32.ゴブリンの工兵訓練生
帝都軍学校の工兵訓練生のニ・モルが、そのオーガに会った時に感じたのは『でかい』だった。もちろん、普通に会ってもオーガは大きい。しかし、その時のニ・モルは何しろ地面に這いつくばっていたのだから、なおのこと大きく感じたのである。
「よさないか、君たち」
オーガが、豊かに響く声で呼びかけたのは、ニ・モルを囲んで小突いていた士官学校の生徒たちだ。いずれも魔人族か妖精族で、何かにつけて工兵訓練校の生徒に絡んではいたぶってくるたちの悪いグループだ。普段なら悪口くらいですむのだが、その日は虫の居所が悪かったのか、ニ・モルに足を引っかけて転ばせた上、ぶつかってきたと因縁をつけて小突き回してきたのである。
そこにやってきたのが、オーガだった。
「なんだ、お前は。このゴブリンに礼儀を教えているんだ。邪魔をするな」
グループのリーダー格らしい魔人が、オーガをにらむ。
声が少し引きつっているのは、オーガの泰然とした態度に気圧されているのだ。
しかし、それも一瞬だけ。オーガが着ている制服にかけられた緑色の帯を見て、魔人の唇が軽蔑に歪む。
「はっ、お前も“鍬持ち”ってわけか」
“鍬持ち”は工兵訓練生へつけられた蔑称だ。
工兵訓練生が実習でせっせと鍬をふるって塹壕を掘ったり、土塁を積み上げたりしていることから付けられている。
対して魔人の制服にかけられているのは、鮮やかな赤の帯。士官学校でも花形である騎兵科の生徒だ。
「鍬持ち? うむ、鍬をふるうのは得意だ」
オーガは気にした様子もない。この蔑称を知らないというのは、どうやら転入してきたばかりのようだ。
堂々としたオーガの態度に、ニ・モルを囲んでいた連中の気がしらける。
「私は工兵訓練生のゴランだ。諸君、もうすぐ今日の課業が始まる。それぞれの義務を果たそうではないか」
騎兵科の生徒たちは、互いに顔を見合わせた。
そして、ことさらにオーガを無視してニ・モルをにらみつけ、ののしる。
「おい、ゴブリンのクズ。下等種族の分際で、でかい面すんじゃねえぞ」
「さっさと故郷に帰れ。軍学校の面汚しが」
「次に会ったら、ただじゃおかないからな」
そして唾をはくと、ブーツについた拍車を鳴らすようにして立ち去っていった。
オーガが倒れたニ・モルに近づき、手を差し出す。
「大丈夫かね。立てるか?」
「問題ない」
ニ・モルはよっこいせと立ち上がり、転ばされた時に素早く制服の内ポケットにしまった眼鏡を取り出して鼻にかけた。ニ・モルの内ポケットは特別製で、少々の衝撃では潰れないように木の枠がしてあり、内側に柔らかい布が張ってある。眼鏡専用の内ポケットである。
「おや」
「お?」
細部まではっきりとした視界に、オーガの顔が入ってくる。
ニ・モルがかけたのと同じ、度のきつい分厚い丸眼鏡。同じ近眼の眼鏡仲間だ。
互いの顔を見合わせ、どちらともなく笑う。
「助けられたようだね。僕は工兵訓練生のニ・モル」
「ご同輩か。なるほど“鍬持ち”とは工兵訓練生へのあだ名のようなものか」
「そういうこと」
ニ・モルは鞄をかけ直した。
時計塔を見て時間を確認する。
「や、もう時間がない。こっちへ。近道になるから」
「ありがとう。来たばかりで中の構造はよく知らないのだ」
「朝の始めは土木の講義だ。君は算盤は使えるのかい? 演習があるぞ」
「一応は。あまり得意ではない」
「その指ではな。僕が自作した早見表がある。こいつを使いたまえ」
「感謝する」
不思議なものだ、とニ・モルは思った。
自分は気難しい方だという自覚がある。
いつも不機嫌そうな顔をしているせいで、先ほどのように絡まれることもある。
だが、この初対面のオーガとは自然に話をすることができる。
「僕は庄屋の息子、三男でね。昔からの伝統だよ。坊主になるか軍人になるかの二択だ」
「お兄さんと一緒にはやっていけないのか?」
「土地を分けるのはよくないからね。家に残れば兄の家来だ。ただ、新しい土地を開墾すれば、それは僕の土地にできる。工兵訓練校に通うのは、その技術を学ぶためだよ」
「軍人を志しているわけではない、ということか」
気が付けば、数日でそういう家の事情まで話せるようになっていた。
辺境の国の王族だという、このオーガは、帝都にいるオーガとは少し違っていた。
帝都にいるオーガは、用心棒や拳闘士が多い。力自慢で、粗暴な印象だ。
目の前にいるオーガは、そうではない。ではどうかというと……
「軍人はちょっとね。僕には向いていない」
「そうでもないと思う」
「お世辞ならよしてくれ」
「世辞ではない。君は算盤の扱いが上手い。それは、算盤の使い方が上手いのももちろんだが、頭の中で何をどう計算し、どんな数値を求めているか、事前に組み立てる能力がある、ということだ。だから、算盤を動かし始めると君の指は止まらない。私だと、計算が終わるたびに、次は何を計算するんだっけ、と本を見て確認するからどうしても遅くなる」
「そりゃまあ……だが、軍人と算盤の技術は関係がないぞ」
「私は、事前に作業の手順を整える能力は、軍人に必須だと思う。君はよい軍人、立派な軍人になれるぞ」
オーガは、真面目な顔でニ・モルに話しかける。
ニ・モルは、自分がなぜこのオーガを心を許しているかわかった。
――彼は他人の言動をよく見ている。貴族連中は、僕をゴブリンだからというだけでバカにして、僕という人間がどんな人間かを知ろうともしない。だが、彼は違う。僕という人間を、ちゃんと見ようとしてくれる。だからこそ、話をして楽しいんだ。
その時、ニ・モルとゴランが話をしていたのは、学内の建物から別の建物へとつながる廊下だった。
そして、前に数人のグループがたむろしていた。制服の帯は赤。士官学校の騎兵科の学生たちだ。
「おいおい、聞いたか。ゴブリンがよい軍人になれるだとよ」
「算盤が使えるだけで敵が倒せるなら、苦労はないぜ」
「バカじゃねえの? 知性低そう」
最初にゴランと出会った時の連中だ。
ニ・モルは「行こう」とゴランに行って、足早に通り過ぎようとした。
それをリーダー格の魔人が呼び止める。
「待ちな“鍬持ち”。話がある。来週の兵科対抗演習の話だ」
「兵科対抗演習だって?」
ニ・モルは何を言い出すのか、と警戒しながらも答えた。
「それは士官学校の中での話だろう。工兵訓練校には関係ない」
「それがあるんだよ。今回は、帝都内の他の軍学校の者も申請して参加できる。魔術学校もな」
士官学校は、騎兵科と歩兵科のふたつの大きな兵科に分かれており、さらに騎兵科も重騎兵、軽騎兵、航空兵、歩兵科も重歩兵、軽歩兵、海兵などにクラス分けされている。
兵科の違いは訓練内容の違いでもあるため、クラス相互の交流が乏しいが、実際に配属されるとなると、異なる兵科についての知識も必要だ。
そこで行われるのが兵科対抗演習である。
「お前ら工兵訓練校も参加することになった」
「申請が必要なんだろ? しないよ」
馬鹿馬鹿しい、とニ・モルは鼻で笑った。
工兵訓練生は、基礎的なものをのぞけば、戦闘訓練は受けていない。ほとんどの時間は、学科と実技訓練に費やされている。兵科クラスに勝てるものではない。
「申請はもうしてある」
「何っ?」
ニヤニヤと笑う魔人に、ニ・モルはくってかかった。
「こんな手のこんだことをして、何のつもりだ」
「身の程を教えてやろう、と思ってな。俺は重騎兵B二クラスのフォスターだ。どことどこが最初に当たるかはクジだが、ひょっとしたら俺らかもしれない。よろしくな」
「くっ……」
拳を握りしめるニ・モルに、騎兵科の生徒たちは底意地の悪い笑みを浮かべた。
「じゃあな」
「安心しな、命までは取らないからよ」
「骨の二、三本は覚悟しとくんだな」
「ひょっとしたら、目か耳か鼻かもな」
「眼鏡がないと見えない目じゃ、なくなっても気にならないか」
「わーっはっはっは」
ニ・モルは顔を真っ赤にして、脅しつけて去る騎兵科の生徒を見送った。
そして見えなくなると、ほう、と大きなため息をついた。
「馬鹿か、あいつら」
ニ・モルは握ったままの拳をじっと見て言う。
「まさか僕らが、本気で出場するとでも思ってるのか」
百害あって一利なし。
わざわざそんな勝負に参加するはずもない。
勝負の前に、棄権して不戦敗になればいいだけである。
「なるほど、棄権するのか。それも兵法だな」
「うん。最初から逃げる気だと知られたら別の手を打たれるから、形の上ではチームを選抜して訓練する。面倒な話だが、やる気は見せておかないとな」
「チーム戦か。指揮官は君か?」
「級長だし、僕がやるよ。あ、君がやりたいなら、頼んでもいいかな、ゴラン」
「いや、君でいい。それと――棄権は少し待ってもいいと思う」
「どういうことだ?」
ゴランは、ニ・モルの顔を見て言った。
「演習の細目次第だが、勝つ方法があるかもしれない。それを探ってからでもいいんじゃないか。私には皆目見当がつかないが、君ならば良い作戦を思いつくかもしれない」
「なんだって?」
ニ・モルは仰天してゴランを見上げた。
同時に、ニ・モルの胸の奥で、何かが火花を散らせた。
握ったままの拳に、ぐっ、と力が入った。