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 メアリーを雇ってから、早一ヶ月が過ぎた。

 このぐらいになると、私もこの女中の人格というものが、はっきりとした形で掴むことが出来るようになった。彼女は常識をわきまえ、分別を知った女性である。それは初めて彼女が訪れた時から、変わらず私の受ける印象としてあった。礼儀もしっかりと押さえているし、彼女と接して、私が不快に感じたことは一度だって無かった。そうした点では、メアリーは小間使いの鏡とも言うべき、筋金入りのメイドであると言えるだろう。

 しかし、それだけではメアリーという女を語る上ではいささか不足である。彼女は、基本として礼儀正しい、清楚な性格だが、その一方で、どこか大胆なところがあった。例えば、夕食の用意をするために、食材の買出しに行った時のことだ。私が金をメアリーに渡し、彼女はそれで食材を購入してくるわけだが、ときたま、買って帰ってきてから、余分に金を要求することがあった。つまり、代金が足りないというのだ。余分に買ってきたのか、品質の良い食材を選んだからかは分からないが、私が予め渡した予算より過剰に購入してくる時があった。足りない分は、メアリー自身のポケットマネーで立て替えたという。なるほど、買って来たものと、メアリーが店に頼んで書いてもらった領収書を見る限り、確かに足りないのだ。普通、渡した料金内で買ってくるのが当然だと思うのだが、メアリーは平然と、足りない分を要求してきた。私としても、時にはそういったこともあるだろうし、足りないといっても微々たる誤差であったから、まあよかろうと払ってはいたが、あの礼儀正しいメアリーが、当然のように金を要求してくるということに、少なからず驚きを禁じえなかった。彼女に直接聞いたわけではないが、不足分の要求といったことは、小間使いの仕事では日常的に行われていることなのかもしれない。とはいえ、私はそれに驚いたというか、たじろいだのは事実だ。

 そういうわけで、根は意外と図太い、というのが、私によるメアリーの人物評だった。とはいっても、それは不快を感じるというものではなく、かわいいと感じる次元のものであったが。

 前述の通り、この女中を雇ってから一ヶ月が過ぎた。つまり、メアリーへの給料を払う時期になったということだ。私は普段使わないような封筒を用意し、中に一ヶ月の給料を入れて、寝室のテーブルに添えておいた。

 午前中の仕事を一通り終え、昼食のパスタを食卓に並べたメアリーに、私は機を見て、その封筒を手渡す。

「今日で一ヶ月だね。これ、お給料。お疲れ様」

 不意を突かれたように目を丸くしたところを見ると、どうも今日が給料日であるということを意識していなかったらしい。まあまあ、どうもと言いながら、封筒を受け取ったメアリーは目に見えて嬉しそうであった。考えてみればそれもそうだろう。住み込みで、食事と風呂が付いているこの生活では、支出は全く無いに等しい。給料は丸々、好きなことに使えるはずだ。そうすると、この安月給でも、なかなかの贅沢ができるかもしれない。メアリーの喜びようはもっともだろう。

 メアリーはすぐに、午後から暇が欲しいと言い出した。もちろん、いつもの通りの仕事をこなしてからだが、終わってから夕食の準備をする夕方まで、自由時間を欲しいというのだ。早速、何か買いたいものでもあるのだろうか。礼儀をわきまえているが、言いたいこと、要求することははっきりと言うのが、彼女の性分である。私としても、このように気兼ねなく言ってくれる方が助かった。私は快く承諾した。メアリーは嬉しそうに笑って、パスタをすすった。

 宣言どおり、メアリーは午後三時過ぎに暇を貰った。いつもより一段とはりきって仕事を片付けたらしい。傍目で見ていても、いつもは「よっこいしょ」といいながら腰を曲げて洗濯物を取り込んでいたが、今日はそんな悠長なことをせず、次々と竿から衣類を外していた。余りに急いでいたため、若干湿っているシャツもあったが、私は何も言わないことにした。給料をもらったことを素直に喜んで、その使い道にうきうきしているメアリーの姿を見ていると、とても言えたものではなかったのだ。契約上は当たり前のことなのだが、私は給料を与えたことが、何か彼女に特別な良い事をしてあげたような心地になった。

 メアリーは、花を買って来た。私はもっと、服とか装飾品とか、自分のためになるような物を買ってくると思っていたので、メアリーが私に気を遣っているのではないかと思ったが、そうではなかった。メアリーは純粋に花を買いたくて買ったらしかった。それに、花くらいで給料全てが無くなったわけでもないので、私も気を揉むのは止めることにした。

 それが何という名前の花なのか、不勉強な私にはとんと見当もつかなかったが、白くてきれいな花であった。メアリーはその花を五、六輪買ってきていたが、それらを二つに分けてガラスの花瓶に入れると、それぞれ居間と、食事をするキッチン傍のテーブルに置いた。たったそれだけのことだが、部屋の印象はがらりと変わった。白色が映えるということも加え、その花から放たれる香りが、部屋を通る風に乗って部屋中を駆け巡るのが大きかった。匂いが違うだけで、そこが別の空間になったように感じるのだから不思議だ。

 メアリーは、居間の窓から入ってくる潮風に揺れる花を見て、満足そうにしていた。だが私は、表面には出さなかったが、その変化に少なからず抵抗を覚えてしまった。私の家が……『彼女』と一緒に暮らした、思い出の家が……何か別のものに変えられてしまったように感じたのだ。傍から見れば、それはつまらないことのように見えるかもしれないが、私にしてみれば切実な事柄であった。思えば、この家に花が飾られたということ自体、初めてのことだったかもしれない。というのも、私も『彼女』も、花には全く興味がなかったからだ。だから、気まぐれにでも、花屋に立ち寄ろうかといったことはなかったのである。実際、こうしてまじまじと花を眺めるのも、久しぶりだった。幼い頃、学校の授業で花の写生をした時以来かもしれない。そんな私にとっては、この家に花が飾られているということは、極めて非日常的な出来事であり、異質なことであると言ってよいだろう。私が本能的に抵抗を覚えたのは、そういうわけだった。

 とはいえ、私はそのことを取り立てて言うつもりはなかった。メアリーは純粋な好意で花を買ってきてくれたのだから、当然のことだ。それに、せいぜい一週間もすれば、花はしおれて、その芳しい香りを放つこともなくなるだろう。一時的な気分転換と考えれば、これも悪くなかった。

 花の飾り付けを終え、満足そうに笑んでいたメアリーは、ふと思い出したように懐から一通の手紙を取り出して、私に突き出した。私は、その瞬間凍りついた。

「郵便受けに入っていました。返送されてしまっているようですけど?」

それは、私が毎月欠かさず出している『彼女』へ宛てた手紙だった。その手紙は今月も、『彼女』には届かずに私の元に舞い戻ってきたというわけだった。

「やあ、ありがとう」

私は、極力動揺を表に出さないよう努めながら、メアリーが差し出した便箋を受け取る。メアリーは、眉をひそめて私を眺めた。おかしいと思わないはずがなかろう。手紙が返送されてきているのに、それを承知していたかのように受け取った私の反応は、いかにも、怪しげだったはずだ。メアリーは何も言わずに私の方を見ている。主の内情に、あれこれと口を出すのは、小間使いの仕事の範疇を逸脱していると考えたのだろう。しかし逆を言えば、私の方から説明を始めるのを待っているとも取れるのではないか。現にメアリーは今、私から目を離さずに立ち尽くしているのだ。

 私は手元の便箋を見つめながら、意を決した。考えてみれば、それは別段、特別に決心を必要とするような事柄ではなかったのだが、この時の私には、何かから踏ん切りをつける必要があった。それが何かは、よく分からなかったが。

 私は、眼前に立つメアリーに、テーブルの椅子を勧めた。

「まあ座って。といっても、それほど長い話をするわけではないけれど」

それは、メアリーに話しても何ら差し障りのないことであった。いや、いずれメアリーには『彼女』のことを紹介してあげなくてはいけなかったのだ。そう考えれば、これは絶好の機会というものだろう。

「この手紙の宛名を見たかい?いや、何も言わなくてもいいさ。たとえ見たとしても、そんな事を明言することなんてできないよな。いや、そう複雑な話ではないよ。この宛名に書かれた女性は、私の『彼女』なんだ」

「まあ、彼女ですか」

メアリーは驚いた声をあげたが、本気で驚いているようには見えなかった。どうも、メアリーはそういった隠し事を見抜く才能も持ち合わせているようで、既に『彼女』のことは察知していたのかもしれない。

「この家も『彼女』がここから見える景色を気に入ったから購入したものでね。あまり綺麗ではないし、新築でもないけど、『彼女』が良いと言うのならば、それも良いかと思ったんだ」

「その『彼女』は、今?」

「うん、ある日突然、大学に入りなおしたいと言い出してね……『彼女』は、いつも突然思い立つんだが……隣町にある大きな大学に、入学すると言うんだ。もちろん、突然そう言われても、学費をすぐに用意できるわけではない。だけど、私には結構な蓄えがあった。『彼女』と築く未来のための、軍資金だよ。『彼女』の入学金は、そこから出すことにした。『彼女』は一旦言い出したら、その意思を曲げない性分でね。言っても聞かないのだから、せめて出来るだけ支援してやろう、というわけさ。そういうわけで、『彼女』は今、隣町……といっても、結構な距離はあるが……で暮らしながら、大学に通っているんだ」

 私の説明を一通り聞き、それを理解したらしいメアリーは、向かいに座る私の手元にある、手紙に視線を落とした。彼女が何を考えているのか、私は言い当てる自信があった。それも確固たる自信だ。メアリーは、『それでも、手紙が返送されているじゃありませんか』と言いたくて仕方ないのだろう。『彼女』が、行方を眩ましていると思っている。そう、この話を聞いただけなら、誰しもそう思うだろう。しかし私は、『彼女』がそんな事をする人間ではないということを、よく知っている。『彼女』と会って話をすれば、メアリーにだってそれが分かるはずだ。メアリーは口を開かない。自分が今、思っていることを口にしたら、私が気分を害するだろうと気遣っているのだ。だが、私も馬鹿ではない。自分を客観的に見ることもできる。だから私は、メアリーの心配りだけを受け取って、そのまま会話を打ち切った。




 正直なことを言わせてもらうと、私の一日の動きについては、これといって特筆することはない。毎日、目的地もなく散歩したり、居間から潮風を浴びながら海を眺めたり、読み古した本を引っ張り出してきたり、そんなことの繰り返しで、さながら隠居に入った老人といったところなのである。

 そんな状態なので、私は、半ば不可効力的に、メアリーの仕事振りを観察している時間が長くなった。もっとも身近にあるもので、もっとも飽きずに見ていられるのは、メアリーの見事な仕事さばきだけだったのである。

 既に述べたことだが、メアリーの作る食事は秀逸だった。私は毎食、大いに満足したし、飽きることもなかった。初日のムニエルには驚いたが、あれからもメアリーの作るメニューの中には、よく『彼女』が作ってくれたものがあった。私はそれをとても美味しいと感じたし、満足もした。もちろん、その一方で、やはり『彼女』の作ってくれる料理を食べたいとも思っていた。どちらが美味いということではない。ひょっとしたら、メアリーの料理の方が美味いかもしれない。だが、私は『彼女』の作ってくれるあの味を忘れられなかったのである。

 ある日、メアリーが再び午後から暇をもらいたいと言い出してきた。まだこないだの給料が残っているらしい。何か買い物に行きたいということだった。ちゃんと仕事はこなしてくれるのだから、文句があろうはずもない。私はすぐに了承した。

 こないだは、花を買ってきてくれたが、今度は何を買ってくるのだろうか。私は読みかけの本を出し、居間でくつろぎながら、メアリーの帰宅を待つことにした。

 前回よりも買い物に時間がかかったらしく、メアリーが帰宅してきたのは日没間際であった。彼女は、家に着くなり買ってきたものを自分の部屋に投げ込み、すぐに夕食の買出しに出て行った。一体何を買ってきたのか、私はすこし気になったが、放って置くことにした。

 メアリーは買出しから帰ってくると、いつものように夕食の準備を始めた。私は、何を買ってきたのか聞こうかと思ったが、何故か切り出せなかった。

 夕食を済ませ、風呂の用意が出来ると、メアリーはそそくさと自室に籠もってしまった。買ってきたものが気になるのだろうと思って、私は先に風呂に入らせてもらうことにした。

 風呂から上がってきても、メアリーは自室から出てこなかった。その上、部屋の中からは騒々しい物音が響いている。ゴトゴトと、タンスや本棚のような大きな家具を動かしているような音だ。この家は丘の上にぽつんと建っているだけなので、近所のことなど気にしなくて良いわけだが、だからといって夜分に騒音を出してもよいということにはならない。そういう大きな仕事は、明日の日中にでもしてもらいたいところだ。私はまだ濡れている自分の頭をタオルで拭きながら、メアリーの部屋(否、『彼女』の部屋だ)の扉を開けた。その瞬間、私は目を見開いて扉の前で凍り付いてしまった。部屋の中では、信じ難い光景が広がっていたのだ。

 メアリーは、額に汗を浮かべながら、部屋の本棚を動かしていたのだ。既に、机の位置も変わっている。この部屋は、西側に窓が据えられており、その傍にベッドを置いていたのだが、今ではその位置は机が取って代わっている。メアリーは私の視線に気付くと、小さく笑って頭を下げた。

「夜分に騒がしくしてすみません」

『すみません』どころではない。彼女は、自分が何をしているのか分かっているのか。

「何を、しているんだ」

見れば分かることを、私はわざわざ問うた。ショックの余り、私の拳はいつの間にか固く握り締められていた。

「本を、買ってきたんです」

メアリーはうきうきとした様子で机の上に置かれた書籍を指した。

「早速読もうと思ったんですが、今夜は暑いので、できれば窓のそばで読みたいと思ったんです。何もこんな時間にやるなとお思いでしょう。申し訳ございません。なんていうか、性分なんですわ。一度気になったことがあると、それを片付けなくては気が済まないのです。お騒がせして本当にすみません。もう終わりますから」

 もはや私には、メアリーの弁解の言葉など聞こえていなかった。頭を押さえ、よろよろと居間のほうに戻ると、安楽椅子にどっかと崩れ込んだ。しばし、言いようのない失望感に頭を殴られたような衝撃を受けた。『彼女』の部屋が崩された。その失望感であろう。確かに『部屋を自由に使っていい』とメアリーに言った覚えがある。家具の位置を変えることを禁止した覚えもない。そのことでメアリーに咎があろうはずもないのだ。何より、家具の位置を戻そうと思えば、すぐにでも戻すことだってできるのだ。

 だが、それでも私はしばらく、真剣にメアリーを解雇することを考えてしまった。そういう問題ではないのだ。『彼女』の領域に、他人が土足で上がりこんで壊してしまった。そして私はそれを目の前で見せ付けられた。それが問題なのだ。あの部屋は、メアリーにとっては自分の部屋なのかもしれないが、私にとっては『彼女』の部屋なのだ。私が、一体何を思ってあの部屋を当時のまま保存し続けていると思っているのか。

 私は同時に、メアリーの図太さというか、大胆な行動力に舌を巻いてもいた。まさか、思い立った瞬間にそれを実行するとは。それも、私に一言も断りを入れることもなく、だ。そう考えると、私の中でまたむくむくと、怒りが頭をもたげて来た。私は過去、メアリーに『彼女』のことを説明したはずだ。あの部屋が『彼女』のものであるということも、メアリーは知っていたはずである。ならば、私があの部屋を完全な形で保存していた理由も、おのずと知れるはずではないか。メアリーは、それを知っての上で、あのような暴挙に出たということなのか。彼女は、これが私にどれほど深刻な影響を与えるかを分かっていて行ったとでも?

 私は、安楽椅子の上で大きく息を吐き、まだ頭の上に掛かっていたタオルをずり下ろすと、ふと窓の傍の花瓶に目をやった。窓際に飾っていた白い花は、早くもしおれてきていた。潮風を一日中浴びているせいだ。風の中に含まれる塩分のせいで、傷むのが早いのだ。

 私はおもむろに立ち上がると、その花瓶を手に取り、居間の窓を開けた。私はしばしの間、外から吹き込む風に揺れる花を眺めていたが、それを持つ手に力を込めると、一息に、花瓶の中身を外にぶちまけた。中の水と共に、しおれた白い花が暗闇の中に消えていった。


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