相手にするな
僕は、吉祥から途中幾度も事故りそうになりながら、やっとのことで平尾のマンションに戻った。もうヘロヘロだ。
部屋の中ではオヤジが一人、ソファに座ってキャメルを吹かしていた。
「帰ったよ」
僕は彼に告げた。
「おう、ご苦労さん。その様子じゃ、そうとう頑張ってきたみたいだな」
「その通り。僕の予定では、向こうで一泊して明日の学校に備えるつもりだったんだけど」
「そいつは残念だったな、諦めてくれ」
「いいさ、慣れっこだかんね」
「うむ、さすが俺の息子だ。ところで、何か飲むか? ビールかコーヒーしかないが」
「コーヒーにして。ってゆうか子供に酒すすめんなよ」
僕はつっこんだが、オヤジは知らん顔で立ち上がり、キッチンの冷めたポットの中のコーヒーをそのままカップに注いで、「そらよ」とテーブルの上においた。
僕は無言でソファに腰掛け、冷たいコーヒーを啜った。
苦い。
僕は顔をしかめながら、オヤジに質した。
「涼子ちゃんは?」
言うと、オヤジは眉をひそめ、煙草を消し、柄にもなくハードボイルドな顔をした。そしてボソリと呟く。
「六時間前……俺達は夕食をとりながら楽しく会話をしていた」
「なんだよそれ」
「いいから聞け。そして夕食が終わり、俺はメインディッシュに備え、彼女にシャワーを浴びてくるように言った」
「やっぱりソレがメインなんだ」
「……とにかく、彼女の次に俺もシャワーを浴び、寝室に彼女を連れ込み、押し倒した。するとどうだと思う!?」
「…………」
僕はしばらくオヤジを観察した。すると、彼の右頬にうっすらピンクのモミジ型の痕が残っているのが見えた。僕はニヤリとして言ってやった。
「どうやら反撃を食らったようだね。そうだな……その時の状況から推理して……右頬辺りにビンタでも……?」
言うと、オヤジはビックリした顔で「お前は金田一耕介か!」と間抜けな悲鳴をあげる。
「ふふふ、その程度、僕にしてみれば朝飯前の推理さ」
この程度小学生でもできるけどね。
「むむ……恐ろしい奴め。しかし、お前も若い女の子には気をつけた方がいいぞ」
「どういうことさ?」
「俺はてっきり彼女が女子大生だと思って声をかけたんだが、話を聞くと、彼女はまだ十六歳で、しかも処女だったんだと」
「なんと、ついにロリータに手を出したか!」
「冗談じゃない、彼女は見た目には二十歳くらいだったんだ。見たら絶対お前も騙されていたぞ」
「はいはい」
僕は適当にあしらった。それよりも、仕事の話が大事だ。
「で、話って何、仕事のだよ」
「ああ、そうだった」
オヤジはとぼけた顔で言うと、そこから打って変わって真剣な眼差しになった。
「その後、一人になってから、西村尚三のことで考えていたら、思い出したよ、仏の昔の職業を」
「何さ?」
「奴さん、元アメリカのCIAのエージェントだった男だ」
「シークレット・エージェントってやつ? まさか、ハリウッド映画じゃあるまいし」
「本当だ」
オヤジは大真面目だった。新たに煙草を咥え、続ける。
「西村という男は、日本に帰国した後も現役時代のスパイの技術を活かし、政界、財界その他あらゆる業界の大物の黒い噂を握りこみ、それを諜報局に流すと彼らに脅し、大金を貢がせる。奴は、そうやって当時の闇世界の頂点に立ったんだ」
「ヤバイお爺ちゃんだね」
「ああ、ヤバイ。しかも、彼が死んで、なおヤバイことになるだろうな」
「どうして?」
「西村のような『脅し専門のエージェント』ってのは、その脅しのネタを必ず物体化させて手の中に握っていなければならない」
「なぜ?」
「持っていないと、命が危ないからだ。物体が何処かに消え失せると、もはや西村はか弱い一人の人間。後は彼の口を封じれば全てが片付く。だから、脅されている側から見れば、怖いのは西村を消しても残る物体化した証拠なのさ」
「じゃあ、その証拠が、今も何処かに残っているかも知れないってこと?」
「いかにも。今ごろ、その証拠とやらを捜しに、脅されていた人間が動き回っていることだろう。彼らのほとんどはカタギではないと見て間違いない」
「それじゃ、僕らはどうしたら……?」
「手をひく」
オヤジはあっさりと言った。
「手をひくって!?」
「ヤバすぎるんだ。ましてや俺は探偵だ、探偵はエージェントとさほど変わりはない。下手に嗅ぎまわれば、やつらはこちらに証拠を掴まれるのではないかと不安に思い、何をしてくるか分からん。俺はそういう人間を嫌というほど見てきた。それに俺も昔、外国で西村と似たような仕事をしていたことがある」
「オヤジが!?」
藪から棒とはこのことだ。確かに僕は昔のオヤジの職業を知らないが、あまりにも突拍子すぎて、理性が受け付けない。
「あんた、昔は何をしていたんだ?」
「そんなことはどうでもいい。とにかく、この仕事は無しだ。明日、坂田さんにそう連絡する」
「しかし……」
「これは決定事項だ。こちらまで命の危険にさらされるのはゴメンだ」
「………」
僕はオヤジの真剣な口調に気圧されて黙ってしまった。彼がここまで真剣になると言うことは、相当危険なことなのだろう。
「分かったら、寝ていいぞ」
言うと、オヤジは咥えたままのキャメルに火をつけ、脚をテーブルに投げ出し、口を噤んだ。
僕は頷き、自分の寝室に向かった。
仕事はなくなったが、やはり明日も学校に行けそうにない。
……くそッ、なんだか後味の悪い終わり方だ。