四月雪
今年の四月上旬はわりかし寒くて、雪まで降っておい嘘だろってなりまして、なんだかよく分からないムカつきによって書いたよく分からない一本です。
短編一話完結です。
「四月はね、昔の暦だと卯月っていうんだよ」
「そっかー。確かに、なんとなくウサギみたいな感じがするもんな、四月。モコモコーみたいな」
「違うよー。卯月の卯は、卯の花の卯だから」
「卯の花?」
「そう、卯の花。卯の花の卯」
「ううー」
「え?」
「いや、う、う、たくさん言ってたからなんか言いたくなって」
「なにそれ。よく分かんない」
「うううー」
「うううー」
などというような、どうでもいい会話をしていたのが、ついこの間のようだ。
ある年の四月、僕は六年間付き合った彼女と別れた。
不思議と喪失感はなかった。
ただその頃はなんとなく、いつかそういう日も来るかもしれないと思いながら散ってゆく桜を二人で眺めていて、二人して同じような感覚を共有しているような気がしていて、だからだろう、彼女にその言葉を伝えられた時も、驚きはほとんどなかった。おそらく彼女が言わなければ、代わりに僕が言っていたんだろうと思う。
関係に亀裂が入ったとかそういうことは一切なかった。むしろこれだけ長い間一緒にいて、ただの一度も喧嘩や言い争いをしたことがないのが不思議だった。酒の席で友達がたまに愚痴ってくるような「彼女と大喧嘩した話」に、一種の憧れを抱いていたようにさえ思う。
別れを切り出された時、彼女の口から飛び出した最初の一言は、寒いね、だった。
その日は四月も半ばに差し掛かり、珍しく続いていた雨があがった最初の日で、心踊るくらいに暖かな陽気に包まれた一日だった。
「寒い?」
僕は首を傾げながらそう聞いた。
「うん」
「そうかなあ。もしかして風邪引いてるとか?」
「ううん」
「じゃあ花粉症とか」
「花粉症で寒くはならないでしょ」
いつもと変わらない、どうでもいいような会話。僕は表面上は全くそんな素振りを見せなかったけれど、最初の言葉を聞いた時点で、なんとなく彼女の様子がおかしいことには気づいていた。気づきながらも、いつもと同じ会話を続けようとした。それはもしかしたら、彼女に対する意地悪だったのかもしれない。いつもどことなくのんびりしていて、僕がどんなくだらないことを言っても、何をしても、笑って返してくれるような彼女が、初めて真剣に何かを伝えようとする気配を、微かに感じ取ってしまった僕からの、最初で最後の、ささやかな反抗だったのかもしれない。
そのまま彼女は、なんの脈絡もなく言った。
私たち別れよう、と。
理由は聞かなかった。ただ僕はその代わりに、歩道脇に並んでいた桜の木の一本に目をやって、桜の枝ってひょろひょろしてるよなあ、台風とかでよく倒れないよなあ、なんていう自分でもよく分からないようなことを考えて、それから彼女の顔に視線を戻した。
その時の彼女の目。
水面のように静かなその瞳の奥を、この六年で、僕は初めて覗いたような気がした。そこにあった色は悲しみでも怒りでもない、もっと純粋で、毅然としていて、ただひたすらに深い色合いで、気づけば僕は、うん、別れよう、と頷いていた。風がゆっくりと吹き付けて、なんだか自分が、その風にさらわれた花びらのような気持ちになったことを覚えていた。
*
彼女と別れて、ちょうど一年が経つ。
僕はなんとなくそういう気分になって、近所の公園に発泡酒の缶を持って出かけた。もうすぐ四月も終わるというのに、その日は朝からどんよりとした曇り空で、風が衣服を貫通するように冷たく、僕は家を出てから上着を取りにもう一度中に戻ったくらいだった。
「それならわざわざ外に出なければいいのに」
彼女がいたら、くすくす笑われながらそんな風に言われただろう。
割合広いその公園には古びた四阿がぽつんとあって、その中に腰掛けると、僕は右手に持った缶も開けずに、ただぼーっと散ってしまった桜の木を眺めていた。公園には僕以外誰もおらず(こんな日だしそりゃそうか)、二月あたりに着るような厚手の上着を着た僕は、花のない桜の木と灰色の空を見て、まるで時間が冬に逆戻りしたような気がして、なんだかおかしかった。そうしているとだんだんそんな気分になってきて、そのせいだろう、空に舞う桜の花びらが一瞬雪に見えたほどだった。
「ん?」
奇妙な違和感を感じて、僕は一度目をこすってみた。かじかんだ指先から伝わる冷たさがふわふわした思考を正常化させてくれて、それでもやっぱり、僕の目に映っているものは消えたりしなかった。
「雪?」
思わず空を見上げた。桜の花びらだと思っていたものは、あろうことか、本当に雪だった。ちらちらと、まるでエイプリルフールの冗談のように、白い結晶がゆっくりと地面に落ちて掻き消えた。
アホみたいな顔をして瞬きしていた僕の右ポケットが震えて、そこで僕はやっと我に返った。慌てて携帯を取り出し、そこに表示された名前を見てもっとびっくりした。
「も、もしもし」
「やっほー」
聞き慣れた声が耳を打って、僕はなんだか不思議な感覚を覚えた。最後に会ってから随分経っているというのに、彼女の声を聞いた瞬間、僕はその声を聞いたのがまるで昨日だったかのように感じた。
「どうしたの。急に」
「どうしたってことはないけど。電話くらいするよ」
「そうなの?」
別れてるのに?
「そうそう」
「ふーん」
よく分からないけど、彼女がそういうんだから、そうなんだろう。あの頃だってずっとそうだったんだから、そうに違いない。
「今さ、どこにいるの」
「公園」
「ホント? ならちょうどよかった。そっちも降ってる?」
「え?」
「雪」
そう言われて僕はようやく、この現象が僕の見ている夢や幻じゃないことを実感して、なんだかほっとした。
「降ってるよ。そっちも?」
「うん。凄いよね、四月なのに」
そういうと彼女は言葉を切り、はー、と何やら感心するように長い息を吐いて、それきり黙った。
「もしかして、それだけで電話してきた?」
「そうだけど。なんかまずかったかな」
「……まずくはないけど」
なんでこれだけの時間を空けておいて、今更あの頃みたいなノリなんだ、とか、色々思ったことはあったけど、そういうもやもやを言葉にできないでいるうちに、
「ないけど、なに?」
「……、いや、なんでもない」
口ごもるようにそう言うと、そんな僕の様子がおかしかったのか、彼女はあははと声を出して笑った。
それから僕らは、受話器を耳に押し当てたまま、二人して黙りこくって、ただひたすらに降りしきる雪を眺めていた。天から落ちてくるその白い欠片は、まるで冬に降るのを忘れて空の上に溜まっていて、それが今頃になってなんでもないような顔をして降ってきているように見えて、なぜだろう、このノロマ野郎、と文句を言いたくなった。
「あのさ」
彼女が世間話をするような口調で言う。
「うん?」
「聞かなかったよね。理由」
「なんの」
「別れる理由」
「……あー」
確かに、聞いてなかった。今になってみればなんでだろうと思う。
彼女は、なんで聞かなかったの? とも、聞きたかった? とも言わず、ただいつものようにたわいもない話をするようなテンションで、話し始めた。
「私たちってさ、別に仲悪かったとか、気が合わなかったとか、そういうこと、全くなかったよね。喧嘩だって一回もしたことなかったし、文句言ったことだってほとんどない」
「うん」
「かといってすれ違ってたとか、興味が薄れたとか、そういうこともなかった。家でそれぞれ好きな漫画読みながらごろごろしてるだけで私は満足だったし、くだらない話して、たまにデート行ったら二人して誰も行かないようなボロいラーメン屋さんをわざわざ見つけて入って、それで意外とおいしくて笑って、こういうのなんかいいなって思いながら、一緒にいた」
「うん」
「幸せだったと思うんだよ。きっと」
「うん」
僕もそう思っている。
「でもね、」
そこまで言って、彼女は一度大きく息を吸うと、自分が発する一つ一つの言葉の音を確かめるような調子で、続けた。
「きっと私たちは、そういう生活を続けてきて、あったかい雪みたいになっちゃったんだって、そう思ったんだ」
「あったかい、雪?」
「そう。あったかい雪」
しんしんと降り積もる白い結晶の一つが、風に乗って僕の膝の上にちょこんと乗る。
「冷たくなくて、優しい、そんな雪。ほら、雪ってすごく綺麗な六角形になってるじゃない? あんな感じで、すっごく綺麗で、完璧で、そんな風なのが、私たちなんだって」
「……」
「でも、それって同時に、決して変わることがなくて、ずっとあの形のままで、きっといつか、そのままそこに凍りついちゃうような、そんな感じがして。あーうん、なんか自分でもなに言ってるかわかんないや」
ときたま吹き付ける風が顔に当たって、少し息苦しくなる。
「冷え切った関係、ってこと?」
「違う違う。あったかい雪、だから」
「さっきからなにそれ。笑っちゃうんだけど」
茶化したつもりだったが、彼女は割と真剣なようだった。
「あったたかったはずなんだけど、あの時初めて、なんでだろう、寒かったの。それでなんか、言っちゃった」
「……うーん」
「分かった?」
「正直、全然分からない」
「そうだよね。ごめん」
笑いながら彼女はそう言った。分からないと言ったが、実は彼女の言わんとすることは僕もなんとなく感じていて、細かい差異はあれど、たぶんそういうことなんだろうと僕は思った。あったかい雪っていう喩えはよくわからないけれど、なんだろう、たった六年という歳月で、僕らは自分たちの完成形を見てしまったような、その先はもうないような、そんな漠然とした思いが、確かにあの頃の僕の中にもあって。
「だからって、なんで今頃それを話すんだよ」
彼女にそう返すと、
「いやーなんかさ、こんな時期に降る雪見てたら、そんな気分になっちゃって」
「なんだそりゃ」
「きっと私は今でも、君のことが好きなんだよ」
なんでもないようにそう言われて、僕は返す言葉に詰まった。
「でもね、あの雪を一回無くさないと、降らせて溶かしちゃわないと、次の春が来ないような気がして。だからあの時、無理矢理降らしちゃおうって、そう思ったんだよ」
そう言った彼女の声は、僕に、あの日見た深い色の瞳を思い起こさせた。なんて答えればよいか分からず、僕は迷った後、彼女に合わせて、ちょっと格好つけたセリフで返すことにした。
「そのあったかい雪は、なくなったのか」
少し間があってから、声が返ってくる。
「たぶん。だってほら、やっとね、降ってくれたから」
見ると、雪が降る雲間から、うっすらと太陽の光が差し込んでいた。春の日差しに照らされて輝く雪は、その冷たさを感じさせずに僕の手に乗って、そのまま手のひらに沈むように溶けていく。桜だってとうに散っているのに今頃になって降る雪は、きっと一年以上前から、僕らの上にあった空に、溜まり続けていたものなんだろうと思う。
この雪を、もっと早く降らせることができていたら、僕たちの今はもう少し違っていたのかもしれない。しかしながらようやく降った今日の雪は、ちょっとばかし、季節外れだった。季節外れだからこそ、喩えようもないほど、美しい雪だった。
「もしね、私が、もう一度、」
言いかけて彼女は口を噤んだ。ホント、考えることがここまで同じってのは、気が合うを通り越してもはや笑えてくる。
「……ううん、やっぱ違うな。なんていうか、それはなんか、もう、」
「遅いんだよなあ」
「え?」
驚いたような間があって、それから彼女が微笑むような気配が、電話口の向こうから微かに伝わってきた。彼女は小さな声で一度、うん、と答えて、それからおどけるような声音になって、
「そうだよー、遅いんだよー。なんで四月なんだよー」
「そうだそうだ。もっと早く降れ」
「ノロマー」
「ウスノロー」
そうだ。
この雪がこんなにも綺麗なのは、それがもう二度と、手に入らないものだと分かっているから。この雪が降るまでに流れていった一年という時間は、失ったものを取り戻すには、たぶんちょっとだけ、長かった。ほんの少し、遅かった。
二人で四月雪への思い思いの悪口を叩いて、僕たちは自分たちがしていることの訳の分からなさに同時に気づき、いつもみたいに声を上げて笑った。ゲラゲラ笑った。
「でもね、なんか私、今少しだけワクワクしてる」
「なんで?」
「これでやっと、前を向けるから」
そう言った彼女の声は、いつぞやに見た桜の木の枝のように細く、しかし決して折れないようなしなやかさを、確かに持っていたように思う。そしてその言葉を聞いて、僕は自分の中の何かに、二人の間に降り積もっていた何かに、心の中でそっと、手を振った。サヨナラ。
僕たちはそれから、いつもしていたようなくだらないお喋りをいつまでも続けた。嘘のように時間が早く過ぎ、雪もとっくに止んで、太陽が沈みかけた頃に、ようやく話題も尽きかけて、どちらからともなく電話を終える流れになった。話していて分かったのだが、どうやら僕たちは二人ともまだ新しい恋人の当てはいないらしく(まあなんとなくお互い察していたけれど)、早く作った方が勝ちという勝負だか賭けだか分からないような約束を取り付けて、通話を切った。勝った方にどんなご褒美があって、負けた方にどんなペナルティがあるのかは未定だ。なんだそりゃ。
帰路につき、ぬるくなった酒の缶をくるくる放り投げながら、中身が発泡酒だったことを思い出して、自分がやらかしたことに気づく。 でもまあ、そんなこともあまり気にならない気分だった。
家に入る前にもう一度空を見てみる。さっきまで降っていた白い雪が幻だったかのように、空は優しいオレンジに染まっていた。暖かい風が吹いて、それは僕にちゃんとした四月を感じさせた。旧暦でいうと、卯月というらしい、四月。
「卯月の卯は、卯の花の卯、と」
なんとなくそんな独り言を言って、思いつく。
「そうだ、今晩はおからにしよ」
おからってなんか積もった雪みたいだよな、と思って一人で笑ってしまった。意味わからなすぎる。こういうよく分からない笑いのツボは直していかなきゃな。次の彼女とは、もっともまともな、恋人っぽいことをしたいし。なんだろう……銀座デートとか? うはは、こそばゆー。
四月になって、桜が咲いて、散って、その後になってからひょっこり降った、雪。
雪の後には春がやってくる。
二度目の春に向かって一歩、踏み出してみようか。