プロローグ
エルカは不思議な夢を見た。どこか遠い異国の街の一角、小路を数軒行ったところにある古本屋の夢だ。
店内におかれた背の高い本棚には、世界各地から集めたと思われる本が大きさも種類もばらばらに所狭しとならんでいる。お世辞にも綺麗とは言えない様相だが、中に入るとどこか懐かしさを感じさせるとともに、乾いた革と紙の香りが鼻をくすぐる。黴びたにおいがしないのは、本の管理状態が良い証拠だ。
宝の山だ、とエルカは端から順に本棚を眺める。自分の読める本はそれほど多くないが、それでも料理の本、子供向けの絵本、魔道書のようなものに、誰かの日記までありとあらゆる本が置いてあるのが分かった。商品として売れるものなのだろうかと疑問に思いつつ、目についた本を手に取っていると、虚を突くように店の奥から声が響いてきた。
「ようこそ、ノース古書店へ。どんな本をお探しかな」
棚の影から現れたどこか懐かしい声の主はローブを羽織った女性だ。フードのせいで顔は見えないが、どことなく聡明そうな雰囲気を漂わせている。
「あぁ……失礼。隠すつもりはなかったんだけど、なにせこっちの方が落ち着くからね。これじゃ態度が悪いってミズリに怒られてしまうな」
女性は着ていたローブのフードを上げる。
「――あ」
エルカは思わず息を飲んだ。覗いたのは短く整った白銀の髪を携えた、理知にあふれた顔だ。互い違いの目は左が新緑を思わせる浅緑の色、右が快晴の空のような群青の色をしていて、そのどちらもがガラス玉のように透き通っている。そんな澄んだ瞳を前にして、エルカは硬直する。珍しい色違いの目に驚いたからではない。
その顔に、見覚えがあった。
「初めまして、この店の店主をしているエアーマ・ノースだ。ノースと呼んでくれ」
愛想良く笑顔を振りまくその姿はエルカの記憶にあるものと変わらない。事の顛末を思い出せないだけで、確実にどこかで会っている。エルカはそう確信した。
「の、ノース。変なこと聞くけど……その、僕たちどこか……どこかで会ったことがない?」
女性――ノースは数回瞬きをすると、興味深そうにエルカの顔をのぞき込む。宝石のように綺麗な目と目が合って約三秒間、呼吸を忘れてエルカはその輝きを見つめた。このときばかりはノースのことを思い出すのも忘れ、その瞳に魅入った。
永遠のように感じられた一瞬の感動で上の空になったエルカだったが、ノースの一言で我に返る。
「残念だけど、私には覚えがないよ。一度会った人の顔は忘れないのが特技なんだ。」
笑いかけながらスッと身を引くと、ノースは若干困った表情で
「ぱっと見、君はそんな風に女性をたぶらかすようには見えないし。かといって、”私と会ったことがある”なんて嘘ついてもなんの特にもならないはず。とすれば、他人の空似ってところじゃないかと思うんだけど……。自分で言うのも何だけど、私結構特徴的な見た目なんだよね。」
「でも、確かに、どこかで……」
だんだん声が小さくなっていくエルカにノースはますます表情が曇る。何も悪いことはしていないのに、完全に加害者の心持ちだ。
「そんなに落ち込まれると、困っちゃうな。そもそも私の面識がそんなに重要かい?うちは初見さんだろうと大歓迎だよ?」
ノースの言葉にエルカは再び黙考する。言われてみればその通り。彼女と遭遇したことがあろうが無かろうが、それは大した違いじゃない。相手を困惑させてまで追求するほど、意固地になるようなことではないはずだ。
そもそもノースと名前を聞いてもピンと来なかったのだ。これは思い違いで――
「名前?」
一つの違和感が突如としてエルカを襲う。さっき彼女は、ノースと名乗った。それを自身の記憶のノースと重ね合わせ――合わない。
きっかけさえつかめれば後は簡単だった。堰を切ったように流れ込んできた記憶にはもちろん、しっくりくる彼女の名前も。
「る、ル……ルフェ?」
エルカは確認するようにおずおずとその名を口にする。
「君っ、ひょっとして本当にどこかで会ったことが……」
刹那、優しい目からまじめな表情に豹変したノース――いや、ルフェの顔がゆがみ始める。そのまま白いもやにつつまれ、エルカは周囲の世界から乖離していく。どこまでも落ちて行くような、それでいてどこまでも高く上っていくような感覚。やがて自分の肉体があやふやになり始め、続けて意識も薄れて行く。もう何も感じない。何も考えられない。何も――。
真っ白な世界に虚無が訪れた。