いつのまにか寝ていました。
……夜も更けてきた。
夕食を終えた一同が、再び研究室へ戻ったのが2時間くらい前のこと。
今や窓の外に見える明かりもほとんどなくなり、夜闇が街を覆う。
そんな中、Cとンディーヤはまだ、ノートの中身についてあれこれディスカッションをしていた。いつの間にかソファーで寝てしまったポッチーノのことなんか、お構い無しである。
ノートの正体は、Cが各地で見つけた生物たちの観察記録だ。
何せCはハウス・ポスタルの配達員。その行動範囲は、一般人を凌駕する。そんなわけで、出先でローカルな珍生物に会う機会も多い。
最初は単なる土産話だった。が、ンディーヤは鉱物学を専攻するマハジャーラ家の一員である一方、趣味として生物学にも多大な興味があった。そのため、数多の鉱山業者から相談を受ける傍らで、生物学について独学していたのである。部屋中に置かれた動物の歯形や骨格の
標本こそ、その熱意の表れだろう。
Cは、あまりにもンディーヤが熱心に聞いてくれるものだから、そのうちだいぶ調子に乗ってきて、ついにはノートにそうした生物の特徴をまとめてくるようになったのだ。
これらのレポートはンディーヤの手で編纂され、『コルニクス見聞録』の題で出版されている。学者は勿論、暇をもて余した上流階級なんかにも売れているらしい。
ちなみにこのCの副業について、雇用主であるデスドールは内規に基づきこれを黙認している。業務に支障を来さないことと、ハウス・ポスタルとの関連を匂わす表現を絶対に使用しないこと。この2つを厳守する限り、配達員の副業は消極的に黙認されているのだ。
──作業もほとんど終盤にさしかかった、そのとき。
ドアがノックの音を立て、
「失礼します。紅茶をお持ちしました」
と、使用人セブールがトレイに茶を乗せて研究室のドアを開けた。
ンディーヤは振り向きながら、
「ご苦労様。そこに置いといてくれ」
「はい。……おや、こちらの小さなお客様はご就寝のようですな」
とセブールの視線の先で、ポッチーノはソファーでぐっすり眠っていた。エンドポイントからここまで走ってきたのだから、全く疲れていないはずがない。
「なんだ。やけにおとなしいと思ったら、寝てたのか」
Cは今さら気づいたようだ。
「仕方ねえ、一段落したらベッドに運んでやるか。じいさん、借りられる客間はあるかい?」
「もちろん。今すぐでも大丈夫ですぞ。私めで良ければお運びしますが」
「やめとけよ。腰を痛めたら大変だ」
と、Cが冗談めかして言うと、セブールはおどけながら
「年寄り扱いしないでくだされ。私はまだ、たったの59歳ですぞ」
「分かった分かった。まあ、その犬っころは俺がやっておくよ」
「さようですか。では、そのご厚意に甘えさせていただきます」
と、使用人はお茶を置くと部屋から出ていった。
「……なあ、ンディーヤ。おまえの家には不老の秘薬でもあるのか? あのじいさん、俺が初めてここに来たときから、ずっと59じゃねえか」
Cが冗談をとばすと、ンディーヤは苦笑しながら
「どうもセブールは、60歳になった人間は仕事の第一線から引退しなければいけないと考えているらしい。実は僕も本当の年齢は知らないんだ」
「おいおい、化けもんかよ」
と、Cは笑った。
──この2人の仲は、幼少の頃から始まっている。
先代のマハジャーラ家当主、つまりンディーヤの実父は若者への教育に熱心だった。彼は息子を含む5人の弟子を集め、彼らに魔法を含む高度な教育を与えたのだ。
その弟子というのが、部屋の隅に飾られた肖像画に描かれた5人組。ンディーヤ、C、レインクルス、ガンマ、ロズである。
このうちガンマとロズは隣国、大ネオリカ帝国から留学に来た身で、しかもロズの方は、ンディーヤの許嫁として幼いうちに面識を持たせておくという意味合いもあった。レインクルスも、名だたる騎士を何人も輩出した系譜の1人として修行という意味合いがあったようだ。
そんなこんなで集められた“マハジャーラの教え子たち”は皆が本当に優秀で──Cとガンマとレインクルスの間で力試しも兼ねた小競り合いが起こるのは日常茶飯事だったが──とにかく、全てのレッスンはつつがなく完遂された。
あの頃は本当に楽しかった。たった1度で良いから、またあの面子で集まってみたいと思えるほどに……。
「そろそろ休憩しようぜ。どんな上手い茶も冷めたら台無しだ」
「そうだね。そうしようか」
と、二人はティーカップを手にした。
「──ところでC君。少し虫が好かない表現をしてしまうが、訊きたいことがあるんだ」
と、ンディーヤは、すっかり寝入ったポッチーノへ視線を向けながら、
「ひょっとして、彼女があの“ワンコロフの犬”なのかい?」
「ん? 何だ、そりゃ」
Cはポッチーノに目をやりながら言った。
「いや、知らないなら良いんだ。悪いね、変なことを訊いてしまって」
「悪こいつについては、数日前にボスから押しつけられたばっかで、ほとんど何も知らねえんだ。で、何なんだよ、その“ワンコロフの犬”ってのは」
とCが軽い興味で訊くと、ンディーヤは紅茶で乾いた喉を潤した後、語り始めた。
「六聖教特区に、ワンコロフ司祭の庇護下に置かれた孤児院があってね」
──六聖教特区。
このヘリストン王国の都市を3つ挙げるとしたら、政治の中心地のキャピタル・ヘリストン、産業の中心地のエンドポイント、そして宗教の中心地の六聖教特区になるだろう。
六聖教とはこのヘリストン国のみならず、国境を越えて信仰されている超広域宗教だ。六聖教特区は、六聖教の教皇がヘリストン王より自治を認められている都市である。
教皇の下には何人かの司祭がおり、絶大な権力を持っている。中でもワンコロフ司祭は古株で、積極的な事前活動家としても知られていた。特に有名なのが──
「ワンコロフ孤児院か? 名前だけなら、何度か聞いたことがあるが」
「その通り。ワンコロフ孤児院は、司祭の『罪は貧しさが産むもの。そこには心の貧しさも含まれる』という持論に基づき、身寄りのない子どもに食事と読み書きなどの教育を与えながら保護しているんだ。その孤児院を出た者は、姓としてワンコロフと名乗る習慣があるみたいでね」
それであいつ、獣人の癖に字の読み書きができるんだな、とCは納得した。
獣人に字を教える物好きな人間は滅多にいないし、字を知らない獣人が自分の子に字を教えられるわけがない。獣人と言えば、まず字を知らないというのが世間の常識なのだ。
そう言えば夕方に会ったあの靴屋の小僧、トリバー・ワンコロフとか名乗ってたな、と思い出しながら、
「おまえがそんなことにまで詳しいなんて珍しいな、ンディーヤ」
「当主になってからは、社交場へ行かざるを得ない機会が増えてね。困ったことに、皆が話題にすることとなると、好かない話題ながら覚えてしまう」
ンディーヤは少し渋い顔をした。
「ワンコロフ孤児院は本来、保護の対象を人間のみとしていた。これは司祭個人の思想というより、教会を寄付で支える上流階級たちの意向だろう。何せ、この国では獣人への差別意識がうんざりするほど強い」
「そりゃ今日、嫌ってほど分かったよ。いざ獣人の知り合いを持ってみて、初めて気づかされた」
とCは今日のことを思い出しながら呟いた。
「そして、数年前に1つのスキャンダルが発覚した。孤児院が、秘密裏に獣人の子を匿っていたことが知られたんだ。世間はそろって、孤児院を非難したよ。僕は馬鹿げたことだと思ったが、こんな若造1人が難色を示したところで、何かが変わるはずもなかった」
ンディーヤは、どこか曇り気味の顔で説明を続ける。生物学の研究を介して獣人に対する理解は深いため、そう毛嫌いしていないのである。少なくとも、世間で言われている獣人差別の言葉には、かなりの嘘や誇張された表現が含まれていることは見抜いていた。
「それ以来、“ワンコロフの犬”という言葉は社交場ですっかり定着したよ。最終的に孤児院は、火消しに動き出した教会本部からの圧力に押される形で、その獣人の子を追い出してしまったらしい」
「で、今こうしてここにいるこいつが、もしかしたらその成れの果てかもしれないってわけか」
と、Cはソファーで眠るポッチーノを見た。
「見た目によらず、ずいぶんハードな人生を送ってきたんだな」
「良い先輩になってあげなよ、C君。良い仲間がいるというだけでも、人というのは安心できるものだから」
ンディーヤは穏やかな物腰で言った。
そのとき、
「──ふみゃあぁ……、ボスぅ……」
ポッチーノが、なんとも情けない声色で寝言を唱えながら、寝返りを打ってソファーより転げ落ちた。
「ったく、同情してやったそばからこれかよ。このバカ犬」
Cはため息をつきながら、ポッチーノの背中と膝に手を回して抱えあげた。やたら女の子のだっこに慣れているのは、CがCだからだろう。さすがにバカ犬ではそそられないが。
「さてと、こいつの寝相がおまえのラボをぶっ壊す前に、ベッドに投げこむとするか。ンディーヤ、客室借りるぜ」
「ああ、いいとも」
2人はそんなことを言いながら、部屋をあとにした。
その頃、ハウス・ポスタルのエンドポイント支部。
配達を終えたウィロン・O・ウィスプが建物のドアを開けた。
そのとき受付のジョーは、営業時間を過ぎたこともあって帰り支度をしている最中だった。
「あーら。おかえりなさい、ウィスパー。疲れたでしょう? アタシの胸で癒してあげるわぁ」
「生憎このウィスパーは、君の鳩胸の世話になる物好きではない」
「まあ。もう、照れちゃってぇ」
と、なぜかジョーの方が照れている。
この、女装した青ひげ巨漢が顔を赤らめてクネクネしている光景、もしCがこの場にいたら大層げんなりしただろう。
だがウィロン・O・ウィスプはクールに──もっとも、仮面で顔は見えないのだが──鼻で笑ってみせた。そもそも、いつものことである。もう慣れた。
「そう言えば、ポチちゃん、うまくやれてるかしらぁ」
と、ジョーが思い出したように言った。
「ほら、あの子、初めての外回りでしょう? この砂漠のどこかで遭難してないかって、つい心配になっちゃうのよぉ 」
「くくっ、人はそれを杞憂と呼ぶんだよ」
ウィロン・O・ウィスプは、いやに自信たっぷりに答えた。ポッチーノがここへ雇われた初日なんか、あんなに蔑んでいたのに。
「初仕事でドジをやらかす欠陥品を、あのボスがつかむはずないだろう。まず今回くらいは、うまくやれるだろうさ」
「そうだと良いけど……。でもアタシ、同じ可憐でか弱い乙女として心配なのよねぇ」
とジョーが言うのを無視して、ウィロン・O・ウィスプは地下の事務室へ向かった。
「か弱い、だって? ……くくっ、毛深い乙女の間違いじゃないのかい?」
獣人であるポッチーノは、素肌に見える部分も目立たないほど細い産毛で覆われている。ジョーについては……、いや、深くは語るまい。
そんな独り言を唱えながら、ウィロン・O・ウィスプは事務室のドアの前までたどり着く。
「──ボス。今、戻ったよ」
とドアを開けると、デスドールはいつものように机と向き合って書類仕事をこなしている。
そして、これまたいつものように背を向けたまま、
「ご苦労。……俺に特段、報告すべきことは?」
と定型文を返した。
「職務上はないがね。しかし、帰りに面白い話を耳にすることができたよ」
敢えてウィロン・O・ウィスプは先を匂わせる不透明な言い方をしたが、デスドールは動じない。
肩をすくめながら、ウィロン・O・ウィスプは言葉を続けた。
「あの情報屋の気まぐれにはいつも苦労させられるが、奴が断言したからには本当のことなのだろう。ボス、君が拾ってきた犬っころは、かの有名な“ワンコロフの犬”で間違いない」
──情報屋のヴォロスは、このエンドポイントの何処かに住む凄腕の情報屋である。が、デスドールと同様に人前へ姿を現す機会はほとんどなく、その存在を知る者はごく一部に限られる。
ウィロン・O・ウィスプは、その数少ない顧客である。対価にかこつけて、料金の他に酒や香水などの嗜好品を要求してくるのはいつものこと。これがヴォロスの好みに合わないと、仕事を請け負ってもらえないのだからたちが悪い。
ただしその分、仕事の腕は一流。どういうツテを持っているのか知らないが、ガセをつかんだことは1度もない。
──そのヴォロスに、ウィロン・O・ウィスプはポッチーノの素性を調べさせた。獣人でありながらワンコロフという姓を名乗っているのを知って、彼女こそ“ワンコロフの犬”なのではないかと思ったのだ。
そして、ヴォロスの調べによって、ポッチーノが勝手にワンコロフと名乗っているわけではないことが明らかになった。ポッチーノは間違いなく、かつて世間を騒然とさせた“ワンコロフの犬”本人なのだ。
唯一、分からないのは──
「ボス。君は知っていたんだろう? 奴がワンコロフの犬と知って、拾ってきたんだろう?」
と、ウィロン・O・ウィスプはデスドールの背中に問いかけた。
「それなら、色々と納得できる。なぜ君が、食い逃げ常習犯という信頼性ゼロの、それも薄汚い獣人の小娘を拾ってきたのか。そしてなぜ君が、そんな野良犬にやたらと目をかけるのか」
ランプの明かりだけが部屋を薄暗く照らす中、ウィロン・O・ウィスプは言葉を続ける。
「知らなかったとは言わせないよ、ボス。君は最初から知っていたんだろう? ……次はいったい、何を企んでいるんだい?」
そのとき、作業に一区切りがついたデスドールは、ようやく振り向いた。いつも通りの、何の感情も籠っていない冷徹な目をしながら
「好きに解釈しろ」
と返す。
「おまえがどう解釈し、何をしでかそうと、それでどんなツケを払わされようと、俺の知ったことではない。もっとも、業務に支障が出ない限り、という注釈つきだがな」
「なるほど、なるほど。君がそう言うなら、しばらくは傍観に徹させてもらおう」
ウィロン・O・ウィスプが返事をしたときには、既にデスドールは机に向き合い、仕事の続きに取りかかっていた。
肩をすくめながらウィロン・O・ウィスプは、魔法でドアを開けると、音も気配も経たずに部屋を出た。そして、ドアを閉めると同時に仮面の奥から乾いた笑い声をこぼす。
「良いよ、ボス。君ほど、このウィスパーを退屈させなかった者はいない。やはり君は最高の主人だ」