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わんこ戦記 ~ ボクをバカ犬と呼ばないで  作者: Roxie
キャピタル・ヘリストン編、あるいは友達が欲しいポッチーノの章
11/30

昔の夢を見ました。

 何年ぶりかの暖かいベッドの中で、いつの間にかポッチーノは夢を見ていた。

 時折思い出す、あの日の記憶だ。ポッチーノのどん底生活は、あの日から始まったのだ……。




 それは、今から数年前。ポッチーノは、ワンコロフ孤児院に住んでいた。

 いつからここにいるのかは分からない。ただ、彼女が初めて自分の名前を言えたのは、この孤児院の中だった。

 その頃からトリバーとは友達だったし、この院の主人、ワンコロフ司祭を実の父のように慕っていた。

 孤児院の子供の中で、ポッチーノだけ少し違う体をしていた。顔が少し犬みたいだったり、しっぽがあったり、運動が得意だったり。でも、そんなことは些細な違いに過ぎず、皆が仲良く暮らしていた。


 こんな幸せな日がずっとずっと続くと思っていた、とある雨降る日。崩壊は唐突に訪れた。


 この日、孤児院には教会本部から神官が来たのだ。子供だったポッチーノに、その神官がどのくらい偉い人なのかは分からなかったが、来てから応接室に入るまで、ずっと険しい顔をしていた。

 獣人であるポッチーノは耳が良い。壁に耳を押し当てれば、大体の内容は聞こえてしまう。なので、その好奇心も相まって、お客さんが来たら、いつもこっそり盗み聞きしてやるのだった。

 この日も何気なく、その耳を壁に押し当てたのだが、

「とにかく、こうなってしまったからには他に手はありません」

 と、その訪れた神官はワンコロフ司祭を相手に、少々きつい口調で抗議していた。

「そもそも獣人を養うということ自体、どうかしていたのです。今日明日にでも追い出してしまわないと──」

「そう乱暴な表現を用いないでください」

 ワンコロフ司祭の対応は穏やかだったが、その口調に意志の揺らぎのようなものはなかった。

「あの子はまだ、独り立ちするには幼すぎます。獣人であろうと、非力な少女であることに変わりはありません」

「それを言うなら、非力な少女であろうと獣人であることに変わりはないのですよ」

 尋ねてきた神官は、顔を赤らめて言葉を並べている。

「飢えが子供たちを罪へ走らせる、飢えから子供を守らねばならない。その理念には私も共感していますがね、司祭様。しかし、それはあくまで“人間の子供”に限った話です。獣人と人間を同じ目で見ること自体が誤りなのです」

「あの子の心は人間と何も変わりません。それは私がよく知っています」

「大切なのは、信者からどう思われているかです!」

 と、訪ねてきた神官は声を大きくした。

「富裕層の信者からも抗議の声が相次いでいるのですぞ。このままでは寄付が減り、教会の運営も立ち行かなくなりかねません。教皇様も危惧しておられます。この孤児院の子供たちも、再び路頭に迷うことになるでしょう」

「私は、この六聖教特区とは距離を置き、私財を切り崩しながらでも続けていくつもりですよ」

 司祭は淀みなく答えた。

「私ももう老いました。いつ、お迎えが来てもおかしくない今、地位や財産へすがりついても仕方ありますまい。未来ある子供たちの今を守ることこそが、私に課せられた最後の使命だと考えています」

「司祭様、崇高な理想だけでは現実に太刀打ちできませんぞ。そのような甘い考えは、遠くないうちにきっと破綻します。真に子供たちのことを考えるなら、払うべき犠牲を払うべきです。人間と獣人は決して共生できない、これがこの世の真理なのです!」

 と、その神官の強い語気に、ポッチーノは壁から耳を離してしまった。

 ──聞くんじゃなかった。

「ぽっちゃん、どうかしたの?」

 気づくと、仲間のトリバーがすぐ隣にいた。ポッチーノは慌てて、

「ううん、何でもない!」

 と、逃げるようにその場を去り、階段下の小さな掃除用具置き場の中へ逃げこんだ。かくれんぼの人気スポットになるほど、ここには普段、誰も来ないのだ。

 膝を抱えて目を閉じたときには、既に最初の涙が頬へ伝っていた……。

 分かっていた。獣人は、人間たちから嫌われている。それくらい、バカなポッチーノでも分かっていた。

 他の子供たちが外へ遊びに行けた日も、ポッチーノだけはずっと留守番だった。外へ出れば、獣人はいじめられてしまうかもしれないから。

 トリバーをはじめとする子供たちは、ポッチーノと仲良くしてくれた。ワンコロフ司祭やその他の職員も、みんな仲間だった。でも、それは裏を返せば、ポッチーノの仲間はそれしかいないということでもあった。




 その日の真夜中。

 ワンコロフ孤児院の寝室には、いくつもの二段ベッドが置かれている。いびきのうるさい子や寝相の悪い子もいる中、1つの小さな影が頭をもたげた。

「……」

 その子は、音もたてずに二段ベッドの上段から降りると、下段をこっそり覗きこんで、

「さよなら、トリバー。元気でね」

 と小声で優しく声をかけ、そのまま寝室を出た。

 屋根を打つ雨の音は、彼女の小さな足音を掻き消すには十分すぎるものだった。赤子の頃からここで育った身なので、真っ暗でも移動には困らない。でも、それも今日でお別れだ。

 ポッチーノは決意していた。この孤児院を出るのだ。みんなまで嫌われてしまわないように……。

 玄関の小さな扉に手をかけた。ここから先は、ポッチーノにとって全く知らない世界である。生きていけるかも分からない。

 でも、行かなければ。きっとどこかには、素敵な“居場所”があるさ。

 そう自分に言い聞かせながら、震える手でドアノブを捻った、そのとき。

「ポッチーノ、待ちなさい」

 そのしわがれた声に、ポッチーノは思わず手を止め、振り向いてしまった。誰も起きていないと思っていたのに、そこにはワンコロフ司祭がいたのだ。

「お父さん……」

「こんな夜に出かけては危ないですよ。怖い魔女に会う前に、寝床に戻りなさい」

 暗がりがふいに明るくなる。ワンコロフ司祭が、柔和な顔をしながらろうそくに火をともすところだった。

 それでもポッチーノは俯きながら、

「……お父さん。ボク、ここを出ていくよ。今まで、ありがとう。さよなら」

 と消え入るような声で答えた。

「ポッチーノ。あなたはまだ幼すぎる。外には──」

「でも、ボクがここにいたら、みんなまで嫌われちゃう」

 司祭の言葉を遮って、ポッチーノは胸のうちの思いを述べた。

「ボク、本当は産まれてきちゃいけない子だったのかな……」

「それは違います、ポッチーノ。もし、昼間の話を聞いてしまったなら、それは忘れなさい」

 ワンコロフ司祭は、ポッチーノの盗み聞きなどお見通しだった。何せ、昼間にあんな話があってすぐこれだ。ポッチーノが聞いてしまったのでなければ、辻褄があわない。

 それに、ポッチーノが健気で素直な優しい子だと言うのは、ワンコロフ司祭が一番よく知っている。

「確かに、街には獣人を嫌う人間がいます。それは、あなたみたいに優しい子がいることを知らないだけなのです。私の尽力が足りないだけなのです。ですから、自分を責めないでください」

「でも……」

 とポッチーノが言いかけた瞬間、急にワンコロフ司祭が苦しそうにせきこんだ。老齢のせいもあり、この頃、咳の持病が悪化しつつあるのだ。

「お父さん! 無理しちゃダメだよ!」

 ポッチーノは慌てて、司祭を介抱しようとした。

「ボクさえ出て行けば、全部が丸く収まるんだから。他のみんなのために、無茶だけはしないで」

「すみません、ポッチーノ。私に、力がないばかりに……」

 司祭が口惜しそうにうなだれる。が、

「……ポッチーノ。あなたは実に勇敢です。しかし、無茶をしてはいけないのはあなたも同じです。もし、皆のために出ていくという決意が揺るがないなら、せめてもの償いとして、私に最後の手助けをさせてもらえませんか」

「その気持ちは嬉しいけど、お父さん、なにする気?」

「どうか、羽ペンと紙を持ってきてくださいませんか? あとは、砂時計が落ちるくらいの時間で、全ては終わります」

「うん」

 ポッチーノは老いた司祭に代わり、孤児院の中から音もたてず、すぐさま紙と羽ペンとインク壺を持ってきた。

 それを受け取ると、ワンコロフ司祭は手短に一通の手紙を書きあげ、それを丁寧にたたむとポッチーノへ握らせた。

「行く宛てがないなら、この国の王都、キャピタル・ヘリストンを目指しなさい。明日の朝日が昇る方角へ走り続ければ、大きな港町が見えるはずです。そこの教会へ行って、この手紙を見せれば、必ずあなたの力になってくれる人が訪れます」

「その人は、ボクのこと、嫌いじゃないの?」

「ええ。私が知る中で、最も親切で気高い英雄です。きっと、この老いぼれに代わり、あなたを守ってくれるでしょう」

 と言って、ワンコロフ司祭はポッチーノの手を握った。

「ポッチーノ。あなたの人生は、きっと多くの難題が待ち受けるでしょう。しかし、いかなる時もその優しい心を捨てないでください。善意をもって接しても相手が共感してくれるとは限らない、しかし、悪意をもって接すれば相手もまた悪意を抱くもの。その強い心を忘れなければ、神はあなたを見捨てません」

「うん、ありがとう」

 ポッチーノは何度もうなずいて、

「ボク、きっと幸せになるよ。お父さんのことも、みんなのことも、ずっと忘れないで生きていくよ。今までありがとう、お父さん。ボク、お父さんに会えて本当に良かったよ」

 と、涙ながらに司祭を厚く抱擁した。

 その挨拶を交わして、ついにポッチーノは雨降る闇夜に姿を消してしまった。

 彼女の姿を最後まで見送った司祭は、その場にひざまずいた。

「こちらこそ、ありがとうございました、ポッチーノ。あなたには、数えきれないくらい多くの大切なことを教えていただけました」

 再び訪れた発作の痛みに、一瞬顔を歪ませながら、司祭はドアの隙間から見える空を見上げ、

「どうか。この、この幼くも慈悲と勇気あふれる聖者にご加護をお与えください。彼女の行く先に、幸せがあらんことを」

 と祈りをささげたのだった。

 ──もっとも、この後ポッチーノは、川に転落して手紙をなくし、道を間違えエンドポイントへたどり着くことになったのだが、それはまた別のお話。





 過去の思い出を夢として思い出しながら、本来の目的地だったはずのキャピタル・ヘリストンに辿りついたポッチーノは、マハジャーラ家のベッドで寝返りを打っていた。

 そして、それとは同じ頃、偶然にもエンドポイントをねぐらとする1人の少女もまた、過去の思い出を夢として見ていたのであった……。





 ここはエンドポイントの廃坑奥に作られた、蛇人のスラム街。人間や獣人の鉱夫たちが住まう中心街とは異なり、この辺には職も財産もない薄汚れた蛇人が無気力に暮らしているのだ。治安の悪さはエンドポイントの中でも最悪。どこに誰の死体が転がっていても、おかしくない。

 その中で、家とも呼べない小さな廃材の寄せ集めを2人の男が見下していた。

「おい、リリッキー。隠れてやがることは分かってんだ、出てこいよ」

「俺たちを怒らせると、今日の晩飯にしちまうぞぉ?」

 その高圧的な声に、廃材の寄せ集めがカタリと揺れる。

「まどろっこしいな。おい、デイデイ、やっちまおうぜ」

「そうだなぁ、ヒョルモー。力なら俺が一等賞だぁ」

 と、太めの蛇人、リザ=デイデイが廃材の中に腕を突っ込むと、

「痛い痛い! 放せよ! 放せ!」

 そう悲痛な叫び声を上げながら、ちんけな小娘が引きずり出されてきた。即座に相方のリザ=ヒョルモーが小娘を殴って黙らせる。

「おい、リリッキー。家賃の時間だぜ」

「来てやったんだ、さっさと払えよ」

 とヒョルモーとデイデイは、幼き日のリリッキーを脅しつけた。

 家賃とは言うが、別に彼らがこの辺り一帯の権利を有しているわけでもない。どうしようもないチンピラよる、日銭稼ぎも兼ねた弱いものいじめ。この辺では珍しい話ではない。誰かがいじめ殺されることもまた、日常茶飯事だ。

「アタシが金持ってるわけないでしょ! たかる相手、間違えてんじゃないの!?」

 とリリッキーは口答えして、また殴られた。ヒョルモーやデイデイの標的は金のある奴ではない、反撃してこない奴なのだ。その点、ろくに仲間もいない小さなリリッキーは、まさに絶好のカモだった。

「金がねえなら、稼いでこねえとなあ」

「良い場所、教えてやるぜ」

 2人はリリッキーを羽交い締めにしたまま、歩き出した。通行人に、彼女を助けようとする者はいない。この街の住民には、善意と言うものは欠片もないのだから。

 この後の展開を、リリッキーは何となく分かっていた。またどこかへ盗みに入らせるつもりなのだ。自分に泥棒を働かせ、その稼ぎを全部巻き上げて去っていく。この2人はいつもそうだ。

 この前なんかリリッキーは、“ブラックランブル”とかいうギャング団のアジトへ盗みに入らせられ、挙句に片腕を骨折する重傷を負いながらかろうじて生還したものだ。

 しかし、貧弱な小娘に盗みを働かせ、甘い蜜だけを吸おうとする卑劣な2人組を前に、リリッキーは今日も従わざるを得なかった。この頃の彼女は、他の貧民に負けず劣らず貧乏で、何の力もなかったのだから。


「今日はここだ」

「しっかり稼いで来いよ」

 と2人に首根っこをつかまれて連行されてきたリリッキーは、顔を青ざめさせた。

「そんな! バカ、こんなとこ、生きて帰れるわけないじゃん!」

 彼女が連れてこられたのは、街で最も悪評の高い組織、シャイロック商会の本店窓口だった。高利で金を貸し、返せなくなった債務者の手首を切り落とすことで有名な金貸しである。

 一応は大通りに面しているが、今は砂嵐の夜。通行人は誰もいない。

「口答えすんじゃねえ。おまえは金貨を持ってくれば良いんだ」

「手ぶらで帰って来たら、おまえを串に刺してバーベキューにしてやるぜぇ」

 とヒョルモーがドアを開け、すかさずデイデイがリリッキーを中に投げいれた。この2人は本質的に小心者なので、あとはこれで退散である。

 一方、リリッキーはそうもいかない。誰もいなければ、さっさと退散したかったところだが、

「なんだ、てめえは!」

 店内には、立派なデスクについた店長と思われる中年男が、血相を変えてリリッキーを見つめた。

 あの2人が間抜けなのだ、とリリッキーが舌打ちする。いくら自分の命は関係ないからとは言え、人の気配も読まず無理やり正面から侵入させるなんて。

 しかし、こうなったからには仕方ない。

「黙れ! 早く、この店の金庫を開けろ! 断れば、この場で噛み殺すぞ!」

 とリリッキーは精一杯の脅し文句を吐いた。

 が、店長の男も負けていない。ぶくぶく太ったズボンからフリントロック式の銃を抜き、迷わずリリッキーへ発砲した。

 胸への直撃を浴び、リリッキーは後ろへ吹き飛んだ。幸い、蛇人の固い鱗のおかげで傷は浅いが、痛いことに変わりはない。

「いっ……」

「なんだ、まだ生きてるのか。しぶてえガキだ」

 男が弾ごめを始めたその時、リリッキーはもう逃げることにした。銃は強力だが、非常に高価な武器である。この街に、そんなものを持っている奴がいるとは思ってもいなかった!

 が、死に物狂いで扉を開けたリリッキーの前には、ひとつの人影があった。

 砂鉄にまみれた漆黒のローブ、老婆の邪悪な笑み、店内に舞い込む砂嵐。

「よう、虫けら」

 そう挨拶された瞬間、リリッキーの両手に激痛が走る。何が起こったかは分からないが、何をされたのかは一目瞭然。手首から先には、あるべきはずの両手がなくなっていた。

 遅れてやってきた激痛に、リリッキーは言葉にならない絶叫をあげた。

「ご主人様、ちょうど良いところに! そいつは強盗です!」

「見りゃ分かる」

 と、その老婆は笑った。

 そのとき初めてリリッキーは、こいつこそが悪名高い“金貸し魔女”のシャイロックなのだと知った。顔は老婆そのものだが、体格は不思議と活発な子供のようにしっかりしており、実に不気味でアンバランスな外観だ。

「強盗ならせめて、私がこの街にいないときを狙うんだったな」

 とシャイロックは笑いながら、切断されたリリッキーの両手を拾い上げた。

 丈夫な鱗でおおわれた蛇人の腕を、一瞬で切り落としたのだ。えもいわれぬ恐怖がリリッキーの心に渦巻いた。

「流石です、ご主人様。あとはこの私が始末しておきます」

 と店長が言ったが、シャイロックはそれが聞こえなかったかのように、

「虫けら。このままおまえを始末するのは簡単だ。簡単すぎて、少しも面白くない。おまえにひとつ、最後のチャンスをやろう」

 と意地の悪い笑みを浮かべながらささやく。

「この両手、今なら銀貨1枚で買ってやる。だが返してほしいなら、返してやっても良い。蛇人なら傷の治りも早いだろう」

 その問いかけに、リリッキーは初めてシャイロックの顔を見た。

「さあ、欲しいものを言ってみろ。金か! 手か!」

 この魔女の難題に、リリッキーは絶望的な心境になった。

 銀貨をもらったとしても、きっとヒョルモーたちに奪われる。それに両手がなくなってしまえば、これから生きていくことはできない。

 かと言って両手を返してもらっても、ヒョルモーたちは手ぶらで帰ってきたことを許さないだろう。どちらに転んでも、まさに“蛇の生殺し”である。

 それに気づいたとき、彼女の心にひとつの強い感情が芽生えた。

 ──怨嗟だ。

 卵の殻を破ったときから、リリッキーはいつもヒエラルキーの底辺にいた。常に他者から虐げられ、搾取され、痛めつけられていた。

 それらの中で積もり積もった怨嗟が、この絶望的な状況により一気に花開いた!

「……知るかよ、ちくしょう」

 と吐き捨てて、リリッキーはシャイロックの腕に噛みついた。こんなに小さくても蛇人の毒牙はよく発達している。いくら栄養失調とは言え、その毒は老人を殺すくらいなら十分だ。

 どうせ死ぬなら、最後に誰かへ反撃したかった。やけっぱちだ、1人くらい道連れにしてやるのだ。

「ご主人様!」

 店長は血相を変えたが、あろうことかシャイロックは、目をギラギラさせながら笑っていた。

「それがおまえの答えか」

 と語りかけ、シャイロックは腕をひとふり。思いがけぬ強い力に、リリッキーは払い除けられてしまった。どう見ても、毒牙が効いている様子はない。

「このガキが!」

 店長は銃に弾をこめたが、

「やめてやれ。蛇に噛まれてくたばる奴に、この街での金貸しが勤まるか」

 シャイロックは妙な制止をした。

「正解だ、虫けら。明日ってのは、他人から与えられるものじゃない。牙をむいて勝ち取るものだ。よく私を相手にそれを見せつけられたな。その目つきも含めて、気に入った」

 と、笑いながらリリッキーのもとへ歩みより、同じ視線の高さになるよう屈みこんだ。

「おまえ、今日からここの店長になれ」

「何ですって!?」

 と驚いたのは、当然、“現在の店長”である。

「それじゃあ、私はどうなるんです?」

「言わないと分からないのか、バカが。おまえはクビだ」

「私をクビですと!? ご主人様は、何年もこの店の繁栄に尽力してきたこの私を、そんな薄汚れたクソガキのためにお払い箱にする気ですか!?」

「じゃあ訊くが」

 と、シャイロックは店長の方へ振り向いた。

「二重帳簿を作成して私腹を肥やしていたことが、店の繁栄にどうつながるか説明してもらおうか」

「な……、え、そ、そのようなもの、私は……」

「私が知らないとでも思ってたか? 後釜が決まるまで泳がせてやったんだ、もう十分だろ」

 と狼狽える店長を相手にシャイロックが言い放ったそのとき、再びあの不可思議な砂嵐が店内を舞った。

 リリッキーは反射的に防御の姿勢をとってしまったが、顔をあげたときには既に、椅子に座っていた店長の首がなくなっていた。

「おまえはクビだ、文字通りな」

 シャイロックの手には、いつの間にか“元・店長”の生首があった。そした、それを何の悔いもなさそうに外へ放り投げる。

 そして、リリッキーへ切断した両手を返しながら、

「これはおまえに返す。おまえほど若い蛇人なら、縫っておけば早々にくっつくだろ」

「え? あ、ありがとう、ございます」

 返してもらえるとは思っていなかったので、リリッキーはどもりながら礼を言った。

 するとシャイロックは、

「虫けら、おまえは昔の私に似ている。その目は、希望も含めた何もかも失った奴にしかできない目だ。“真のどん底”の恐ろしさを知っている奴は、ここぞというときに強い。おまえがさっき、私に噛みつきかかったようにな」

 と、まだ現状を呑みこめていないリリッキーに語りかけた。

「だが、この世には金で買えないものはない。これに反論する奴がいたとしたら、それは貧乏人のひがみか、買い方を知らないバカの戯言だ。おまえが店長を引き受けるというのなら、人生の買い方を教えてやろう。ただし給与はおまえの働き次第だ」

「給与? あの、本当に、くれるんですか?」

「ああ。ただし、与えてやるんじゃない、おまえが確かな働きをもって勝ち取るんだ。無論、それをどう使おうがおまえの勝手。遊興にふけるなり、復讐の道具とするなり、好きにするといいさ」

 それを聞いて、リリッキーは欲望の熱がふつふつとこみあげてくるのが分かった。金の魔力とでも言うべきか、今までできなかった数々のことが泡のように脳裏へ浮かんでは消える。それらに手をのばせる、一世一代のチャンスが来たのだ!

「さあ、返事を聞かせてもらおうか、虫けら! 私に魂を売るか、否か!」

「なんでもします! どうか私は、ご主人様の手先にしてください!」

 リリッキーは、手の痛みも忘れてシャイロックへ頭を下げた。

 それは、もしかしたら、彼女が悪魔へ魂を売った瞬間だったのかもしれない。

 それでも良かった。金さえ手に入るなら、何だってやってやる。このとき、リリッキーはそう思っていた。


 全てはこの苦境から抜け出すため、自分を虐げてきた全ての者を地へ這わせるために……。



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