33.兵科対抗演習:作戦立案
軍学校全体が、祭りを前にしたような、浮かれた空気に包まれていた。
魔術学校も例外ではない。
「聞いたかい、アッシュ。来週の兵科対抗演習の話を」
「うん。魔術学校も出るんだよね。メンバーの選抜、終わったの?」
課業が終わるや、そそくさ荷物をまとめていたアッシュにマイルズが耳打ちする。
「選抜は終わった。不肖、この私が指揮官として出る。これからチーム戦の練習だ」
「マイルズ君なら、いい線行けるんじゃない? がんばって」
「ありがとう。全力を尽くそう」
アッシュに微笑みを向けられ、マイルズは満更でもなさげに答える。
アッシュの突然の休学と復学については、魔術学校の同級生の間に様々な憶測を生んでいた。その中には下世話なものも多くあった。
同時にアッシュはマイルズの“派閥”というのが同級生の認識である。祖父が帝国宰相のアスタロト大公家を実家に持つマイルズの怒りを買いたいという者はおらず、あくまで水面下の噂にとどまっている。
「だが、私が確認したかったのは、そっちではない。来週の兵科対抗演習に、工兵訓練校も出場する、という話だ」
「え? 初耳だよ!」
「そうか。もしゴランが出場するのならば、私がぜひ手合わせしたいと言っていたと伝えてくれ」
「うん。伝えておく。じゃあね」
アッシュは荷物をまとめた鞄をかけると、軽い足取りで教室を出ていった。
数人の同級生が、その動きを目で追いかける。
復学してからのアッシュには、人の目を引きつける魅力があった。休学するまでは、地味でおとなしく、目立たない少年だったのに。
その変化が何に由来しているのか、分かっているだけにマイルズとしては心が波立つ。
――彼の魅力を、私は前から知っていた。彼の魅力を、周囲も気付き始めた。この二つは誇らしく、うれしい。しかし、彼の魅力を、私は引き出すことはできなかった。何より、彼の本当に魅力的な顔は私には向けられていない。この二つには、忸怩たるものがあるな。
軍学校の敷地の外れにある、古びた館に入ったアッシュは、自分の部屋の扉を開ける。
王子はソファに座り、眼鏡をかけて本を読んでいた。
「ただいま、ゴラン様!」
「おかえり、アッシュ」
花嫁は王子の隣に座ると、ちょんちょん、と王子の腕をつつく。
王子が黙ったまま本を持った腕を上げ、花嫁は王子の胸に寄りかかる。
王子の腕が下りてきて肩を抱かれると、それだけで花嫁は《吸精》した時と同じ、満ち足りた幸せな気分になる。
――ボク、このままだとゴラン様中毒になっちゃう。この先、離ればなれになっちゃうことがあると、禁断症状が出ちゃうかも。
何か聞くことがあった気がするが、今は王子成分を堪能したい。
目を閉じてしばらく、王子の指が本の紙をめくる音に耳をすませる。
ぺらり。ぺらり。ぺらっと一枚戻り。
ぺらり。ぺらり。ぺらり。ぺらり。ぺらぺらっと二枚戻り。
――ん?
違和感を感じて花嫁は目を開く。
王子は本を読む速度は遅いが、何度も読み直したりはしない。
「ゴラン様、何か気になることでもあるの?」
読書の邪魔をする気はないが、読書への集中力に欠けているのは気になった。
「うん」
王子は本に栞をはさんで閉じ、脇に置いた。
「士官学校の兵科対抗演習に、工兵訓練校も参加することになってね」
「あ、その話、本当だったんだ」
「あまり気持ちの良い話ではないのだが、アッシュには話しておこう」
王子は、士官学校と工兵訓練校の間に感情的なしこりがあることから話を始め、工兵訓練校があまり望まない形で兵科対抗演習に参加することになった、と説明した。
士官学校の生徒の言動については、曖昧にぼかした。
今では王子も工兵訓練生として当事者であり、その視点は当事者ゆえのバイアスがかかる。花嫁に、士官学校に対して余計な印象を植えたくはなかった。
「むーっ。何それ。それってどう見てもイジメじゃん」
それでも、花嫁は士官学校に大いに悪印象を抱いたようだった。
頬をぷぅ、と膨らませ唇をとがらせる。上目遣いに王子を見上げる。
「ゴラン様は、どうするの?」
「私は指揮官に従うだけだ」
「指揮官ってゴラン様じゃないの?」
五強のひとつオーガ族。ゴランは帝国の武を象徴する種族の王子だ。しかも、名前だけの存在ではない。
公表はされていないが神蟲を倒し、先日は骨竜を倒して皇帝から直接お誉めの言葉をいただいているのだ。
ゴランが本気なら、魔装具《豪腕槌》を持ち出さなくとも、軍学校内で上位の実力者だと、花嫁はひいき目コミで思っている。この場合、花嫁的にはひいき目ナシというのは不可能なので、客観性は存在しない。
「代表者が出て個人の武勇を競うならば私だろうが、今回は兵科演習だ。つまり、兵科の役割と強さを見せるための演武的な側面を持つ。工兵訓練生になったばかりの私では、不適格だ」
「それもそうだね。魔術学校のチームも、単純な攻撃魔法で戦うんじゃなくて、いろいろな魔術の使い方を見せなきゃって言ってたし」
「だから、棄権も含めて指揮官のニ・モルに一任したんだが、やはり気になってな」
そして再び本を持ち上げて読書に戻る。
花嫁はしばらく唇に指をあてて考え、そしてクスクスと笑った。
「どうかしたか?」
「べっつにー」
――ゴラン様、人のことを悪く言うのイヤだから口にしなかったけど……本当は、すごく腹を立ててるよね。
王子は顔に出ないだけで激情家だ。士官学校の連中のやり方に、心の中は怒りで煮えくりかえっている。本音のところでは、兵科演習に参加して仕返ししてやりたくてたまらない。わざわざ『個人の武勇を競うならば私』と口にしたように、そういう気持ちは強くあるのだ。
それを理性で押しとどめ、普段通りに過ごそうと読書をしていても、逸る心が集中力を欠かせている。外見から老成して見えるが、王子だってまだ若いのだ。
――ゴラン様、可愛い。
花嫁は王子の腹に手を当てた。
王子は、この奥に自分の怒りや不満をため込み、外には出さない。
それは王子の美徳だが、花嫁としては、少しは発散させてもいいのに、と思ってしまう。
――王子がお腹に溜めてるものを、他の形で発散できたら……あっ。
さわさわと王子の腹筋を指で撫でながら、花嫁はまずい、と思った。
自分の思考は今、危険な方向に向かっている。
――まずい……どう考えても、そっち方向に思考がいっちゃう。ダメ。ダメだよ。王子は発散ですむかもだけど、ボクがダメになる。溺れる。確実に溺れてダメになる。
さわさわ、さわさわ。
姉を笑えない、と花嫁は思う。
自分もサキュバス族なのだ、と自覚してしまう。
あるいはこれは、サキュバス族か否かは関係なく、恋をすると誰もがなるダメさなのかとも思ってしまう。
――思考をそらすには……そうだ、魔法について考えよう。えーと、まずは《結界》に《吸音》を組み合わせて……って、何考えてるの、ボク? 精神集中。精神集中。
ノックの音。「失礼します」「どうぞ」
ドアが開く音。「ラ・モルという人が訪れてきていますが」「通してくれ」
しゃっ、しゃっ、と床を鱗がこする音。
「おい。いつまでイチャついてるんだ。客人だぞ。シャンとしろ、シャンと」
「うわあっ?!」
花嫁が顔をあげると、幼なじみのナーガ族のメイドがそこにいた。
軍学校は全寮制で、王族、貴族の子弟も寮に入る。そのため、家格に応じて使用人に寮内の生活の世話をさせることが認められている。もちろん使用人にかかる経費はすべて自弁である。アスタロト大公家のマイルズは、二十人を超える執事とメイドを雇い入れており『自室』がある大きな屋敷の中に住まわせている。
これは極端な例だが、王子と花嫁も、元は貴族のはなれであった寮に入るにあたり、ナーガ族のメイドを使用人として入れている。住み込みではなく、通いの形ではあるが。
「い、いつの間に入ってきたの?」
「気付いてなかったのかよ、お前っ!」
メイドはビタンッと尻尾の先で床を叩いて呆れかえる。
部屋の入口では、ゴブリンの若者が困った顔をして視線を斜めにそらしている。
「どんだけ脳みそピンクに染まってやがんだ。いいから、王子の腹筋を撫で回すその指を止めろ。王子も困ってるだろうが」
「あ……ご、ごめんっ!」
服の上からさわさわしていた花嫁の指は、今見れば、服の下に潜ろうと王子のシャツのボタンを片手で器用に外していた。
無意識とは恐ろしい。
「いや、私は……まあ、来客もあるので、そろそろ……」
「ごめんっ! 本当にごめんっ!」
「あのー、邪魔なら僕は後でも……」
「ううんっ! えと、来週の対抗演習の件だよね? 大丈夫! ボクが出ていくからっ!」
花嫁は顔を真っ赤にして立ち上がり、部屋を出ようとする。
それを止めたのは、ゴブリンの若者だった。
「待ってくれ。君の意見も聞きたい」
「え? ボクの?」
「君は魔術学校の学生だね。ならアドバイスがほしい」
ゴブリンは机の上に持ってきた紙を広げた。
線と記号で埋め尽くされた地図。場所は工兵科が戦うことになる第三演習場だ。
「ゴラン、僕なりに作戦を考えてみた」
「そうか」
「まずはこの地図を見てほしい」
壕があり、柵があり、土壁がある。
工兵科の教科書にも載っている野戦築城を小さなスケールで再現したものがそこに書かれていた。兵科対抗演習のルールで、工兵科に事前に与えられた期間と資材で作ることが可能な築城としては、ほぼ満点の出来である。
地図の概要を説明した後で、ゴブリンの若者は花嫁に聞いた。
「君の感想を言ってくれ」
「ボク? えーと、うん。よくわかんないけど、強そう」
「ゴラン、君の意見は?」
「よくできている……が」
王子は考え、考え、そしてゆっくりと言った。
「これでは勝てない。負ける」