26.口づけで始まる朝
サキュバス族の花嫁の朝は、口づけで始まる。
「よし――気付かれてない」
早朝。まだ太陽の最初の光が山の端を白く輝かせる前。
花嫁は、足音を忍ばせて、まだ暗い王子の部屋に入った。
ここは、オーガ族自治国、白角国の王城だ。
オーガ族のゴラン王子は、簡素だが大きく丈夫な寝台の上で、すよすよと可愛い寝息をたてて眠っていた。
分厚い胸板が、横隔膜の動きに合わせて上がり、下がり、上がり、下がる。
ダイブして王子の胸板に飛び込みたいという、サキュバス族特有といいたいけどいえない欲求をぐっと我慢し、寝台に近づく。
これは鍛錬なのだ。欲望に身を任せてはいけない。
「やっぱり、男の体の方が動きやすいや」
花嫁は、男の子だ。
このことは、王子も王子の家族も知っているが、対外的な理由もあり、普段は魔法で女の体になって生活している。魔法はほぼ一日で切れるので、毎日、かけ直す。
今朝の花嫁は、まだ女の体になる《変容》の魔法をかけておらず、少年の体のままだ。
少年のままでも、花嫁の腰つきや肩幅はほっそりしていて中性っぽさが残る。かつては、そんな自分の外見にコンプレックスを抱いていた花嫁だが、王子に恋をしてからは、己のサキュバス族の血に感謝の念すら抱いている。
「さて、ここからだよね……《音吸い》の効果、まだ残ってるといいけど」
白角城は築城から千年以上が経ち、今いる建物も三百年前のものを修理して使っている。あちこち傷んでいるので、ちょっとしたことで軋み、音を立てる。
花嫁は事前に《音吸い》の魔法を自分にかけてある。これは幻覚系の魔法で、身にまとった魔法の霧に、音を吸収させるものだ。魔法の霧は、音を吸収するたびに消えて、薄れていく。自分の発する音だけでなく、霧に届いた音の波は全部、吸収してしまうので、周囲がうるさいとあっという間に音を吸い尽くして霧が消える。
「誰かを襲うために忍び歩くにはもってこいの魔法なんで、大昔は門外不出とかにされてたんだよね。効果時間は短くなるけど、完全武装で鎧を着てじゃらじゃらいわせても無音なんだから」
花嫁は、小声で呟きながら歩く。
《音吸い》が暗殺や奇襲用の魔法として恐れられていた時代、軍の野営地や城では夜中に何度も鐘を鳴らした。大音量で鐘を鳴らし、それによって忍び歩く暗殺者の《音吸い》を無効化するのが狙いだ。
それが、どれほど役に立ったかはわからない。
だが、文字通り『音もなく忍び寄る』暗殺者への恐怖が、いかに強かったかは、今なお、夜中に鐘を鳴らす風習だけが各地で残っていることからもわかる。
「あと、この魔法。当たり前のことだけど、自分も周囲の音が聞こえなくなるんだよね」
さっきから、花嫁が小声でしゃべり続けているのは《音吸い》の効果がどのくらい残っているかを確認するためだ。魔法の効果が消える時には、自分の声の調子が変化する。体の内側を伝わっていた声が、耳からも聞こえ始めるのだ。
王子のベッドの脇に立つ。まだ王子は眠っている。
「ふっふっふ。今日こそゴラン様の“唇はもら――えっ?”」
《音吸い》の効果が急激に薄れていく。声の調子が変化し、同時に、窓の外からドンドンというやかましい太鼓の音が響いてくる。太鼓の音が《音吸い》を消したのだ。
王子のまぶたが、ピクピクと震える。
「えっ? ええっ? えーいっ!」
事態の急変についていけなかった花嫁だが、太鼓の音で王子が目覚めるまで時間がない。
ここは勝負に出る。
王子にキスをすべく、顔を近づける。
むぎゅ。
王子の太い指が、花嫁のほっぺたを挟むように受け止めた。
花嫁の唇が尖って『3』の形になる。
王子の目はまだぼんやりしている。無意識に自分に近づくものを受け止めた、という様子だ。
続いて、王子の目が目の前の人影を認識する。近眼なのでまだピントがあってない。
「おはよう」
「ふふふう(おはよう)」
『3』の唇で花嫁が朝の挨拶を返す。
ここで王子の目がぐぐっと細められ、ピントが合う。自分がほっぺたをむぎゅっとしているのが花嫁だと気づき、あわてて指をはなす。
「すまない」
「いいよ。そういう約束でしょ?」
花嫁が王子にキスするまで、王子が起きなければ、花嫁の勝ち。花嫁は吸精できる。
花嫁が王子にキスする前に、王子が起きたならば、王子の勝ち。花嫁は吸精できない。
これが二人で決めた朝のルールだ。
「これはボクの魔法の鍛錬なんだから。それにしても朝から太鼓って、あれ、ハガネ丸さんだよね」
「ドワーフ族の祖霊を祭るための太鼓の練習だそうだ」
「そういえば、今度、ドワーフの祭祀をソリウムで執り行うんだよね」
「うむ。ソリウムのドワーフの神殿は荒れ放題になっていたそうだからな。種族神を神殿に戻すためにも、目覚めたハガネ丸殿にはきちんと祭っていただかなくては」
王子の手が、眼鏡を求めてベッド脇のテーブルに伸びる。
「あ、ボクが」
花嫁は丸く分厚いレンズの眼鏡を取り、ベッドに上体を起こした王子に近づく。
一般のオーガは額の両側に角が二本ある。そして王族は中央に白い角が一本ある。王族直系男子にのみ伝わるこの白い角を次世代に継承するためには、花嫁が王子の子を産める体になる必要がある。
今の花嫁の《変容》魔法では、皮膚と脂肪と筋肉と骨格を組み替えて女になれても、内蔵までは変えられず、子供は産めない。魔術の階梯を上げて自力で女になるか、古代のアーティファクトを手に入れ、あるいは大魔術師か神に依頼して女になるか。
――手はいくつもあるけど、どれも今のボクには手が届かない。なら、チャンスが来た時にいつでも手を届けられるよう、鍛錬を続けないとね。
花嫁は目を閉じた王子の鼻に眼鏡をのせながら、自分に言い聞かせる。わざわざ毎朝のように言い聞かせてるのは、焦れてるからだ、という意識はある。こんなことをしていて、本当に間に合うのか、不安になる。
「アッシュ」
「え? あ――」
王子が花嫁の手を引いて、抱き寄せた。
寝ている間に、汗をかいたのか、王子の胸元から男の匂いが漂う。
王子の手が、花嫁の頬に触れ、むぎゅっとされたほっぺたを、優しく撫でる。
花嫁の目が閉じる。
王子の顔が近づく。
花嫁と王子の唇が、重なる。
「ふ……」
「ん……」
軽いキス。すぐに離れる。
花嫁は、期待する目で王子を見る。
「まあ、その……」
王子がバツが悪そうな顔になって、視線をそらす。
「今日は私の勝ちだから、吸精はなしだ。いいね」
「むー」
花嫁が頬を膨らませる。
しかしここは、王子が正しい、と思い直す。
「じゃあ、もう一回。もう一回だけキスしようよ」
「……もう一回だけ、なら」
「ダメですよ」
「そんなケチなこと――わっ、王妃様っ!」
二人の間にニコニコと割って入ったのは、王子の母親のトモエ王妃だった。
トモエ王妃は都市エルフの王族だ。
長命のエルフ族の、しかも王族なので外見から年齢はわかりにくい。娘のハナとタマの双子の姉妹と並ぶと、外見的には三姉妹にしか見えない。
「母上、おはようございます」
「おはようございます、王妃様」
「おはよう、ふたりとも朝から仲がいいわね。でも、急いで準備をして。出発まで時間がないの」
「出発って――」
花嫁はトモエ王妃の服装を見た。
厚手の外套に厚手のズボン。髪の毛を全部まとめて毛皮の帽子に詰め、長い耳にはエルフ専用の耳覆い。頑丈な手袋。
寒さ対策は万全、といったところか。
「高い山にでも登るのですか?」
「高くはあるけど、山ではないわ。山のさらに上よ」
「山の……上? 空?」
「そう、空よ」
手袋をぽん、と合わせてトモエ王妃はにっこり笑う。
「友達にお願いをして空の便を確保したの。これから私たちは帝都へ向かいます」