30.花嫁の決意
夜になっても、花嫁の不機嫌はなおらなかった。
王子は少年皇帝との間にあったすべてを、花嫁に話してある。
花嫁も、王子が少年帝になびいた、などと疑ってはいない。逆は疑っている。
原因が王子ではないから、不機嫌が長引くのである。
――自分でも、子供っぽいとは思うけどさ。
宮殿の中に用意してもらった寝室のベッドの中で、花嫁は考える。
これは結局、花嫁の自信の問題なのだ。
中途半端な婚約者としての居場所と、まだ男である身の不安。女になることへのためらい。四年という時間の制約への焦り。
今、この時。
花嫁が王子を愛していることも、花嫁が王子に愛されていることも、疑いのない真実である。
しかし、今この時の真実は、未来を保証しない。
――ゴラン様は、すごいよ。骨竜との戦い、誰かが裏で糸をひいてるかも、だけど……でも、骨竜をゴラン様が倒しちゃったのは、事実。ゴラン様は、何か大きな運命のようなものを持っている人だ。それにひき替え、ボクは……
何かを“持っている”という点では、弟のアッシュよりも、姉のエミリアの方が間違いなく“持っている”。
幼い頃から騒動を起こし、周囲をかき回してきた姉。
弟は、その騒動に巻き込まれるばっかりだった。
――ゴラン様との結婚話だって、お姉ちゃんが逃げ出したからボクに回ってきたようなものだし。もし、お姉ちゃんが逃げなかったら、ボクは……
普通に義弟として出会ったとしても、王子と仲良くなれた自信はある。友達に、家族になれた。
でも、それだけだ。そこで終わりだ。
姉から王子を奪えたとは、思えない。奪う気にもなれなかったはずだ。もし、アッシュが王子に恋をしても、王子が応えてくれることはなかったろう。
今、この時。
王子が自分を愛してくれているのは、奇跡のような偶然の積み重ねだ。花嫁はそう思っていた。だからこそ、少年帝のちょっとした気まぐれに心が揺れる。偶然が積み重ねられた不安定な今が、壊れてしまう気がして。
――つまり、ボクが自分に自信がないのが問題なんだよね。わかってるんだよ、そんなことはさ。ふーんだ。
花嫁にとって王子と結婚するのは、目の前の大事な目標だが、そこがゴールではない。
結婚し、子供を産み、育て、人生を共にあること。
運命の荒波を、共に乗り越えること。
運命の荒波に花嫁が無力でも、王子は気にしないだろう。
でも、花嫁は気にするのだ。胸を張って、王子の隣にいたいのだ。
――そうなるため、ボクはどうすればいい?
ベッドから花嫁は降りて、窓辺へ行く。
夜明けが近い。
花嫁の体つきはすでに、男のものに戻っている。
外見だけを《変容》させるのですら、今の花嫁には限界がある。
「うん。決めた」
王子が目覚めた時、枕元に花嫁がいた。
「おはよう、ゴラン様」
「おはよう、アッシュ」
花嫁は王子の右頬に手を伸ばし、かすかに盛り上がった傷を撫でる。
小さく呪文を唱えると、傷は消えた。
花嫁は王子の右頬の、傷があった場所にキスをした。
「ボクの《変容》魔法でも、このくらいの傷の治癒はできるようになったよ。魔法がきれても、傷は塞がってる。ハガネ丸さんと、ドワーフの迷宮で冒険してた成果が出てる」
低レベルの《変容》魔法で傷を塞いだ場合、持続時間が過ぎれば、再び傷は開く。なので、戦場では《変容》魔法を包帯代わりに使うことで、戦いが終わるまで、あるいは後方の治療所に到着するまで、怪我を一時的に塞ぐことがある。捻挫した足首をギブスをはめて固定するような低レベルの《変容》魔法でも、あるのとないのとでは大違いだ。
これが、高レベルの《変容》魔法になれば、傷を塞いでいる間に自然治癒が進み、魔法の効果が切れても、そのままくっついている。捻挫や骨折も、高レベルの《変容》なら魔法の効果がある間は少しぎこちないが自力で移動できる。
花嫁が目指すのも、この方向だ。
内臓も含めて《変容》し、そしてそれを長時間維持できれば、魔法の効果が消えても、《変容》で変えた性別が永続する。
「でも、このままだと時間がかかりすぎちゃう。ボクはもっと早く、魔術の腕をあげたい。だから――」
花嫁は唇をきゅっ、と引き結んでから言葉を続ける。
「ボク、軍魔術学校に戻るよ」
「わかった」
「止めないの?」
「それがアッシュの選択ならば、私は応援し、支援するのみだ」
「もう……カッコいいんだから」
花嫁は今度は王子の左頬にキスをした。
そして、かぷっ、と王子の左の耳たぶを甘噛みする。
「痛いよ、アッシュ」
「おーひら、ひょーららら」(王子がそうだから)
唇を離し、恨めしそうに見る。
「ボクが心配してるのに……はぁ」
「?」
「王子、ほっとくとどんどんモテちゃいそうで」
「まさか。今までだってそんなことはなかったぞ」
「今までは、家族の中で暮らしてたからだよ」
これからは違う。
ドワーフ自治国の再興や、白角国の開発のため、王子は外で多くの人と出会う。
少年帝のキスにしても、今は冗談だろうが、花嫁はいつまで冗談が続くか危ぶんでいた。
その根拠は、自分である。
――ボクだって、最初から王子のこと……だったわけじゃないし。なのに、気が付いたら、恋しちゃってたし。
「軍魔術学校には、どのくらい通うんだ?」
「一年以内。目標は半年。欲しいのは卒業証書じゃなくて、魔術師としての階梯だけだから」
「そうか」
「今日から、ボクは実家の方に戻るね。復学の手続きしなきゃだから。ボクの戸籍の方も、いろいろ処理しないといけないし」
「わかった」
王子の反応はそれだけだった。
花嫁としては、引き留められるのは困るが、反応が薄いのも寂しい。
オトコ心は複雑なのである。
そして数日後。
王子と王妃と別れ、サキュバス族の帝都屋敷に入った花嫁は、復学の手続きをすませ、久しぶりに魔術学校の制服に袖を通す。
帝国軍の、黒を基調とした制服に、魔術師であることを示すローブを羽織ったものだ。
数ヶ月ぶりだが、もう何年も着ていなかったような気がする。
十三才で入学してから三年。袖のあたりが少しほつれているが、良い生地なので繕いながらまだ十分に着れる。
この服と、それが象徴するものこそ、自分の人生を自分で決めた最初の一歩だった。
姉の影で生きるのではなく、魔術を学び、自分の力で生きていこうと決めたのだ。
「よしっ」
身の回りのものを詰めた大きな鞄がふたつ。
まずは寮に入って、それから学校だ。
魔術学校の寮は、帝国軍の他の教育機関と同じ敷地にある。カサンドラクロス帝が、偽帝事件で没落した貴族の屋敷と庭園を接収し、建設したのだ。
ここには、魔術学校以外の、帝国軍士官学校、帝国軍大学校、工兵訓練校なども建ち並び、帝国中から数多の若者が集う。
小柄な花嫁が、うんしょ、うんしょと鞄ふたつを引きずって門を通り抜けたところで、六頭引きの大型の馬車がその脇を通り過ぎた。
車輪が巻き上げる土埃に、花嫁がけほけほと咳き込む。
少し進んだところで、馬車が止まった。
ドアが音を立てて開く、若者がひとり、飛び降りる。
「アッシュ!」
「あ、アスタロト君」
アスタロト大公の孫、マイルズ・アスタロトは、整った顔を喜びで輝かせて、花嫁の手を握った。
「きみが突然、休学したから驚いたよ。いったいどうしたんだい」
「あー、うん。ちょっと実家がらみでイロイロあって」
「まあいい。話は後だ。その荷物はうちのものに運ばせよう」
「いいよ、大丈夫だよ」
「そうはいかない」
顔も頭も家柄も性格もいいアスタロト大公家の末子に花嫁は圧倒されてしまう。
「荷物は私が運ぼう」
「?!」
ひょい、と大きな鞄ふたつを軽々と肩に担ぎ上げた大男に、マイルズが胡乱なものを見る目を向けた。
「なんだね、君は。制服を見るに、工兵訓練校の学生のようだけど」
「……! …………!!」
花嫁の方は、驚きのあまり、声にならない。
工兵訓練校の制服を着用したオーガ族の青年は、マイルズに頭を下げた。
「白角国のゴランだ。今日から半年、留学生として工兵訓練校に通うこととなった」
王子は、得意そうな――花嫁にだけ、それとわかる――表情で、胸を張って応えた。
ギリギリ窮屈そうにとまっていた王子の胸のボタンが弾けて飛んだ。