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Et Cetera

髪を洗う女

作者: 檀敬

 美容室に行った時、髪の毛を洗ってくれた娘が可愛くて、物語を妄想してしまいました。

「いらっしゃいませ」

 あたしがお客様をお迎えする時はこの言葉だけ。

 その後はマスターや店長、オーナーの仕事だ。

「今日はどういったカットになさいます?」

「カラーリングのご予定ですね」

「緩いパーマを当てたいとのことですが?」

 あたしもそんな風にお客様にお声掛けしてみたい。

 しばらくすると、マスターや店長、そしてオーナーがあたしを呼ぶ。

「それでは、まずはシャンプーへどうぞ。圭ちゃん、お願いね」

 マスターや店長、オーナーはあたしに目配せをする。

「はい。お客様、こちらへ」

 あたしは一礼して、お客様をシャンプー台へと案内する。

 シャンプー台に座ったお客様の服や身体が濡れないように首から肩にかけてビニールの覆いをする。

「苦しくないですか? 大丈夫ですか?」

 あたしの声掛けにお客様はうなずく。

「それでは、お椅子を倒します」

 あたしはお客様に声を掛けてから、椅子のレバーを操作して静かにゆっくりと椅子を倒しシャンプー台に頭を合わせる。

 シャワーヘッドからお湯を出して温度を確認してから、お客様の髪を濡らし始める。

「お湯加減はどうですか?」

 あたしはお客様に声を掛ける。お客様から丁度良いとの返事をいただく。

 あたしはシャンプーを手に取り、馴染ませてからお客様の髪に触れる。髪の毛が徐々にあわ立ち、全体が白くなる。髪の毛を揉むように洗い、頭皮に軽く触れてマッサージするように撫でる。指先の腹で優しく丁寧に洗い上げる。

 こめかみや額の際、そして耳の辺りを洗う時は特に慎重になる。お客様の化粧に気を配り、耳の中に泡が入らないように、それでいてギリギリまでキッチリと丁寧に洗わなければならない。

 そして、後頭部を洗う時がもっとも緊張する。直視出来ないだけに洗い難く、さりとて襟首を洗ってもお客様に不快な思いをさせないようにしなければいけないから。

「痒いところはございませんか?」

 最後にお客様の不満が無いかどうかを尋ねる。

「ない」というお客様の答えに、あたしは胸を撫で下ろす。

 再びお湯を出して温度を確かめてから、毛先の方から濯いでゆく。そして手で覆いながら額から始めて、左右のこめかみ、そして耳へと濯ぎ進めていく。

 耳の部分の濯ぎは微妙だ。耳も同時に濯いで綺麗にしつつ、耳の中には水が入らないようにするのは至難の業。あたしは丁寧にゆっくりとやるのがコツなんだと最近、悟った。

 最後に後頭部を濯ぐ。手を差し込んでその手でお湯を受けながら、その手を手前に引いた時に泡を全てこちらに持って来なければならない。首筋には一滴たりとも流さないようにしなければならない。あたしはこの瞬間がいつも緊張する。

 軽く髪の毛を絞ってからリンスを全体に馴染ませたら、余分なリンスを洗い流すために先程の濯ぎの手順をもう一度繰り返す。

 後頭部の濯ぎが終わりシャワーヘッドのお湯を止めると、あたしは少しホッとする。

 乾いたタオルで髪の毛を軽く拭き、そのタオルを額に当ててからお客様に声を掛ける。

「シャンプーが終わりましたので、お椅子を戻します」

 椅子のレバーを操作するとお客様は体重移動をされて上体を起こした。その間、あたしはお客様の額にタオルを当てたままにして、お客様が上体を起こしたと同時にタオルを額から取り除いた。額から水滴が顔に滴るのを防ぐために。

 タオルで髪の毛全体をもう一度軽く拭いてから、首や肩に付けたビニールの覆いを取り外す。

「お疲れ様でした」

 あたしがそう声を掛けると、お客様は立ち上がった。

「こちらへどうぞ」

 あたしはお客様をカット台の方へと案内する。

 椅子を引いて座り易くし、お客様がお座りになったら椅子を少し押し込む。

 カットした髪がお洋服に掛からないようにお客様の首から下をカバーで覆って、お客様に声を掛ける。

「しばらくお待ちくださいませ」

 振り返ると店長がそこに立っていた。あたしはちょっとビックリしたがすぐに切り返した。

「お願いします」

 あたしは店長に頭を下げてその場を退いた。

「ずい分伸びましたねぇ。どうされます?」と店長。

「思い切ってショートにしようかしら。うふふ」とお客様。

「もったいないですよ」

「でも、ちょっと長めだから鬱陶しいのよ」

「それじゃレイヤーを入れて、ふわっと軽くします?」

「そうね、そうしてもらおうかしら」

 その場を去りながら、あたしは店長とお客様の楽しそうな会話にそば耳を立てた。


 あたしはまだ見習い。

 あたしはいつも洗髪係。

 あたしは今だに髪を切らせてもらえない。

 もっとも。

 あたしに髪を切って欲しいというお客様はまだいないけど。


 正直に言うと「髪を洗う」ということも嫌いじゃないのよ。

 そりゃあ、髪を切る方がドラマチックでドラスティック。

 お客様の雰囲気や様子はもちろん、お客様のその気分まで換えてしまうんだもの。


 髪を洗うことだってそれと同じくらいだと、あたしは思っている。

 雰囲気や様子は変えられないけど、お客様の気分を高揚させることが出来る。

 絶対に出来る!

 そう思わなきゃ……やってられない部分もあるのだけど。


 今のお店の、お客様のほとんどの髪の毛を洗うのはあたし。

 いろんなお客様がいるわ。

 柔らかい、固い、細い、太い、直毛、癖毛といった髪の毛のことから、お客様自身のことまで。

 ホント、ビックリするようなお客さんもいる。


 いつも外車でお店に乗り付ける、とても身なりの綺麗なマダムがいるのだけれど、その人の髪の毛は頭垢(フケ)がとても酷いの。たぶん、頭皮の新陳代謝が激しいのに面倒臭がり屋なんだと思うわ。

 頭垢が凄過ぎて、あたしはいつも三回はシャンプーしてる。それでも出てくるのよ、頭垢が。本当はもう一回シャンプーしたいのだけど、この店の規定はお客様一人につきシャンプーは三回までと決めている。だから一回目は思いっ切り、力を入れてマッサージしてやるのよ。

 そのせいなんだろうと思うけど、シャンプーが終わった後はいつもジロリと睨まれるのよね。


 二十代のイケメン・サラリーマンさんもたくさんやってくる。その中で、いつもあたしにウインクして「いつも可愛いねぇ。惚れちゃうくらいだよ」って声を掛けてくれていた、とびっきりキザ野郎なお客様がいる。しかしながら、このキザ野郎のお客様の髪の毛は申し訳ないけれども残念なんだよなぁ。

 初めてシャンプーした時、ヤケに細くて柔らかい髪の毛だなぁと思ってたんだけど、そのうちに本数が減り始めたのか、ボリューム感が無くなった。それから一年もしないうちに髪の毛が更に細くなって、特に頭頂部から後頭部の中央がうっすらと頭皮が見え始めてきたのよねぇ、ぐふふふふ。

 最近じゃ、あたしにキザなセリフは吐かなくなったわよ。そりゃ、ねぇ、どう見たってもう二十代には見えない風体だもの。キザ野郎のお客様には申し訳なくて、そんなことは言えないけど。


 二十代のサラリーマンさんと言えばもう一人。すっごい剛毛の人がいるのよ。もう指に髪の毛が刺さりそうなくらいゴワゴワでツンツンな髪の毛の持ち主が。

 髪の毛が絡まないから全然泡立たないのよ! ホントに片手にテンコ盛りのシャンプーをぶっ掛けてやろうかしらんと思うほど。まるで、クマとかライオンのたてがみを洗っているみたい……コホン。クマやライオンを洗ったことは無いけど、イメージ的にはそんな感じなの。

 でもね、この剛毛君は可愛いのよ。シャンプーが終わった後に「お疲れ様でした」ってあたしが言うでしょ。すると、剛毛君がいつもこう言うの。

「ありがとッス!めっちゃ気持ち良かったッス! 自分ではこんな風に洗えないッス! 圭さん、凄いッス」

 毎回毎回、剛毛君にそう言われるんだけど、毎回とも赤面するあたし。だって、店中に響く大きな声で言うんだもの。


 二十代後半の女の人で、あたしのやり難い人がいる。

 何でも文句を付ける人。

「首が苦しいわよ!私を殺す気?」

「熱いわよ、火傷させるつもり!」

「冷たいわよ、風邪を引いちゃうわ!」

「右耳の上が痒いわ。あ、てっぺんも痒いわ。あーもう、全部痒い!」

「ちょっとぉ、耳に水が入ったみたいよぉ!」

 こんな風に毎回一々文句を付けるのよね。

 店長やマスターが気を使って「今日は私がシャンプーします」って言ってくれるんだけど、その人はいつもこう言うの。

「私は圭さんにシャンプーをお願いしたいのよ、ふふん!」

 その人くらいだわ、あたしが最大限の気を使って超丁寧にシャンプーをするのは。悔しいから時間を掛けてわざと丁寧にね、ふふふ。これぞ、女の仕返し。

 でも、最後にはいつもこう言われて睨まれちゃうのよねぇ。

「今度来る時にはもっと上手になってて欲しいわね。でなきゃ私が困るわ、ふふん!」

 はぁ。あたしは溜息しか出てこないわよ。


 そうかと思えば、十代の女子高生でおとなしい子がいるわ。この子、髪の毛が腰まであって黒髪のストレート。手入れも行き届いていて、サラサラでフワフワでシャンプーしているあたし自身が夢心地になるくらい。

 覆いを付けた時に「苦しくない?」って訊くと物静かにうなずくだけ。「痒いところは?」と訊くと「い、いえ、あ、ありません」と消え入るような声で応える。

 さすがに腰まである長い髪の毛だから洗い甲斐もある。でも、気持ちがいいから時間が経つのを忘れて洗ってしまう。ついつい丁寧に洗ってしまって時間が掛かっちゃうんだけど、それでも文句を言わずにジッとしているのよね。

「ゴメンね、時間が掛かっちゃって」

 あたしが詫びると、彼女はあたしにこう言うの。

「いえ、とんでもないです。私、圭さんの洗い方をシッカリと憶えて、うちでも実践してるんです」

 顔を真っ赤にした彼女を、あたしはいつも抱き締めたくなっちゃうのよねぇ。


 時々、いわゆる「おっさん」と呼ばれる方々も来店される。……あ、いや、オジサマたちですね。あたしも緊張するけど、オジサマたちも緊張しているようで。

 シャンプー台に座るとカチンコチンに緊張して、動きがギクシャクしている。ちょっと笑えてくるんだけど、そこはグッと我慢。

 そんなオジサマたちが緊張の頂点に達するのは、やっぱりシャンプー中。こめかみとか耳の周りを洗いたくて顔を横に向けようとするのだけど、微動だにしないのよね。仕方がないから声を掛ける。

「あのぅ、ちょっと横を向いて……」

 言い終わる前にオジサマたち「はいっ!」と返事をして真横を向く。あちゃー、真横まで向かなくていいのに。

 それから後頭部を洗ったり濯いだりする時。少しだけ頭を持ち上げたいだけなのに、上体まで持ち上げてくれたりする。以前のあたしは「そこまでしなくてもいいですよ」と声を掛けていたけれど、そうするとオジサマたちはもっと緊張して、余計に動きがギクシャクするので、何も言わないでお気に召すままに動いてもらうことにしている。

 最後にあたしが「お疲れ様でした」と声を掛けると、やっとシャンプーが終わって緊張が解けたところに不意を突かれたって感じで、再び顔が強張るのがなんともお茶目。


 こんな風に、いろんな人が髪を切る前にあたしのシャンプーを通過していく。

 それはそれで面白いけど、やっぱり髪の毛を切りたい。

 せっかく、あたしも資格を持っているのだから。

 

 あ。

 でも。

 気が付いたらずい分と長い時間、あたし自身の手で髪の毛を切ってないわ。

 上手に切れるのかしらん?

 自信がなくなってるわ。

 どうしよう。


 やっぱり。

 しばらくは洗髪係でいいかな?


 そう言えば。

 はさみ、錆びてないかな?

 試し切りしてみないとね。

 それにちょっと練習しなきゃ。

 うん、そうよね。


 そんなことを思いつつ、今日もあたしは髪を洗う。


「いらっしゃいませ」

「こちらへどうぞ」

「苦しくないですか?」

「お椅子を倒します」

「お湯加減はどうですか?」

「痒いところはございませんか?」

「お椅子を戻します」

「お疲れ様でした」


 あたしは髪を洗う。

 今日も髪を洗う。


 髪を洗う女。

 それはあたし。

 お読みいただき、ありがとうございます。

 よろしければ感想などいただけましたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] もう髪をカットできるようになったかな?読んで頭がスッキリしました(^^)
[一言] お久しぶりです。 覗いたら短編が頭にあったので、つい読んじゃいました。 終始丁寧な文章なのは健在ですね。細かく書かれているのに読みやすい、というのはさすがです。 良い話だなーという感じではあ…
[一言]  髪を洗う際の描写が丁寧で、手順が細かく書かれていて、執筆前の観察や下調べが入念に行われているなと感じました。主人公の洗髪へのこだわりが強く表れている部分であり、この作品の魅力の一つであると…
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