君が亜衣なんだね
翌朝、僕はオヤジの声に目を覚ました。
「起きろ、亮」
オヤジが乱暴に僕の肩をゆする。
「……なに?」
僕は眠気眼を擦って半身を起こした。
「ほれ、これで目を覚ませ」
オヤジが火のついたキャメルを僕の口に押し込んでくる。
僕は煙を吸って一、二度咳き込み、「どうしたの?」と訊ねた。
オヤジは真剣な顔をしていた。
「マンションの前で、ヤクザが見張っている。お前は支度してすぐに由衣ちゃんの所に向かうんだ」
「なんと、もう動いてきたのか」
僕は立ち上がって、窓から下を見下ろした。マンションに黒塗りのベンツが三台横付けされている。
「随分手が早いじゃない」
「だから言ったろう、奴らの行動力をなめるな、と」
オヤジは咎めると、僕にリュックを投げてよこした。
「着替えと生活用品は詰めておいた。顔洗ったらすぐに出るんだ。道は、日光街道を使え」
「日光? なんでわざわざそんな混んでるでる道を?」
時計を見ると、午前八時。この時間、特に通勤の渋滞がひどい。
「奴らの尾行をまくためさ。道が混んでちゃバイクの方が有利だろう」
「なるほど」
僕は思わず感心した。さすがにこう言うことについての知識は大したものだ。
「分かったら早く顔洗ってこい」
「あいよ」
僕は頷いて行動を開始した。
駐車場に出ると、すぐに複数の視線が僕に集まった。出所は言うまでもなくベンツからだ。
僕は知らん顔で口笛など吹きながら、CBにキーを挿し込む。
ヒューン……ヒューン! とマフラーから咆哮が上がる。
僕はバイクに跨ってハンドルを握り、ゆっくりとスタートした。
通りに出たところで、後ろのベンツが二台動き出す。一台はオヤジの見張りにまわるのだろう。
僕はオヤジに言われた通り、日光経路にバイクを進めた。
合流地点に来ると、こちらの狙い通り道は混んでいる。
「悪いけど、あんた達とはここでお別れだ」
言い捨てると、僕はCBの回転数を上げた。みるみるスピードが上がる。
ベンツも慌てて追いかけてくる。でも僕の相棒はこんな渋滞の道でもらくらく百五十キロは出る。ギアを六速に上げた時点で、ベンツは僕のはるか後方でのろのろと恨めしそうに走っていた。僕は彼らにお構いなしに車の間をすり抜けて、あっという間に浅草に到着した。
そして今になって、急に由衣の安否が気になってきた。まさかもうすでにヤクザが攻めてきているのではないか。早く由衣の元気な顔が見たい。由衣に早く会いたい。
……あれ、なんか僕変だぞ。さっきから由衣のことばかり考えてる。
こ、これはもしや……ヤバイ! 僕、マジで由衣に恋しちゃったかも。
思えば、この時だけは、僕は昨日の写真のことを忘れていた。
ホテルは、まだ襲撃は受けていない様子だったので、僕はホッと胸を撫で下ろした。
僕はヴィーナスにつくなり、受付係の女性に、オーナーを呼んでくるよう頼んだ。女性ははじめ怪訝な顔で僕を怪しんでいたが、自分は伊崎龍之介の息子だと告げると、「た、ただいまオーナーを呼んでまいります!」と、掌を返すように腰を低くして奥の部屋に入っていった。
しばらく待っていると、受付係の女性と共に、頬に長い傷跡のある四十歳くらいの、モーニングを着込んだマッチョマンが登場した。髪は剃っているのか、はたまた天然なのか、綺麗なツルツル頭だ。
「君が龍之介さんの息子さんか。僕は彼の友人の六車だ、よろしく」
彼は強面の顔に似合わず、人のよさげな笑顔で出迎えた。
「よろしくお願いします」
僕は丁寧に挨拶した。そして続けざまに質問する。
「さっそくで恐縮ですが、僕の友人が泊まっている部屋を教えてください」
「分かってるよ、あの女の子のことだろ。ついといで、案内してあげる」
六車さんは言うと、ロビー中央の、まるでタイタニックの映画に出てきたような豪華な階段を上がっていった。ヴィーナスは三階建ての割と小さなホテルだが、内装はオーナーの趣味なのか、どこかの国の貴族の屋敷みたいな造りになっている。天井にはシャンデリアがぶら下がっているし、内部のあちこちに高そうな壺や絵画が飾られていた。
由衣の部屋は、三階の一番中央にある部屋だと言う。階段をまっすぐ上がると、突き当たる部屋がそうだそうだ。
「さ、ここだよ。行ってやりな、彼女、外に出られなくてだいぶ退屈してるようだから」
六車さんは、ドアの前まで来ると、先頭を僕に譲って、自分は踵を返して戻って行った。
僕は彼に礼を言うと、ドアをノックして由衣を呼んだ。
「由衣、僕だよ」
返事はすぐにあった。
「亮!? 今開けるから」
由衣の声は弾んでいた。中から足音が近づいてきて、ガチャリと錠が外れる音がした。
ドアが少しだけ開き、隙間から由衣が注意深く外を観察するが、僕の姿を見つけると、弾かれたようにドアを開いた。
「よかった、外に出られなくて退屈で死にそうだったの。さ、入って」
彼女は嬉々として僕を受け入れた。今日の服装は黒シャツに白のショート・パンツだ。
僕の心配とは裏腹に、顔の血色も良く、健康そうだ。そして、今日は化粧をしていない。
「うん……」
僕は笑顔で答えながらも、内心は若干複雑だった。
素顔の彼女は、やはり幼かった。そのことは、僕に嫌でも昨日の写真のことを思い出させるのだ。
「どうしたの? 早く入りなよ」
由衣が小首を傾げて僕を促す。
「それじゃあ、お邪魔するよ」
僕は笑顔で取り繕って、彼女に従った。
中は、薄いピンクの壁紙で統一されており、広さ十二畳ほどの部屋の真ん中にでっかいキング・サイズのベッドが置かれていた。他に、ワイドの大画面テレビや、冷蔵庫なんかもある。
「ね、こんなピンクの部屋で過ごしてたら、三日もしないうちに頭おかしくなっちゃいそう」
由衣は苦笑いでベッドに腰を下ろした。
「はは、確かにね」
僕も笑って彼女の横に座った。
間近で見る由衣の顔は、初めて会ったときよりも軽く四歳は若く見える。
そして僕の頭の中に、一度は打ち消した、ある推理がよみがえった。
「何か飲む? ここの冷蔵庫の中身は好きに飲んでいいんだって」
由衣が言う。
「じゃあ、コーヒー。なければいいけど」
「缶コーヒーなら何本かあったよ。とってくるね」
彼女は言って立ち上がると、冷蔵庫に向かった。
「………」
僕は黙ってその後姿を眺めながら、どう切り出そうか迷っている。
そして、試しに、思い切って言ってみた。
「ねえ、亜衣?」
「ん、何?」
「……………」
「なに……え! なんで!?」
気づいた彼女は、蒼白な顔で僕を見た。
「やっぱり」
僕は呟いた。どうやら、考えが当たっていたようだ。
「なんで……その名前を」
彼女は手に持った缶コーヒーを床に落とし、呆然と僕を眺めている。
僕は一呼吸置いて、彼女に言った。
「やっぱり、君が木村亜衣さんなんだね」