13.二重スパイ
部屋を出た花嫁は、細い石の廊下を通って控えの間に入った。
王妃の弟、都市エルフ評議会議長のスギヤマが、椅子から立ち上がって花嫁を出迎えた。
花嫁の強張った表情をみて、スギヤマの瞳が細められる。
「そう怯える必要はない、※※くん」
花嫁は、きゅっ、と唇を噛んだ。
スギヤマが口にした名前は、花嫁がここで名乗っている『エミリア』ではなかった。
「どうした? 顔色が悪いようだが?」
花嫁はスギヤマの視線を避けるように、顔をそむけた。
スギヤマの、舐めるような視線を横顔に、胸に、腰に、足に感じる。
比喩ではなく、鳥肌が立った。こんな男に見られるのが、イヤだった。
「それにしても、さすがはサキュバス族の幻覚魔術だよ。帝国の貴婦人であれば、皺を消す、肌艶をよくする程度の幻覚を使うのは、ごく当然のこと。それと同じレベルかと思っていれば、どうだ。まさか、外側に幻覚を張るのではなく、内側から骨や筋肉まで変えてあるとはな。あいつから聞いてなければ、私とて騙されたろうな」
「何の……ことでしょうか」
花嫁は、精一杯声をはげまして、言った。
声が震えるのを、止めることはできなかった。
スギヤマの唇が、Vの字に歪む。
元の顔が美しいだけに、その笑みは醜かった。
「これは失礼。だが、そうだな――私とキミは、同志だ」
スギヤマは自分のその表現が悦にいったようで、くくっ、と笑った。
「私に協力したまえ。なに、難しいことではない。適切な時に、適切な場所に、あのオーガの息子がいるようにしてくれればいいのだ。キミの……ほら、サキュバス族としての手練手管を使えば、簡単なことだろう? ん?」
「そうすると……どうなるんです?」
「キミが気にすることではない。因果応報。奴らとこの国に、行いにふさわしい報いが来る、というだけだ。キミに危険は何もない」
花嫁は吐き気を感じた。
スギヤマは、嘘をついている。
自分が行かず、花嫁を使おうとしている時点で『危険がない』など、とても信じることはできない。
「ボクが……断ると、言ったら?」
「キミはそんなことはしないさ。そんなことをすれば、どうなるか、想像がつかないわけじゃないだろう?」
花嫁は目を閉じた。
自分が陰謀の糸に絡め取られていくのがわかる。
何もかも投げ出して、すべてを話して、王子に助けを求めたい衝動にかられる。
――ゴラン様は、それでも……ボクがすべてを話しても、ボクを助けてくれる。けれど、それじゃダメだ。大事なのは、ボクが助かることじゃない。こいつの陰謀から、ゴラン様を守ることだ。そのためには……
花嫁は目を開いた。
スギヤマの顔を見る。
サキュバス族の目から見てもきれいな顔なのに、内面のゲスさが瞳を濁らせている。
――この男は、ボクを陰謀の手駒だと思っている。脅迫して、いいように使って、失敗しても惜しくない手駒だと。ボクが利用できなくても、こいつには何の問題もない。でも、だからこそ、ボクを惜しまず使おうとするはずだ。
花嫁は震える唇で、かすれた声をだした。
「わかり……ました……あなたの言う通りにします。だからボクのことは……どうか……」
スギヤマの唇の端が、さらにつり上がる。
濁った瞳に、喜悦の色が濃くなる。
他人が大事にしているオモチャを取り上げた、悪ガキの笑みだ。
「もちろんだ。ああ、もちろんだとも。私としても、あのオーガの息子が何も知らず、幸せそうな顔で騙されているのを見る喜びは失いたくない。いや傑作だよ! あのオーガの息子にはふさわしい、とんだ喜劇だ!」
花嫁は、わずかな違和感を覚えた。
男は笑っている。哄笑している。
しかし、あまり嬉しそうではない。むしろ怒りが強く感じられた。
――あのオーガ? あのオーガの息子、っていうのはゴラン様だよね。なら、あのオーガっていうのはグラン国王か。名前を呼ぶのもイヤって、どれだけ嫌いなんだよ。
そこで気が付く。
スギヤマの唇の端に、この外面だけは礼儀正しい優男の都市エルフには似つかわしくない、食べ物のカスがついている。
視線の動きを読まれないように顔を伏せつつ、花嫁はテーブルを見た。
皿がある。皿の上にはフォークとナイフ。食べ物はない。きれいに食べられている。
皿の大きさからすると、けっこうな大きさの何かがそこにあったはず。
『あなたが好きだったクルミのパイを焼いて、隣の部屋に置いてあるの』
先ほど聞いた王妃の言葉を思い出す。
それに対して、スギヤマは何と答えた?
『お気遣いありがとうございます、姉上。姉上の手作りパイを食べるのは五十年ぶりでしょうか。もちろん、いただきます』
食べた?
王妃の手作りのクルミのパイを?
部屋に残った花嫁が、王妃と会話をしていた間に?
この都市エルフの優男が、丸ごと食べたというのか?
テーブルマナーを守っていては、半分も食べられそうにないわずかな時間で?
そりゃ、唇の端にカスもつく。
その時、花嫁はスギヤマの心の中にある大事なものが、感じ取られた気がした。
今は醜くねじ曲がり、茨のように他人を傷つけるトゲで覆われているとしても、この男の心の中にも、自分よりも大切な何かがある――あったのだ。
そして、花嫁の直感が正しいのだとすれば、スギヤマに、花嫁が見抜いたことを悟られてはまずい。
「気分が悪いので……失礼してもいいでしょうか?」
「ふむ……」
じろじろと、スギヤマが花嫁を見る。
花嫁は恐怖と嫌悪感を隠すことなく、スギヤマから顔をそむけた。
これには演技の必要はなかった。自分が感じていることを、そのまま見せるだけ。
他人をいたぶるのが好きなイジメっ子には、恐怖と嫌悪を露わにする方が、相手の嗜好に沿うことを、花嫁は知っていた。
貧乏な弱小種族の身で、魔人族や竜族や不死族の御曹司が通う帝都の名門魔術学校にいたのだ。そういう手合いのあしらい方は馴れている。
その長い人生を強者として過ごしてきたであろう目の前の都市エルフには身につかないタイプの処世術だ。
「……いいだろう」
わざともったいぶらせ、花嫁の恐怖を堪能してからスギヤマは言った。
最初から、この場から立ち去らせる予定だった。一緒にいれば、動きにくいのはむしろスギヤマの方である。
それでも相手を怯えさせる機会があれば、そのことに意味がなくとも、見逃さない。
イジメっ子というのは、意外と掌で転がしやすいのだ。
「これを持っていけ」
掌におさまる鏡をひとつ、スギヤマは花嫁に渡した。
「連絡をする時にはこれを使う。常に持っておけ」
「《伝声》の魔法ですか」
「そうだ。“こちらから"声を届ける時には、鏡が熱を帯びる」
「……はい」
ハンカチで包んでから、鏡をポケットに入れる。
部屋の外に出て、扉を閉じてから花嫁は大きくため息をついた。
――“こちらから”ね。わざと口に出したからには、ボクを疑心暗鬼にして怯えさせるハッタリだと思うけど、念のため部屋に戻ってこの鏡を調べておかなきゃ。
伝声の魔法をかけた道具を、離れた場所から起動させることができれば、盗聴器として使用することができる。
スギヤマが渡した鏡に、もしそうした魔法が仕掛けられていれば、それはそれで使い道がある。
――人は手間をかけて得た情報ほど、疑わないものね。わざと“盗み聞かせる”手だって使えるんだから。
状況はよくない。
スギヤマが何を企んでいるのかも、今はまだ五里霧中だ。
それでも花嫁の瞳には、強い意志の力が宿っていた。
――スギヤマに従うフリをして、あいつの陰謀を暴く。ボクにしかできない方法で、ゴラン様を助けるんだ。
期限まで:十六日
功績ポイント:三十点(大迷宮の探検十点+郵便開設十点+ドワーフ族発見十点。百点で結婚許可)
現在地:白角国 骸骨城