31.帝国宰相の孫
帝国における教育とは、長らく“家”が行うものだった。
上は王侯貴族から下は農家や商家まで。上の世代が、下の世代に、仕事や生活に必要な知識やスキルを伝授する、というのが教育であった。
それ以上のことを行うのが難しかった最大の理由は、知識やスキルの多くを人が持つナマの体験としてしか保持できなかったからである。ノウハウは、実体験としてのみ、親から子へ、親方から弟子へ伝えられた。
それでも、ごく一部の知識は、書物の形で記録され、教育に使われた。
その最初のものが、日記である。
『水争いの陳情のため、*月**日、帝都で***様のところへ参候』
この程度の備忘録めいた記録でさえも、それを保持している集団と、個人の体験に頼り切りの集団とでは、家の運営に大きく差がつく。それが、個人で重ねることが難しいレアな体験であればなおのことである。
それゆえ、有用な日記は子孫に伝え、あるいは他家のものであっても書き写して教育に使った。
やがて、印刷技術の発達と紙の生産向上が書物を普及させていくと、教育は一気に進化を遂げるようになる。
“教師”が“学生”に対して書物を利用して知識やスキルを伝授する、効率的な教育の仕組みが生まれたのだ。
“学校”の誕生である。
帝国の平和な三百年は、さまざまな面で停滞の時代ではあったが、それでも教育を普及させてきた。書物の種類と量が増えたことで、読み書きを教える学校が各地にでき、帝都には魔術と神学の専門学校が建設された。
「サキュバス族は、昔から神学の専門校はあるんだけど、魔術学はそこのオマケみたいになってて、だからボクは帝都に留学することになったんだ」
「白角国では、各支族の子弟を骸骨城に集めて読み書きや武器の使い方を教えていた。私も、子供の頃には他の子に混じって学んだものだ」
王子と花嫁は、相部屋の掃除をしながら、それぞれの通った学校について語り合った。
「それにしても、掃除のしがいがある部屋だよね。うわ、このへんの床、腐ってる。きっと雨漏りしてるよ。カーテンもボロボロ」
「季節外れの留学生で、半年しかいないのだ。部屋があっただけありがたい。アッシュは、元の部屋に戻れなかったのか?」
「ボクが休学した後で、他の子が入っちゃったみたい」
「付き合わせて、すまない」
「ううん。ひとりぼっちじゃなくて、うれしいよ」
花嫁が笑顔を王子に向ける。
王子はいつもの仏頂面だが、花嫁は気にしない。
王子も花嫁と一緒でうれしいのは、ちょっとした動きからわかる。
馴れぬ手つきで雑巾掛けを手伝うマイルズがぼやく。
「私に言ってくれれば、部屋くらい用意してあげるのに。水くさいぞ、アッシュ」
「ごめん、マイルズくん……それと、掃除、手伝ってくれて、ありがとう」
「クラスメイトとして当然のことだよ。それにしても……」
帝国宰相の孫は、クラスメイトであるサキュバス族の少年をまず見て、続いてごついオーガ族の青年を見た。
「オーガ族の王族と、きみが知り合いだとは、知らなかったよ」
「あー……知り合ったのは、最近なんだ。その……休学届け出したアレコレに関わるので、詳しくは言えないんだけど」
「そうだったのか? 私はてっきり……ずいぶんと仲睦まじいから」
「む、睦まじいって、そんな……えーと……本当にそう見える?」
花嫁がちょっと嬉しそうな、でも困ったなあ、という顔で照れる。
マイルズは憮然としてうなずく。
「見えるとも」
王子は少し考え、そしてマイルズに向き直り、一礼した。
「マイルズ殿。あなたはよい人だ」
「なんだい、いきなり」
「あなたは帝国宰相の家柄だ。掃除のようなことには、馴れておられぬのだろう?」
「……私が迷惑なら言ってくれ」
マイルズはむっ、とした顔で王子をにらむ。
自分の掃除の手際が悪いのは、マイルズも自覚している。
「そんなことはない。これは正直に申している。あなたが命じれば、あなたの使用人は、この部屋をたちまちきれいに掃除しただろう。それをなさらず、友のために手を汚す。あなたは、矜持を持っている」
「きみは率直すぎる。オーガとは、皆、そういうものか?」
「田舎ものゆえ、ご寛恕願いたい」
王子は花嫁を見た。
花嫁が「えっ?」という顔になる。
「……いいの?」
「アッシュ、あなたにとってこの方が友であるなら。嘘はよくないと思う」
「うん……そう、だね。マイルズ君。えーと、驚かないで聞いてね」
「きみが、このオーガと恋仲ということか?」
「えっ」
花嫁が目を丸くする。
マイルズは苦笑した。
「自覚がなかったのか。どうなんだ、サキュバス族として、それは」
「ごめん」
「まあ、そういうサキュバス族らしくないところが、きみらしい」
「あうう……」
「だが、問題ではないのか? きみが休学した時に、家のものをやって調べさせた。きみの姉がオーガ族に輿入れすることは聞いている」
「あ」
花嫁は王子を見た。
王子が小さくうなずいた。
――そっか、そうだよね。ここで嘘をついても、相手が帝国宰相の大公家だもの。家の人を使えば絶対にバレる。そしてバレてしまえば、嘘をついたことだけが残っちゃう。
「えーとね……まず、修羅場みたいなこと、はないよ。お姉ちゃん、ゴラン様のとのお見合いから逃げちゃったの」
「修羅場ではないが、醜聞だな。なるほど、言いにくいことなのはわかった」
「うん。だからこれから話すことは、できるだけ広めないで欲しいんだ」
「私に友の秘密をばらす趣味はないぞ」
「ありがとう」
花嫁は、順を追って説明した。
時間稼ぎのため、《変容》を使って女になってお見合いしたこと。
司法局の監査が入り、種族間婚姻法によって婚姻が禁止されたこと。
婚姻許可のために功績をあげるべく、ドワーフの迷宮を通り、街道敷設を行ったこと。
司法局と都市エルフのスギヤマ議長を中心とする陰謀と、神蟲討伐については伏せた。
「まあ、その後、一悶着あって、結果として帝国の結婚許可はもらえたんだけど……ほら、ボクは男で子供が産めないから」
「何か問題が?」
サキュバス族ほどではないが、魔人族のアスタロト大公家は、性的にはかなりオープンな文化である。
「白角国王家は男子直系で、血筋が絶えるといろいろまずいんだ」
「オーガ族側の理由か。それならわかるよ」
「王子の子を産むため、ボクは女になる。ボクの今の《変容》だと、体の中までは変えられないから。それで魔術の勉強と腕を上げるため、復学したんだ」
「ふむ、そういうことだったのか」
「理解してくれた?」
「理解した……一点をのぞいて。質問はいいかな?」
「えっと……何? 嘘はつかないけど、答えられない場合もあるよ?」
「それほどおかしな質問ではない」
マイルズは、目の前の少年の姿を改めて見直す。
《変容》を使っていなくても、男としては小柄で、背中も肩も薄く華奢な体つきだ。
掃除のため普段着で体のラインが露わになって女には見えにくいからこそ、不安定で、危うい印象を与える。
しかも、恋をしている。
「今の流れでは、お見合いで出会った時が初対面だね?」
「うん」
「その時は、別に好きでもなかったのだろう?」
「うん」
「だが、今は愛しているのだね?」
「うん」
「いつそうなったんだ?」
「わかんない」
花嫁は、正直に答える。
「気が付いたら、そうだったんだ」
自分が、とっくに恋をしていることに、気付いたのだ。
「まったく……そりゃ……」
「マイルズ君?」
「いや、こっちの話だ。正直に話してくれてうれしいよ。友人として、君の手助けをできるだけしたいと思う」
「ありがとう!」
花嫁が、ぱあっ、と華やかな笑顔になる。
掃除が一段落し、出たゴミを建物の外に運ぶことになった。
王子とマイルズがその役につく。
建物の裏手に出たところで、マイルズは王子に話しかけた。
「アッシュには聞かせたくない話がある」
「聞こう」
「私は、アッシュを愛している」
がしゃ、と王子が運ぶゴミが音を立てた。
マイルズは、王子の顔を見て、そして納得してうなずいた。
「なるほど。表情には出ないが、感情は豊かな方なのだな、君は」
「……」
「私はアッシュを友人として大事に思ってもいるから、今はそのことを伝える気はない。だが、君には言っておきたくてね。私と君は、恋敵だ」
「わかった」
「今は君が勝者だ。だが、君が勝者の立場に甘えてアッシュを悲しませるなら、私が彼を奪う」
「心しておこう」
ゴミを裏庭の一角に積み上げ、王子はパンパンと手をはたくと、その大きな掌を、マイルズに差し出した。
「マイルズ殿。恋敵であるとしても、あなたが立派な方なのは変わりない。どうか私とも友誼を結んでくれないだろうか」
「ひとつだけ、条件がある」
「聞こう」
「同じ人を愛するなら、私と君の立場は同等。敬語とか、遠慮はなしにしてくれ」
「わかった、マイルズ」
マイルズは王子の手を取った。
「では、今日から私と君は友人だ、ゴラン」
「マイルズ、ひとつ聞きたい」
「なんなりと」
「いつ、アッシュを愛するようになった?」
「決まっているだろう。そして君も同じはずだ」
マイルズは、悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「気が付いたら、そうだったんだ」