相続人、亜衣
有田さんの失踪調査をかたづけた僕とオヤジは平尾のマンションに戻った。そこの二階の部屋に僕らは住んでいる。オヤジは帰るなりリビングのソファにどっかりと腰を下ろし、そのベラボウに長い足をセンターテーブルに投げ出し、キャメルに火をつけた。これがオヤジの、一番落ち着く体勢。
僕はシャワーを浴びようと、ジャケットをクローゼットに掛けた。この季節、下に着ている白のシャツだけで十分暖かい。そしてバス・ルームに向かおうとしたところにオヤジが声をかけてくる。
「おい亮」
「なに?」
「今夜、外に出る予定はないのか?」
「何だよ急に……別にないけど」
「ナニッ、それは困る」
「はぁ?」
「今夜、涼子ちゃんが来るんだ」
オヤジは僕の知らない女の名を口にした。
「誰さ涼子ちゃんて」
「昨日池袋で知り合った女子大生。今夜ウチに呼んでるんだよ、だから――」
「OK、分かったよ。僕もナンパしてくればいいんだね」
僕は溜息混じりに呟くと、「さすが、分かってらっしゃる」という親父の言葉を背に、バス・ルームの扉のノブを掴んだ。この馬鹿オヤジといったらいつもこれだ、女を部屋に連れ込んでは、僕を外に追いやる。まあ、ナニをするのかなんて、考えなくても分かるけどね。
ちなみに、僕には母親はいない(ま、本当にいなかったら僕もこの世にいないわけで、これは僕が小さい頃に何処かに家出をした、という意味)。その訳はオヤジからは聞かされていないけど、さしずめ彼の浮気癖に愛想を尽かしてのことだと考える、これが妥当だと思うね僕は。
と、そんなことを考えていたら、インターホンのチャイムが室内に響いた。
「亮、お客」
「分かってる」
僕は踵を返して玄関に向かい、扉を開いた。
そこには紺のスーツを着付けた細身の男性と、派手な柄の私服を着たでっぷりとした体格の女性が立っていた。二人とも年はオヤジより十五は上だろうか。
「すみません。『伊崎興信所』というのは、こちらでよろしかったでしょうか」
男がやわらかい口調で言った。『興信所』とはつまり探偵事務所のこと。マンションの外から見える僕らの部屋の窓には『伊崎興信所』の文字がペイントされているので、そこから引用したのだろう。
「はい、そうですが。調査のご相談でしょうか?」
「はあ……よろしいでしょうか」
男は、おろおろと泳ぐ目で訊いてきた。挙動不審だ。彼の後ろで、妻らしき女性が「しゃきっとしなさいよ!」と背中をつつく。
「どうぞ、お入りください」
僕はそのやり取りを見ているのが面倒くさくなり、二人を部屋の中に入れた。
リビングでは、オヤジが先ほどの体勢のままテレビを見ていた。
「オヤジ、仕事の相談だって」
「分かってる」
オヤジは言って、「こっちにお呼びしろ」と命令した。
僕は冷ややかに彼に告げる。
「なら足下ろせ、オッサン」
依頼人の名は坂田紀夫とその妻正江。紀夫さんは都内で中堅の不動産会社に勤務する、普通のサラリーマン。
「で、何の調査の依頼でしょう」
オヤジはテーブルを挟んで向かいのソファに座る坂田夫妻に質した。
「はい、実は三日前、私の嫁の叔父、西村尚三が亡くなりまして、それで葬儀に一族が集まって、今後の相談などをするつもりだったんですが」
彼の言う『今後の相談』とは、つまり遺産相続の相談のことだ。
「失礼します、コーヒーを炒れてきましたので」
僕はキッチンから持ってきた四人分のコーヒー・カップを、テーブルの上にそれぞれの前に置いて、親父の横に腰掛けた。紀夫さんは「どうも」と言って、続ける。
「一人、肝心な人物が現れないのです」
「誰です?」
「叔父の、娘さんです。名前は木村亜衣さんと言います」
「木村……西村ではなしに?」
「はい……亜衣さんの母である真由美さん、つまり西村尚三の妻は、十五年前、結婚して一年で、当時一歳の娘を連れて家を飛び出し、以来旧姓の木村と名乗って生活してらっしゃいました。ですから、制式には西村の姓です。その真由美さんは去年病気で亡くなりましたので、受け取りは亜衣さん、ということに」
「離婚してないところが、いかにもずる賢いわ」
と、坂田婦人。亭主は「よさないか」と制する。
そして僕は、その説明で不審な点に気づき、亭主に質した。
「十五年前の当時、一歳の娘さんですか?」
西村尚三が坂田夫妻の一世代上の人物なら、おそらく現在亡くなったのが七十後半。ならば十五年前に一歳の子供を儲けていたとすれば、高齢にしてかなり頑張ったことになる。それに、結婚暦一年というのが、妙に引っ掛かる。
亭主は頷き、説明した。
「西村尚三という人物は、五十五歳になるまで独身の身でした。ところが、突然ある若い女性と関係を持ったことから、彼女との間に子供を持つこととなり、結婚したのです。その女性が真由美さんで、当時二十歳でした」
「どうせ叔父様の遺産狙いだったのよ」
と、また婦人が愚痴る。
「失礼、先ほどからあなた達の話を聞いていると、その西村尚三という人物はかなりの資産家だと思われますが、遺産は、どのくらいなのです?」
オヤジは亭主に訊いた。
「我々も全てを把握しているわけではないのですが、分かっているだけでも五十億。全てを合せると百億を超えると言われています」
『百億!?』
僕とオヤジは同時に叫んだ。思わず気絶しそうになる金額だ。
僕はその尚三さんが何をしていたのか気になったが、オヤジが先に口を開く。
「まあ……大体の用件は分かりました。察するに、その娘の亜衣さんとの連絡が取れないでいるのですね?」
「はい、そういうことです。西村の遺書には、遺産は自分の妻と娘に全てを与える、と書かれていましたが、金額があまりに大きいため、行政的に他の親族にも分担するのが適当と、弁護士の方も言っておられました。だからこのことは、亜衣さんに知らせておく義務があるのです」
弁護士まで雇ってご苦労なことだ、僕は思った。
「分かりました。亜衣さんの消息を掴み、そちらに知らせればよいのですね」
「はい。受けていただけますか?」
「いいでしょう。さっそく明日から取りかかります」
「ありがとうございました。報酬額は、そちらにお任せします」
「はい。では今日は引き取っていただいてけっこうです、亜衣さんを見つけ次第、連絡をします」
「ええ。それでは」
言い終わると、坂田夫婦は礼を言ってマンションを去って行った。
「オヤジ、なんで尚三さんの職業を訊いておかなかったんだよ」
僕はマイルドセブンに火をつけて言った。
オヤジもキャメルに火をつけ、まれに見る渋い顔で独り言のように告げた。
「西村尚三という名前……昔どこかで聞いたことがある」
「マジか!?」
「マジだ。しかし確証がない、まずはそこから調べるべきだ。この失踪依頼、絶対何かウラがある」
「………」
僕は思わず固唾を呑んだ。
そして、オヤジは真剣な顔で僕を見て、告げる。
「亮」
「はい?」
「今何時だ?」
「……六時半、午後の」
「まずい!」
「何が?」
「あと一時間で涼子ちゃんが来る!」
「…………」
僕は自分で自分の顔から表情が抜けていくのを感じた。
煙草を灰皿に押し付け、立ち上がって、一人呟く。
「シャワー浴びてくる」