下
翌日からも、メアリーの私に対する振る舞いは何ら変わるところはなかった。私の苦悩など、どこ吹く風といった具合である。しかし、私もこの女のことはよく分かり始めていた。メアリーは、相手の深層心理まで見抜くような見事な洞察眼を持っていたのだ。それはもって生まれた人徳であるのか、小間使いという仕事のためか定かではないが、相手の言った一から、十を知るといった気質の持ち主であることは確かである。事実、メアリーは私が説明するより以前から、『彼女』の存在を察知していたようだった。とするならば、私の心中だって察しているのではないだろうか。
私にはいよいよ分からなくなってきた。ならば、どうしてメアリーはわざわざ、私の中から『彼女』を抹消するような行為を行うのか。花を買ってきて部屋の印象を変えたりしたのも、その一端なのかもしれない。当てつけているのではあるまいか。
私は、赤レンガが映える小さな通りを、当てもなく歩いていた。人の気配もあまりないこの通りは、何か考え事をするには、うってつけの場所であった。そこからは、メアリーを雇うことを決めたあの小間使い協会も近かった。私はよっぽど、メアリーの解雇処分の申請をしてやろうかと思ったりしたが、結局それはしなかった。彼女を解雇する正当な理由がないこともあったが、何より、私の思い過ごしかもしれないという疑いが、私自身の中に存在したからだ。
私の中の、『彼女』への思いが強すぎるために、メアリーの行動に過剰に反応しているだけなのかもしれない。私が勘ぐり過ぎているかもしれないということだ。例えば、メアリーを雇った初日の夕食はどうか。あの白身魚のムニエルも、メアリーの恣意的な行為だとでも言うのか。私の心中に隠していた、(『彼女』の)ムニエルを食べたいという欲求を見抜き、私から『彼女』を消し去るために白身魚と小麦粉とバターを買ってきたと?
そんな馬鹿な話はあるまい。被害妄想もいいところだ。私が神経質過ぎるのだろう。そう思ったから、私は小間使いの協会の扉をくぐることはなかった。
そういえば、以前『彼女』にも指摘されたことがあったかもしれない。私への不満として、少し神経質すぎるとか、そういった旨のことをだ。そう考えると、私の気もすこしは楽になった。
ふと、通りに見慣れた顔がいることに気がついた。言うまでもなく、メアリーであった。食材の買出しにきているのだろうか。だが、この通りには目立った商店はないはずだったが。
彼女は、通りのショーウインドを食い入るようにして見ており、私の視線に気付く様子はなかった。私が近付いて声をかけると、びっくりしたように肩を上げ、振り向いた。
メアリーが立ち止まっていたのは、雑貨屋だった。それも、立ち止まってよく見ないと気付かないで通り過ぎてしまうのではないかと思うほど、小ぢんまりとした店構えだった。この町での暮らしが長い私自身、ここにこんな店があったことは知らなかった。ショーウインドも、言われて分かるという具合で、窓の傍に物が雑然と並べられているだけである。
メアリーが振り向いて初めて気付いたのだが、彼女はもう夕食の買出しを完了させていたらしく、両手に買い物袋を持っていた。
「今から、お帰りですか?」
不意を突かれたことに驚いたからか、メアリーは何かを誤魔化すような口振りで話し、何も言っていないのに、すたすたと歩き始めてしまった。私は、引き剥がされるようにその雑貨屋から立ち去った。
「ほら、よこして」
メアリーに追いついた私は、そういってメアリーの両手から荷物を受け取ろうとした。メアリーはとんでもないという風に首を振ったが、私も負けじと首を振る。
「持たせてくれよ。貴方にだけ持たせて、並んで歩くというのは、なんとも見てくれが悪いじゃないか」
私が食い下がると、メアリーも仕方ないというように、荷物の半分を私に手渡した。潮風が吹き込む通りを、荷物を持った二人が並んで歩く。その通りを抜けると、町の外に出る。そこからは道路も舗装されておらず、乾いた砂地に所々草が生えた平地が広がっている。私の家は、そこから坂道を登った、丘の上に建っている。坂はそれほど急ではないのだが、荷物を持っているせいか今日はやけに辛く感じてしまった。メアリーはいつも、これを両手に持って登っているというのだから、私にしてみればなんとも情けない話である。
「何か欲しい物が?」
ひっきりなしに吹いてくる潮風のために、草木の育ちがあまりよくない坂道を登りながら、私はメアリーの方を向かずに聞いた。メアリーも一瞬、自分に聞かれているのか分からなかったようで、怪訝そうな顔を浮かべた。私は首だけ彼女のほうに向け、続けた。
「雑貨屋に居たじゃないか。何か欲しい物があるんじゃないのか?」
あ、はあ、とばつが悪そうに少し笑い、メアリーは歩みを若干早めた。
「その、大したものではないのですが、きれいなバスケットがあったので」
「バスケット?」私は目を丸くしてメアリーを見返した。「欲がないというか、物好きだね」
「そうですか?」
小さな丘を登りきり、自宅の門扉を開ける。そのまま家のドアまで歩き、取っ手に手をかけようとして、私はふと、足を止めた。踵を返し、門扉の前の郵便受けを開ける。
手紙が入っていた。見覚えのある便箋。私が送った手紙だった。また返ってきている。私の背後で、メアリーが立ち尽くしている。先に入ってくれと言って、私は再び手元の手紙を凝視した。
「行ってみませんか?」
突然声を掛けられて、私は背後を振り向いた。メアリーは、その場を動かずにこちらを見ていた。
「行くって?」
「理由があるはずです。だから、行ってみましょう」
恐ろしい事を言う女だと、私は身がすくんだ。自分が言っていることの意味をわかっているのか。
「行くって……行ってどうするんだね」
「わからないじゃないですか」
声に出して言われると、これほど大変なことであるとは思わなかった。私は、家のドアを開け、中に入った。行って何をするのだ。確かめる?何を?私は確かめることなど何も無い。私は『彼女』を信じている。それだけで十分ではないか。疑惑など生まれいずるわけもない。疑っているのはメアリーの方であろう。行けないのではない。行く必要などないのだ。
だが、言葉の力は強い。メアリーに真っ向から言われると、私の心内が大きく揺らいだ。確かめに行ったって、本当は何の問題もないはずなのだ。疑うべきことなどなにもない。メアリーだって、『彼女』に直に会えばそれが分かろうというものだ。ならば行けばよいのか、この住所へ?行って呼び鈴を鳴らせというのか?誰が出てくると思う?
私は居間に入り、テーブルの上に買ってきた食材の袋を置いた。後ろから、メアリーが追って入ってくる。何か言いたげだったが、私の顔を見るや、それをぐっと押さえ込んで、夕食の支度に取り掛かった。私は安楽椅子に寄りかかり、天井を見上げて、目を閉じた。
買って来るのもいいかもしれない。どのみち、そう大したものではなかろう。
ある日、私は出し抜けにそう思い立ち、朝早くから家を出た。いつも散歩に出る時間よりも、三時間近く早い。善は急げとばかりに、町の中に入っていく。
一旦思いついた事を、こんなに早く行動に移すのは久しぶりな気がした。奇妙な言い方かもしれないが、久しぶりに激しい運動をしたときの、あの高揚感にどこか似ている気がする。私の一段と早い散歩は、ものの三十分ほどで終了した。
家で、洗濯物を干していたメアリーは、私が手に持っているものを見て、びっくりしたようだった。
「まあ!そんなわざわざ……」
「なに、気にしなくていいさ。私もこれを気に入っただけからね」
そう言って、私はそれをテーブルの上に置いた。
「物は相談なのだが、どうだろう。今日は外で昼食を食べないか。サンドイッチでも作って、持って行くんだ」
メアリーは目を丸くして私を見返した。私の申し出が、そんなに珍しかったのだろうか。確かに、私はあまりこういうことを言い出す気質ではなかったが、絶句するほど驚かれるとは、心外である。
メアリーは、家の掃除が出来なくなることを心配していたが、私は笑って手を振った。一日くらい掃除をしなかったからといって、そう大した違いはあるまい。元々きれいに使っているのだから、心配ないと言ってやったら、メアリーは少し無念そうにうなずいたのだった。女中としての義務感、というよりは、メアリー自身が、毎日欠かさず行っている掃除をやらないことに、気持ち悪い心地を味わっているようだった。つくづくメイドの鑑のような女である。仕事をしなくてよいと雇い主から言われたのだから、小躍りして喜んだっていいようなものを。
メアリーは洗濯を早々に片付け、昼前には支度を終えた。私は別に用意することはなかったので、準備が出来次第、家を出た。外は、もう見飽きたというほどに、青い空が広がっている。毎日見ていて、うんざりするような快晴だったが、この日は何故か、それほど悪い気はしなかった。メアリーは、二人分のサンドイッチとティーセットを、私が買ってきたバスケットに入れ、両手で仰々しく持って後ろから付いてきた。
私達は町に下り、大通りを横切って、駅に入った。二人分の切符を買い、改札を通り抜ける。時間帯が時間帯ということもあり、ホームには人影がなかった。しばししてやってきた列車の中も、同様だった。
私とメアリーは、列車の中の椅子に、並んで座った。まもなく列車が走り始め、窓から見える景色が動き出す。この町は田舎なので、一つ隣の駅にいくだけでも、随分な時間がかかる。二十分近く搭乗して、やっと隣の駅に着いたのだった。
私とメアリーが降りたその駅は、私が暮らす町よりも更に田舎の町だった。町というよりは、漁村といった方が的確な表現である。とはいえ、私はこのようなさびれた田舎町に用があるわけではない。私はメアリーを連れて、その町を出た。
更に田舎というだけあって、少し歩くだけで町はすぐに途切れた。そこからは何の舗装もされていない道が続く。私が住んでいる町や、ここに限らず、海に面している場所はどこでもそうなのだろう。海から吹いてくる潮風の塩分、または、風に舞い上げられた海水がかかるため、草木の数は多くなかった。生えたとしても、大きくなる前に枯れてしまう。だから、草といっても膝から下ほどの高さしかなく、木に至っては細くて今にも折れそうなものばかりだった。実際、海岸線は植物にとっては過酷な環境なのだろう。コケなどの藻類は、岩にびっしりと生えているのだが。
私はメアリーの方に向き直り、前方にそびえる小高い丘を指差した。それは、私の家がある丘などとは比べ物にならないほどの、立派で高いものだった。私は昔、あれを登ったことがあったが、確かに難儀な道のりなのである。私は時折、メアリーの持つバスケットを代わりに持ってやったりしながら、もはや道とは言えないような急斜面を、登っていった。
とはいえ、それほど大した時間はかからなかった。全身が少し汗ばむといった程度で、汗を拭くタオルが必要になることもなかった。一際急な斜面(それはもはや、崖と呼んでも差し支えなかった)を登り切ったメアリーは、突然開けた視界に、目を輝かせた。丘の頂上に出たのである。
そこは、一面が緑に覆いつくされた、草原であった。そこだけ区切られた別世界のようである。メアリーは子供のように笑って、草の上を歩き始めた。
前述の通り、ここは海から吹く潮風の塩分のせいで、草木にとっては過酷な環境である。しかし、この丘ほどの高い場所までには、潮風の塩分も、巻き上げられた海水も届かないようなのだ。水平線を望むと、下から乾いた風が吹き上がり、心地よく体温を奪っていく。上からはさんさんと太陽が照らしている。海の近くだから雨も多く、草木が生えるには絶交の場所なのである。高度が異なるだけで、ここまで違うものかと驚嘆してしまうほどだ。この地方は自然が豊かな方ではあるのだが、こうした草原はなかなか見つからない。私はバスケットを抱えながら遅れて、やっとこさ、草原まで登り切った。
「すごい。こんな場所があったなんて」
「私が小さい頃からここはあってね。友達とよく来たんだ。秘密基地みたいにしていたな」
私はそう言いながら、草原の真ん中あたりの草を、ぐるぐる回って踏みならし始めた。メアリーも私の後を追って、少し楽しそうにがしがしと草を踏んでいく。一通り平坦になったところで、持ってきたバスケットから大振りの敷物を取り出した。広げ、敷いた四方に石を置いて飛ばないようにしたら、準備は万端だ。
私とメアリーは腰を下ろし、バスケットを広げた。私はサンドイッチを取り出し、メアリーは紅茶を注ぐ。
「私も長いこと、この仕事をしていますが……」
私から渡されたサンドイッチを片手に、紅茶をすすりながらメアリーが言った。
「こんな食事は初めてですわ。雇い主とピクニックをするなんて」
「今まではどんな雇い主がいたんだい?」
サンドイッチを頬ばりながら聞く私に、彼女はくすくす笑いながら答え始めた。
この時気付いたのだが、私はメアリーの過去というものを全く知らなかった。聞こうとしたこともなかったのだ。メアリーに対して、こうした質問をするのは、初めてだった。『彼女』以外の他人に関心を持ったのは久しぶりのことだったかもしれない。
敷物の周りには、腰くらいの高さまで伸びた草で覆い尽くされていた。敷物の上に座っていると、視界のほとんどが緑に埋め尽くされる。下には草の緑、上には空の青。こうした景色は、長らく見ていなかった。海を見ているだけよりも、よっぽど美しく感じる。
メアリーは、自分の事を聞かれるのが嬉しいようで、過去の雇い主について、時には皮肉げに、時には楽しそうに、語って聞かせてくれた。私が思っていた以上に、メアリーの職業歴は長かったようで、帰る頃にはすっかり陽も西に傾き始めていた。
帰りの列車に乗り、家のある町に戻ってくる頃には、すっかり空は赤色に染まっていた。私たちはその足で夕食の買出しに行き、こないだと同じように荷物を分担して持って、家路に着いた。
町を出る手前、つまり道路の舗装が無くなる地点よりすこし手前で、私はふと足を止めた。通りの片隅に、花屋があった。先日の雑貨屋といい、長く住んでいたこの町でも、私が気付かなかった店は結構あるものだ。いや、今まで気付こうともしなかったのか?
私はその花屋の方を向き、荷物を持っていない方の手を挙げた。本当は指を指したかったのだが、そちらの手にはバスケットをぶら下げていたため、そのバスケットを揺らして対象を指し示すことになった。後ろを歩いていたメアリーが、あ、と声を出して私の指した方向を見やる。
「このお店で買ったんですよ」
彼女はそう言って、店のほうに歩み寄る。店頭に、白い花が飾られていた。なんという名前かは、知らない。まるで興味がなかったし、『彼女』も花には興味が無かったから、知る必要性がなかったのだ。だがそれは、以前メアリーが買ってきて飾ったあの白い花であったので、そういう意味では私の「知っている」花であった。
「それ、なんていう花?」
ふと、名前くらいは知ってもいいかもしれないと思った。今までは知ろうともしなかった、気付こうともしなかったその花が、やけに美しく見えた。名前くらいは知ってもいいかもしれない。
メアリーにとっても、私のその言葉は意外だったのだろうか。驚いたように振り向き、私の顔を見上げる。私は何だか照れくさいような、ばつが悪いような心地で、肩をすくめた。
「もう、家のはしおれちゃったからね。また、買いなおそうか」
そう言うと、メアリーは何故か安心したように笑った。
ここまでお読みいただきまして、本当にありがとうございました。大きな山場も何もない物語ですが、それでも読み終わった後、何かしら感じ取っていただけたら幸いです。




