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蟻地獄

作者: 猫街道

 何かが顔を覆いつくすような違和感を感じ目が覚める。カーテンから差し込む朝陽も無ければ、部屋も真っ暗。朝までまだまだ眠れそうだ。それにしても、顔に残る違和感が気になる。

 右手で顔を拭ってみると、群生した髭とは違う奇妙な感触。部屋が暗くて良くわからないので、枕元の目覚まし時計を撫でてバックライトで手元を照らす。

 バックライトに照らされた右手を目に、血の気が引いた。顔を拭った右手が真っ黒に染まっていたのだ。程なくして目覚まし時計のバックライトが消える、恐る恐るもう一度目覚まし時計の明かりで右手を照らす。今度は右手を黒く染めていたモノがひしめき合っている事に気付く。

 慌てふためき、天井照明のリモコンを手探りで探し当てボタンを押すが、明かりが灯らない。目が覚め徐々に体の感覚が研ぎ澄まされていくと、全身を何か小さなものが這っている感覚を覚える。何も見えない暗闇の部屋、全身を這う何かの恐怖に襲われる。


 壁伝いに部屋を歩き玄関に辿り着くと、懐中電灯を手にスイッチを入れる。LEDの青白い光が自分の左手を照らすや否や、身震いがした。

 無数の(うごめ)く小さな黒い虫。その黒い虫は全身を這っていた。それは小さな蟻であった。肌を晒す程の隙間すら無く全身に纏わり付いた蟻。懐中電灯の光に照らされると動きを早める。

 そしてさらに壁が、床が真っ黒な事に気づく。普段であれば白い壁紙は黒一色に染まっていた。


 何が何だか分からず、この空間から逃げ出したい一心で、玄関の扉を解錠し外へ飛び出る。

 外の世界も黒かった……

 共用通路の床、壁、手摺には隙間無く蟻がへばり付いている。見慣れた無機質なモルタルの質感に彩られた共用通路とは似つかない光景であった。

 視線を遠くに移すとマンション全体が、いや街中が黒く覆われていた。すべての建物は黒く覆われ、高架橋も黒くなり、雑木林も黒く染まっていた。


 玄関の扉を閉め直ぐに探し出した物、殺虫剤だ。まずは寝室に薄く満遍なく散布した。

 殺虫剤に付け加えられた人工的な香料が鼻に着く。換気しようと窓を開けようものなら、さらに蟻が入り込むであろう。決して良い匂いではないが我慢する。

 懐中電灯で照らすと殺虫剤が散布された部屋中の蟻は不規則な動きをし、やがて力尽きていった。幸いにも市販の殺虫剤で駆除できる相手のようだ。そのままリビング、廊下、玄関、台所、風呂場、家中すべての場所に殺虫剤を散布した。力尽きた蟻が壁から剥がれ落ち、本来の白い壁が所々で姿を現す。


 床に積もった蟻の死骸、次にこれをなんとかしなければ。掃除機をコンセントに接続し、スイッチを入れるも動き出す気配が無い。ブレーカーは落ちていない。部屋の明かりが点かない事から考えても停電であろう。マンション全体の停電なのか、街全体の停電なのか、発電所レベルで死んでいるのか分からないが、外があの様な状況なら無理も無い。幸いなことに普通の掃除機以外に、充電式のハンディ掃除機があったので地道に蟻の死骸を吸っていく。


 一通り家中の死骸を吸い取り、寝室に戻ると再び動く物が壁を侵食し、染めようとしている光景が目に入る。殺虫剤で全て駆除した筈なのに何処から湧いたのか、懐中電灯で部屋の隅々を照らしていると意外な所から蟻が湧き出ていた。

 エアコンの送風口である。エアコンが生み出す水滴を、室外に排出するために設けられたドレンホース。そこから蟻が侵入し、送風口から湧き出ていた。送風口には殺虫剤の水滴が垂れるほど大量に散布した。蟻は侵入してくるものの、送風口に塗られた高濃度の殺虫剤により直ぐに絶命する。


 安心するのはまだ早い事に気付く。家中の隙間を塞がなければ再び蟻の侵入を許す。換気扇はダンボールで覆い、ガムテープで隙間なく塞ぐ。窓の隙間にもガムテープを貼り、蟻の侵入を防ぐ。


 家中の蟻を駆除し、侵入経路を経ったところで風呂場に向かう。シャワーを浴びたい、体中に蟻が這っていた気持ち悪さと、慌て動き回ったせいで汗ばんでいた。残念ながら蛇口を捻るも、求めていた水は出てこない。停電している以上、受水槽のポンプも停止する。圧が掛からなくなった水道管には水が流れない。シャワーは諦めて、風呂の残り湯で体を流そうと、浴槽の蓋を巻き上げる。蟻の死骸が浮かび上がり黒く染まった浴槽内を目に、蓋を閉める。


 体は流せなかったが、少なくとも家の中は安全な環境が確保されている。外の世界はどうなっているのか、何が起きているのか。

 まずは情報収集である。就寝前に充電しておいたスマホのバッテリー残量は十分。とはいえ、いつまで停電が長引くか分からないので大事に使おう。アンテナマークはしっかり立っているものの、一向にニュースサイトに繋がらない。SNSアプリも画面が固まったまま動かない。察するに電波を飛ばす基地局は非常用バッテリーで生きているものの、そこから先は停電で死んでいる。インターネットが全てダメとなると、超広域での停電という事になる。

 こういう時に頼りになるのがアナログなラジオである。非常持ち出し袋の中からラジオと乾電池を探し出す。いつ購入したのか覚えていないアルカリ乾電池。半分以上が液漏れを起こしていたが、使えそうな二本を選び出し、ラジオを鳴らす。普段聴かないラジオ、局の周波数など知る術も無いが、自動選局が電波を捕らえ、スピーカーが鳴り出す。


『……私鉄各社も終日運転を見合わせ。高速道路、全国で全線の通行止め。空の便は国内線、国際線共に全ての便が欠航となっています』


 ラジオの情報から察するに、外を覆いつくす黒い奴らはこの近辺だけでなく、全国で発生しているようである。さらにラジオに耳を寄せる。


『繰り返しお伝えしていますように本日早朝より、全国各地で大量の蟻が発生し、大きな影響が出ています。政府は外出は控え、気密性の高い屋内で待機するようにと国民へ呼びかけています。また警察庁は、停電により信号機が機能していないことや、十分な視界が確保できない事などから、自動車の運転を行わない様にとの呼びかけを発表しています』


 その後もラジオからは交通情報だの、関係各所からの呼びかけだの、同じ情報が幾度となくアナウンスされていた。

 時計を見ると時刻は正午を差しる。しかし実感が湧かない。窓を蟻が覆っており日光が部屋にまで届かない為だ。ネットもできない、暗くて読書もできない、当然外にも出れない。自分の力で電気が戻るわけでも無ければ、ネットが復旧するわけでもない。できる事などなにも無いのでソファーに横たわり目を瞑る。


 どれくらい眠っただろうか。時計を見ると午後六時になっていた。懐中電灯片手に、家中を照らしまわるが、隙間を塞いで以降蟻が侵入してきた形跡は無い。ほっと胸を撫でおろしたところで、空腹という感覚を体が思い出す。今朝から何も飲まず食わずであった。

 恐る恐る冷蔵庫を開けるも、中は綺麗で黒い奴が忍び込んだようには見られない。パッキンで密閉された冷蔵庫の中にまでは、体の小さな奴らでも入れなかったようだ。ペットボトル飲料を飲み干すと、食べ物を漁る。冷凍庫に眠る冷凍食品は表面が柔らかく溶け始めているものの、大半は凍った状態だ。停電からかなりの時間が経過しているであろうに、冷凍庫の保冷能力は侮れない。

 冷凍パウチの食品を温めようと思うも、当然電気と水道が使えない状態でガスのインフラが生きている筈も無い。殆ど使わないがカセットコンロがあることを思い出し、探し出したが重要な事に気付く。家中の隙間を塞いで密閉した状態での火の気の使用は危ない。酸欠なり一酸化中毒になりかねないと。

 加熱調理は諦め、おとなしく非常持ち出し袋から乾パンを取り出して口に含む。非常食として乾パンを一缶備えて、災害に対し憂いなし満足していたが、これではまったく足りないと今更実感する。

 外の状況はどうなったのか、再びラジオを鳴らす。


『……助教授にゲストとして来ていただきました。解説をお願いいたします』

『はい。まず、今回全国で確認されている蟻、これがどこから来たのかという点ですが、現在の所まだ分かっていません。地中に巣を張っている蟻たちが何らかの兆候により、異常行動を起こし地上に這い上がってきたという説。シベリアの永久凍土が温暖化で溶け出し、凍土に眠っていた蟻の卵が一斉に羽化したという説もあります』

『詰まるところ原因ははっきりしていないという事ですね。今回大量に湧き出た蟻、毒を持っていたりするのですか』

『それはありません。毒は一切持っていない種ですし、噛みついたりもしません。また捕獲したサンプルを調べたところ興味深い事が判明しました』

『興味深い事と言いますと?』

『今回湧いて出た個体はすべてオスなんです、それも生殖器が無い。端的に言いますと、これ以上個体数が増えることは無いということです』

『そうなんですね。では一旦、ここで全国各地の交通情報です……』


 酷い状況の中にも、若干希望の光が見えた。全国を覆う蟻たちが、これ以上繁殖することは無い。朗報である。しかし、今生存している個体をどうやって始末するのか、想像がつかない。


 時計は十時近くを回り、部屋が冷え込んできた、この時期にしては珍しい寒さ…… 停電しているため、暖房機器は使えない。幸い暑さとは違い寒さは着込めば凌げる。この晩は暖かい服を着こんで眠りについた。


 翌朝、目が覚めるとカーテンの隙間から光が差し込んでいることに気付く。布団から出て、寒い外気に晒されながら、恐る恐るカーテンを開く。外には見慣れた光景が広がっていた。昨日見た光景は夢だったのだろうか。ふと視線を下に向けると、ベランダの地面には蟻の死骸が積もり黒い絨毯を形成作り上げていた。


 昨日のあれは夢ではなかったようだ。しかし一晩にして、街を覆っていたあれだけの蟻が死滅したのは何故なのか。この街だけでなく、全国に湧いて出た蟻に同じことが起きているのだろうか。防災用ラジオのスイッチを入れスピーカーに耳を傾ける。


『……全国各地で蟻の死滅が確認されていますが、なぜ一晩で全ての個体が死滅したのでしょうか教授?』

『昨晩の冷え込みが原因でしょう。この時期にしては珍しい寒さでしたが、彼ら蟻の生存限界を下回る冷え込みだった。それぐらいしか検討がつきません、現時点では』

『なるほど。教授ありがとうございました。さて、先程もお伝えした通り、本日正午より各電力会社が送電を再開します。商用電源は正午に復旧、全国の停電は復旧する見込みです……』


 どうやら全国的に沸いて出た蟻は力尽きたらしい。加え、あと数時間で電気も復旧する。何はともあれ災難は去っていったようだ。今夜は暖かい食事、風呂にも浸かれそうだ。もっとも風呂を楽しむなら、蟻の死骸が浮いた浴槽を掃除するのが先であるが。


 ベランダと玄関先に積もった蟻の死骸を、ホウキで寄せ集めゴミ袋へと収める。透明なゴミ袋からは真っ黒な蟻の死骸が透けて見える。不気味だ。段ボールで塞いだ換気扇、ガムテープで隙間を埋めた窓の隙間を元に戻す。

 丸一日、蟻の猛威から逃れる為に即席の対策を施した部屋を、元あった姿に直す。そんな事をしている内に、正午を迎えた。ラジオでアナウンスのあった、電力復旧の時間だ。


 電力が復旧すると、あらゆる家電の通電を示すLEDランプに光が戻ってくる。冷蔵庫のコンプレッサーが動き出すと、聞きなれた音が台所に響き渡る。ようやく戻ってきつつある普段の生活に、安堵の溜息を漏らす。


 暫くして、鼻に付く臭いが漂う。何かが焦げるような臭いを微かに鼻が感じ取る。鼻から空気を、数回吸っては掃き出す、犬の様な鼻捌きで臭いの元を探る。

 寝室の扉を開くとPCから煙が漏れ出していた。慌てて電源ケーブルを引き抜き、家庭用の小型消火器を浴びせる。幸いにも出火する前の状態であったので、部屋を汚さない小型消火器でも難を逃れる事ができた。発煙の原因は想像に容易い。蟻の死骸が電化製品内部に残ったまま、通電が再開されたため運悪くショート状態になった。二次災害もいいところである。寝室には火災報知器がならない程度に薄っすらと煙が充満する。不快な臭いと煙を喚起する為、ベランダの窓を開ける。


 窓の外では緊急車両のサイレンが至る所から鳴り響く。そして、あちらこちらの住居から黒煙が立ち昇っていた。

 本当の大災害は、まだ始まったばかりのようだ……

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― 新着の感想 ―
[良い点] 突如降って湧いたかのような災害による不快感が何だか鮮明に想像できて、とてもホラーな光景でした。 [気になる点] そんな規模で無差別に被害齎した災害中にラジオ放映可能だったこと。主人公が電気…
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