28.謁見の間にて
かつて、帝都近郊には、広大な皇帝家専用の狩猟の森が広がっていた。
帝都の人口が増え、市街地が拡大した後も、御用の森は残り続けた。
その一部に、帝国軍の駐屯地ができたのは、先帝カサンドラクロスの時代である。偽帝事件の混乱の中で即位したカサンドラクロス帝は、事件の教訓から皇帝直属の帝国軍の強化と近代化に着手したのだ。
しかし、予算の問題などで近代化は遅々として進まず、在位百年を前にして一昨年に崩御、今上帝の御代となってからは、ピタリと停止してしまう。
深夜にこの駐屯地にたどり着いた王子、花嫁、トモエ王妃の一行は、兵舎の中で一泊した。
そして夜明け前。
「ん……起きて、ゴラン様……んんっ」
昨日の骨竜戦の疲れで、朝までぐっすりと眠っていた王子は、唇に当たる柔らかな感触に目を覚ます。
「ん……」
目の前に花嫁の顔があった。
花嫁の唇が離れる。
「おはよう、ゴラン様」
「おはよう、アッシュ」
王子が自分の唇に指をあて、首をひねる。
「吸精をしていないようだが?」
「昨日は、あんな大きいのと戦って、大変だったでしょ? だから無理を――むむっ?!」
王子が花嫁の肩を抱き寄せる。唇と唇が重なる。
至近距離で互いの目をのぞきこみ、花嫁はくすっと笑って舌の先を出し、王子の唇を舐める。王子も唇を開き、互いの舌と舌をちょん、とくっつけあう。
しばらくの後、ふたりの唇と舌が離れる。
ぽてっ、と花嫁の頭がまだベッドに横たわったままの王子の胸元に落ちる。
「今朝のゴラン様、ちょっと強引」
「いやだったか?」
「ううん。こういうのも、いいよ」
コンコン、扉がノックされた。
花嫁が、ぴょん、と飛び上がるようにして立ち上がる。
「すぐに準備をして。出発するから」
扉の向こう側から、トモエ王妃の声。王子が扉に向かって呼びかける。
「母上、今日はどちらへ?」
「宮殿よ。陛下にお会いするわ」
王子と花嫁は顔を見合わせる。
言葉は明瞭に聞き取れたが、その意味が理解できなかった。
「陛下、ですか?」
「陛下って……陛下っ?!」
「そうよ。だから早くしてね」
何でもない、という風にトモエ王妃は答えた。
それからしばらくして。
「まあでも、まあ。こうだよね」
「うむ」
帝都大宮殿。
広大な謁見の間。
太い柱がずらっと並び、天井ははるか高く。
きらびやかな礼装をまとった文武の百官が並ぶ。
王子と花嫁は、その隅っこに立っていた。トモエ王妃は外で待っている。
「ボク、ここに来るの初めて」
「エミリアは、帝都の学校に通っていたから、謁見の間にきたことがあるかと思っていた」
「ないない。魔術学校の同級生だと、アスタロト君ところくらいかなー」
小声でおしゃべりをしながら待っていると、儀礼官がやってきて陛下の来臨を告げる。
それまで座っていた高官も立ち上がり、全員が頭を下げた。
王子も花嫁も、見よう見まねでそれに習う。
しん、と静まりかえる中で、遠くからかつかつという音が響く。
「魔帝国皇帝バルガイア陛下のお出でである!」
儀礼官の大音声が、謁見の間の隅々まで広がる。
全員がさらに深く頭を下げる。
「……」
王子の耳に、かすかな声が聞こえた。皇帝の声だろうか、と思う。
続いて、儀礼官の大音声が聞こえた。
「陛下のお言葉を伝える。皆の者、面を上げよ!」
王子と花嫁は顔を上げた。
王子は眼鏡の奥の目を細めた。玉座に誰かが座っている、ことまではわかる。
しかし、それだけだ。表情どころか目鼻立ちすらこの位置からは確認できない。
「バルガイア陛下って、ボクと同い年なんだよ」
「十六才か」
「うん。大変だと思う」
ルーチンワーク的に進む朝の謁見の様子を、王子と花嫁は遠くからながめていた。
まだ若く経験の乏しい皇帝に、実際の政務はとれない。上がってくる報告に「では、そのようにせよ」「よく相談して決めるように」などと答えるだけだ。そうした定型的な文言すら、事前に決められているのだろう。
「陛下は十年前に陛下のご両親が事故で亡くなって皇太孫として立てられたんだよ。一昨年に先帝が亡くなられて即位されてからは、ずーっと、アスタロト君ところのおじいちゃんが宰相で仕事をされてるんだ」
「そうか」
魔人族のアスタロト大公家は、帝国の『三大』筆頭だ。ほとんど帝都には出てこず自治国に引きこもっている龍族、数が少なく影響力が限定される不死族と比べ、魔人族は数の上でも力の上でも帝国の最上位の地位を占めている。
そのアスタロト大公家の当主が、現皇帝の宰相として後ろ盾になっているのだ。政治的には安定しているが、同時にそれは旧弊な体制がそのまま維持されているという側面も持つ。事故で息子夫婦を失ってから、半ば隠居状態だった先帝の御代の終わりから十二年あまり。帝国の政治は停滞の中にある。
「では、本日の朝の謁見は以上で――」
「お待ちあれ!」
高官の席のひとつから、声が上がった。
「我が輩から報告が一件ある。フラグゴール帝による骨竜討伐の勅の件だ」
声をあげたのは、機人族のトランジスタ帝国軍長官だ。歯車をカチカチといわせて口にした名前に、廷臣がざわめく。
「フラグゴール帝……?」
「“狩猟帝”ではないか」
「二百年前のお方だぞ」
帝国の高官レベルともなれば、寿命は長い。
それでも、二百年前となればずいぶんと昔である。
「勅の内容から申し上げると、マシュー山の骨竜を倒したものには、褒美をとらせる、というものだ」
フラグゴール帝は、政務に興味がなく、かといって権力を濫用することもなく、帝国にとってはまずまずの皇帝だった。フラグゴール帝が興味を示したのは狩猟で、二つ名も、そこからついている。
そのフラグゴール帝の狩猟の邪魔をして獲物を奪ったのが、マシュー山の骨竜だった。腹を立てた皇帝は自ら骨竜を討伐しようとしたが、地下に逃げられてしまう。神話時代のゴーレムである骨竜は、損傷を受けると自動修復モードに入って地下深くに隠れる。
自動修復が終わり、骨竜が再び地上に出てくるまで百年以上かかることを知ったフラグゴール帝は、勅を残し、自分の死後であっても必ず骨竜を倒すよう言い残したのだ。
だが、時が過ぎればそのような古い勅は無視されるものである。
フラグゴール帝の骨竜討伐の勅は、すっかり忘れ去られたまま、今日まで残っていた。
「昨日、帝国軍の一〇一空挺団が訓練の途中、骨竜と遭遇し、戦闘になった。そして、同行していた白角国のゴラン王子の手により、骨竜は打ち倒された。フラグゴール帝の勅はここに果たされたことを陛下にご報告申し上げる」
カチカチと歯車を鳴らしてトランジスタ長官が着席する。
報告を聞いた皇帝が、玉座の隣に立つ儀礼官に何事かを口にする。
儀礼官は、ちらとアスタロト大公に目をやり、それから大音声をあげる。
「オーガ族自治区、白角国のゴラン王子! 名乗りをあげよ!」
「はっ」
ずい、と王子が踏み出す。
皇帝の玉座の前には、絨毯の敷かれた道がある。
廷臣は、その両脇に立つ。
高官は、玉座に近い側に席があって、そこに座る。
末席に位置していた王子は、絨毯の上に膝をついて礼をした。
「ゴラン、ここに」
「……」
「骨竜討伐、大儀である。後ほど、褒美を使わす」
「はっ」
「下がれ」
王子は下がり、これで謁見は終わった。
~~~~
謁見の間を出るのは、身分が上の人間から順番である。
皇帝が退席し、高官が退出し、廷臣たちが去る。
王子と花嫁は、最後の最後の方である。
謁見の間の外には、トモエ王妃がいた。
今朝のトモエ王妃は、侍女風の衣装をまとっている。一見すれば貴族の付き人のようだ。
それゆえにか。若く腹が突き出た獣人族の廷臣が、トモエ王妃に馴れ馴れしく話しかけていた。下心が見え見えである。
「終わりました、母上」
「え?」
若い廷臣が、ぎょっとした顔で近づいた王子を見る。
骨竜討伐で陛下に言葉をかけられた巨漢のオーガ族の王子。太い腕でひと撫でされたら、首の骨がぽっきりいきそうだ。
そのオーガ族の王子が、小柄で愛らしいエルフ娘に、何と呼びかけたか。自分の聞き間違いではないか、そういう顔で二人を見比べる。
「おつかれさま、ゴラン」
「ええっ?!」
廷臣の反応がおかしく、花嫁が吹き出す。
「……こちらの方は?」
「帝都に詳しい方のようよ。おいしい料理の店をご紹介してくれるとか」
「し、失礼いたしましたっ!」
「いえ、そういうことであれば。辺境からきているので、そうしたことには疎いのだ。ぜひ教えていただきたい」
廷臣が頭をぺこぺこと下げるのに対し、王子が真面目な表情で答える。
王子は純粋に好奇心だけで聞いているのだが、相手には外見の厳つさと骨竜を退治した豪の者という先入観がある。
「は、え、いや――」
廷臣が混乱した様子でキョロキョロと周囲を見回す。
周囲の人間が一斉に視線をそらす。関わりたくない、という風に。
ひとりだけ、例外があった。
「タムワース、お前が悪い。――私の友人が失礼いたしました、ゴラン王子、そして王妃さま」
痩せた獣人族の男が前に進み出て一礼した。
突き出た鼻の上には王子よりもさらに度が進んだ分厚い眼鏡がかけられている。
「私はラジカルポリマーです。商務省の役人です。こっちはタムワース」
「タムワースです。農務省で働いております」
「白角国王子のゴランだ」
「骨竜討伐、おめでとうごあいます。もしよろしければ、私たちがひいきにしている店を何軒か紹介いたしましょう」
「お、おい、ラジカルポリマー」
タムワースが薬品で汚れている友人の袖を引っ張る。
「王族の方を連れて入れる店じゃないぞ」
「だが、うまい。量もあり、何より安い。雰囲気も良い店だ」
「いや、だからな」
「だからこそ、だよ。上が接待に使うような高級店であれば、我らが紹介せずとも行かれる機会はあるだろう」
ちらと、ラジカルポリマーが王子を見る。
王子がうなずいた。
「うん。よろしく」
「では」
ラジカルポリマーは、店の名前と道順を書いたメモを王子に渡す。
さらにもう一枚。
「店の者に、これも。私とタムワースの紹介であることを書いておきました」
「ありがとう。礼を言う」
そこへ腕章をつけた若い男がやってきて、王子を呼んだ。
去っていく王子たちを見送ってから、タムワースが友人に話しかける。
珍しいものを見た、という表情である。
「お前がエラいさんにごますりとは、珍しいな」
「ごますりではない……いや、ごますりなのかな」
ラジカルポリマーがボリボリと頭をかく。
「ちょっとあの王子に興味があってね」
「俺は、王子の隣にいた女の子に興味があるな」
「相変わらずだな、君は」
「うるせー。人生は快楽を極めるためにあるんだ」
「ふむ。それには同感だ。私も快楽は極めたい」
ラジカルポリマーはレンズが重くてズリ落ちる眼鏡の位置を直しながら小さな声で言った。
「私は、私の能力を最大限に発揮したい。私にとってそれ以上の快楽はないからね」
~~~~
王子は、若い男に、王宮の奥にある二間続きの部屋に案内された。
「王妃とお嬢様はこちらでお待ちください。王子はこちらへ」
男は奥の部屋に続く扉を開けると部屋の中に向かって一礼した。
王子が中に入ると、そこには黒い髪の侍女がいた。切れ長の瞳に、すらりと伸びた手足。
絶世の――とはいかないが、強い印象を与える美形だ。
背後で扉が閉まる。
窓には分厚いカーテンがかけられて日光を遮り、昼間なのに室内にはいくつもの灯りがともされている。
「よう」
侍女は片手をあげて王子に挨拶した。
王子はぺこり、と頭を下げる。
「そう警戒すんな。別にとって食おうってんじゃねえ」
侍女は続いて、ひょい、と長いスカートの裾を持ち上げてみせる。
「この格好、似合ってるだろ? 執事の格好だと、どうしても背丈が足りなくて怪しくなっちまう」
王子は黙ったままだ。
侍女はニヤニヤと笑って、王子に近づき、人差し指で王子の胸をつん、とついた。
「やけにおとなしいじゃないか、竜殺しの勇者。我が直々に話を聞きにきたっていうのに。え?」
侍女に扮した魔帝国の若き少年帝は、そう言って片目をつぶってみせた。