15.サキュバス族の吸精
月が、冴え冴えとした光を夜の森に注ぐ。
「私は……兄様とハナちゃんを、守ります」
タマ姫は、槍の穂先を花嫁に突きつけたまま、言った。
右の瞳が、赤く輝いていた。
「あの、タマちゃん、ボク、事情が、飲み込めない、んだけど」
花嫁は、のけぞり気味の姿勢で、できるだけ動かないように注意して、言った。
槍の穂先を避けて後ろに下がったら、その分、槍がずい、と前に出るせいで、一度のけぞると、戻せなくてだんだん姿勢がつらくなっている。
「理由は……あなたが一番、知っていると……思う」
花嫁は必死に考えた。
スギヤマ相手に二重スパイを演じるからには、こうなることを、まったく考えていなかったわけでは、もちろんない。
鏡を使ってこっそりスギヤマと会話をしているところを見られてしまい「アンタのこと、ちょっとは信じてたのに」「待って、ハナちゃん。これには事情が」「裏切り者の言葉なんか聞きたくない! 死んじゃえ!」で、ハナ姫がどこからともなく取り出した包丁にお腹を刺されて死ぬ、という感じの展開は、芝居や絵巻物で十回くらい見た。
――あ、あれ? おかしいよ?
昨夜、スギヤマに鏡をもらって、部屋の中で一回通信してから一日。あれからまだ一回も通信していない。
見られるもなにも、裏切り行為にあたりそうなことは、何もしていない。
「ごめん、わかんない。ちゃんと理由を教えてくれる?」
花嫁は正直に聞くことにした。
タマ姫は困った顔になり、それから二度、三度と深呼吸して話しはじめた。
「今日、あなたのことをずっと……見てました」
「うん」
「あなたが来る前……サキュバス族について、調べました」
「うん」
「その……え、え、え、え……エッチな……」
「痛い痛い、槍の穂先が動いてツンツンしてる! ツンツン!」
花嫁の抗議に、タマ姫があわてて槍を引く。
「ご、ごめんなさい……その……エッチなことが、ご飯になるって……」
「それは……うん。そうだよ。吸精型の古妖精族から進化したからね」
この世界のサキュバス族は、五強のひとつ、妖精族の支族だ。
能力などから魔人族の支族と勘違いされやすいが、サキュバス族は妖精族だ。進化の系譜では、古妖精族が、世界の衰退により不足するようになった魔素を他の生物の情動で補うところからきている。
エサとなる情動は、苦痛でも恐怖でも快楽でも、とにかく心の振れ幅が大きければよい。
快楽をエサとするサキュバス族の先祖は、吸精型の古妖精族の中では、少数派だった。獲物に苦痛と恐怖を与え、最後は殺してしまうのが、情動を吸収するには一番効率が良いからである。
しかし、殺戮型の吸精支族が他の知的種族の反撃を受け、進化の袋小路に追いやられたのと違い、サキュバス族は宥和に成功してエサの確保に成功する。
相手に快楽をもたらし、同時に消耗を最小限にする。快楽といえど、吸い過ぎてはエサが疲弊し、やがて死をもたらすからだ。
「調べた本に……書いてありました」
「すごくイヤな予感がするけど、なんて書いてあったの?」
「サキュバス族が飢えた時の……行動……キョロキョロしたり、上の空になったり……」
花嫁はがっくりと頭を垂れた。
そういう内容のネタ本に、心当たりがあった。
「それ、魔術学校に入学して同級生にからかわれた時と同じだよ」
「え? え?」
「うん、まあ、そうだよね。市井の本って、そういう風に書いてあるよね」
「あの……?」
「ボクを外に連れ出したのは、ボクが眠ってるハナちゃんやゴラン様を襲ったりしないように、ってことだよね」
「はい……そうです。動けないように縛って……動物とかこないよう、見張りは私が……」
花嫁は思案した。
ここでタマ姫が読んだ本の内容を否定することはできるが、今すぐ信じてもらうのは難しい。証拠がない。
おとなしく縛ってもらって外で寝るのも、ちょっとムカつく。
――ボクの行動がおかしかったのは認めるけど、まるでボクがお姉ちゃんみたいな節操なしの快楽主義者みたいに扱われるのはイヤだよ。
「タマちゃん、あのね。ボクは確かに“お腹”がすいてるよ」
「……!」
無言で、タマ姫が槍の穂先を上げる。
両手をあげた姿勢のまま、花嫁は首を左右に振った。
「でも、大丈夫。昔のサキュバス族と違って、今のサキュバス族は、エッチなことをしなくても、吸精できるんだ」
「え……?」
「だって、考えてみてよ。吸精のたびにエッチなことしてたら、大変だよ」
「そ、それは……そう、かもです」
花嫁は、もっともらしい顔で言った。
嘘はついていない。
エッチなことをしなくても、吸精はできる。
吸精のたびにエッチなことをしていては、人間関係のもつれが大変である。
どちらも、本当だ。
嘘はついていない。
――そんなのかまわず、毎回エッチなことして、修羅場をひきおこして大変なことになるお姉ちゃんみたいなサキュバスもいるってことを、言わないだけでね。
サキュバス族の中でも、そういうのはすでに例外になりつつある。
そのゆえに、トラブルが少なく、大手を振ってエッチができる神殿勤務が大人気になったりもするのだ。
「でも……じゃあ、どうやって……?」
「よくやってるのは、ブラッシングだね」
「ブラッシング?」
「うん。髪の毛をすいたり、頭皮を揉んだりして気持ちよくなってもらうの。ボク、けっこう得意なんだよ」
「そんなことで……できるんです?」
「現代のサキュバス族は、栄養は普通にご飯食べてとってるから。吸精は、吸血鬼の血と一緒で、あくまで補助だよ」
「私……知りませんでした」
「他には、耳かきかな。耳そうじしてあげて、気持ちよくなってもらって吸精するの」
花嫁の言葉に、タマ姫は驚きつつも、疑う様子はない。
花嫁は、少しばかり嗜虐心をそそられながら、タマ姫に聞く。
「タマちゃんが協力してくれたら、そういうので“お腹”いっぱいになるんだけどな」
「協力……私が?」
「うん。そこの小川で、ね」
むくり。
暗い小屋の中で上体を起こした王子は、音を立てないように注意して外に出た。
小屋から少し出たところに穴が掘ってあり、上に木の蓋が乗っている。蓋を取ると、独特の臭気が漂う。中のものは、たまに近くの農民がやってきて、汲み取って肥料に使う。代わりに、農民は小屋の中に漬物の壺などを置いていき、これは小屋にやってきた炭焼きや猟師、旅人が食べていい習いである。
すっきりとした顔になって、王子は小川へと降りていく。
「――んっ、んんっ」
押し殺した声。
王子の足が止まる。
耳をすませる。
夜のしじまに聞こえるは、虫の声。小川のせせらぎの音。そして――
「んっ、あっ……だめっ……そこ、は……」
「我慢して、タマちゃん。あ、声は我慢しなくていいよ?」
「や……だって、聞こえたら……恥ずかし……」
「大丈夫、小屋までは聞こえないよ」
タマ姫と、花嫁の声だ。
王子は、ポケットに手を入れ、頑丈な箱に入れた眼鏡を取り出し、鼻の上にのせる。
そして獲物を狙う熊のように、巨体を低くして、前進。
「こことか、すごく固くなってるよ」
「ダメ……そこは……」
小川のほとりに出た。
川縁では、平らな岩の上にタマ姫がうつぶせに寝そべっている。
その上に覆い被さっているのは、花嫁だ。
花嫁の指が、タマ姫の足の裏に触れる。
そして親指で、ぐい、としこりのある部分を押した。
「んっ! んんっ!」
「普段からちゃんと鍛えてあるみたいだけど、ずっと歩き続ける時の負担は、また別だからね。休憩の時には、面倒でも靴を脱いで足を休ませること。いい?」
「はい……わかりました」
「この分だと、明日は出発前にハナちゃんも揉んでおいた方がいいね」
「お願い……します」
花嫁は、小瓶からオイルを掌に垂らした。
「仕上げにオイル塗るね。ちょと冷たいよ」
「はい……ひゃんっ!」
「じんわり熱くなってくるけど、朝までにはすっきりして足が軽くなるから」
「はい……あの、お義姉さん……」
タマ姫が、顔を赤らめて、花嫁を見る。
「お腹、膨れました?」
「うん、タマちゃんのおかげでね」
花嫁はタマ姫の頭を撫でた。
タマ姫は目を閉じ、くすぐったそうに花嫁に撫でられている。
「じゃあ、タマちゃんは小屋に戻って」
「はい……お休みなさい」
花嫁は、タマ姫が川岸を上がっていくのを、手を振って見送った。
そして、くるりと茂みの方に向き直り――
「もう、隠れてなくても大丈夫ですよ、ゴラン様」
茂みの中にいた王子が、のっそりと立ち上がる。
花嫁は頬をぷーっ、と膨らませた。
「隠れてのぞきなんかされてると、悪いことしてる気分になるじゃないですか。ボクはタマちゃんの足を揉んであげてただけですよ」
「いや、その……悪かった」
「悪かったと思うのでしたら……」
花嫁は、ぺろっと舌を出してから、口元に指をあてた。
「ゴラン様のも、ボクに食べさせてください。はい、そこの岩の上にうつぶせになって」
「うむ」
「うわっ、ゴラン様のふくらはぎ、筋肉多すぎですよ。指がつっちゃう」
「すまない」
「しょうがないので、ボクがはだしになって、足で踏んでマッサージしますね」
「……」
「うつぶせなので見えないですけど、今、すごい嬉しそうな顔してません?」
「……」
次の日の朝。
花嫁の顔は、これ以上ないくらい、つやつやしていたという。
期限まで:十四日
功績ポイント:三十点(大迷宮の探検十点+郵便開設十点+ドワーフ族発見十点。百点で結婚許可)
現在地:白角国と旧ドワーフ領の国境