風邪を引いてしまうわ」
「……」
「あ、でもカバは風邪を引かないとも言うし、クロは大丈夫かもしれないわね」
「カバじゃなくてバカだけどな? あと否定はしないけれど、お前が言うな」
「ふふ」
「……」
ルーシアが楽しそうなのは結構だが、僕はなんだか釈然とせず唇を尖らせた。
それから、しばらく二人で夜景を楽しんでいると、おもむろにルーシアが口を開く。
「ねえ、真面目な話をしてもいいかしら」
「今まで真面目じゃなかった自覚があるのか……」
「茶化さないで」
「……?」
いつになく真剣な表情のルーシアに僕は首を傾げた。
ルーシアはわずかに頬を赤くしつつ、覚悟を決めたかのような表情でこんなことを言った。
「キスをしましょう」
僕は思考がフリーズした。
数秒後、状況を理解した僕は額に手を当てて頭を振る。
「ええっと、なぜ急に?」
「いえ、アイリスがね、言っていたのよ。この旅行で、そろそろ関係を進展させるべきだと」
「関係を進展?」
「ええ。私たちはたしかに想いを通じ合わせたわけだけれど、それ以上は進展していないでしょう? だから、この旅行でキスをして関係を進展させなさいって、アイリスが言っていたの」
「またあの人は変な入れ知恵を……」
額に手を当てたままため息を吐くと、ルーシアが不安げに口を開く。
「ダメかしら?」
「ダメではないんだけれど。えっと、お前はいいのか? 子供ができちゃうとかなんとか言っていたが」
「え? だってキスじゃ子供はできないのでしょう?」
「おお、ルーシアの性知識がグレードアップしている」
「子供はコウノトリが運んでくるのでしょう?」
「特に進歩なしと……」
僕はガシガシと頭を掻き、再びため息を吐いた。
「まあ、僕もいやじゃないし。やってみるか。キス」
「!」
僕が言うと、ルーシアの表情に喜色が浮かんだ。
「それじゃあ、先攻と後攻を決めましょう!」
「は? なんで?」
「だって、キスというのは恋人同士が行う戦みたいなものなのでしょう? アイリスが言っていたわよ?」
あの人は一体どんな余計な情報を教えたのだろうか。
聞くのがとても怖いです。
「参考までに、ルーシアは一体アイリスさんからなにを教わったんだ?」
「キスは舌と舌を――」
「ああ、もういいや。もう言わなくても分かった。その先はセンシティブな内容だから言わなくていい」
「そう? それじゃあ、じゃんけんで先攻と後攻を決めましょうか」
「だから、キスってそういうんじゃないから。あとお前が教えてもらったキス、僕らにはまだ二段階くらい早いから一度忘れた方がいいぞ」
「あら、そうなの? 残念だわ」
ルーシアは肩を竦めて、本当に残念がっていた。
「それじゃあ、クロが正しいキスの仕方を教えなさい」
「え」
「教えなさい」
「いや、そう言われても僕だってしたことないんだけれども」
「でも知っているのでしょう?」
「まあ、一応」
「なら、早くなさい」
「……」
そこまで言うならと、僕は一度深呼吸を挟んでからルーシアの両肩に手を置いた。
「じゃあ、まあじっとしててくれ」
「ええ」
今、僕の眼前には見慣れたルーシアの美しい顔がある。
僕、今からキスするのか。
そう思うと、体中から変な汗が出てきた。
「じゃあ、行くぞ」
「いつでもいいわ」
僕はゆっくりと自分の顔をルーシアの顔に近づけて――刹那、耳をつんざくような巨大な咆哮が轟いた。
久しぶりにいちゃいちゃしてやがるぜ……。