上
私は、小間使いを雇うことにしたのだ。
現在、仕事をしていない私にとって、それは無駄とも言えるような贅沢な金の使い方ではあったけれど、生憎、私には若干の蓄えがあった。そう、『彼女』との未来のために積み立ててきた財産だ。
もちろん、それでも削れるところは削るようにして生活してきた。私は浪費家ではないし、酔狂に金をばら撒くような貴族趣味も持ち合わせていない。ただ、この家は……『彼女』が気に入ってくれた、海を望むこの家は……一人で住むにはいささか広すぎた。私自身が不器用だということもあろうが(『彼女』はよくそんな私を笑っていた)、掃除するだけで、半日以上を費やしてしまうのだ。家事全般とは言わなくとも、掃除、あと食事くらいは手伝いが欲しかった。特に、食事については切実だった。私は、料理というものがまるで出来ないのだ。キッチンには、『彼女』が愛用していた料理器具が整然と並んでいたが、私はそれらの名前を全て言い当てることも出来ない。
まあ、とにかく、そうした理由で、私は小間使いを……つまるところメイドを……雇うことにしたのだ。
私は、街に行って、小間使いの協会(まあ、ギルドのようなものだ)へと足を運んだ。小間使いといっても、給料などは雇う側との交渉次第で高くも安くもなるらしい。私は、極力、給料が安くて済むような人間を選ぶようにした。
メアリー。
私が、雇うことに決めた小間使いは、そんな名前であった。何故姓が無いのか。私は窓口に立った協会の男に聞いた。男曰く、メアリーは戦災孤児だったそうなのだ。孤児院育ちなのである。そのため、姓を持っていない。施設を出て、小間使いとして働くようになったということだが、つまり、メアリーには帰るべき家がないということである。雇う以上、メアリーは住み込みで働くことになるそうだ。もちろん、食費などもこちらが負担しなくてはならない。メアリーの給料が、群を抜いて安いのは、そうした理由からであった。
私は、若干悩んだけれども、結局メアリーを雇うことに承諾した。家事をしてくれるだけなら、給料は安いに越したことはないし、食費だって、一人が二人になるくらい、大した違いは無かろうと考えたのだ。それに、あの家は……『彼女』がよく、海を眺めながらうたた寝していたあの家は……一人で住むにはいささか広すぎた。
私は、協会から出ると、街で食料を買い、家路に着いた。レンガ造りの町並み。そこから見上げる空は青く澄み、ウミネコが高い天蓋を飛んでいる。この空を、好ましく思うか好ましく思わないかは個人の自由であろうが、私には、好ましく思われなかった。雲ひとつない蒼穹。そこは、何も無い虚空であった。何も無いということほど、恐ろしいものはない。
小高い坂道を登った先に、私の家はあった。家は丘の上に建っており、そこからは海が、水平線の彼方まで一望できた。何も無い海。日光の照り返しによって、そこに存在していることだけが確認できる海。光の反射がなければ、空との境界が判別できないと思われるほど、そこには何も無かった。虚空と、虚海だ。私も、かつてはこんな景色が好きだった頃もあった。いや、それは多分、『彼女』がこの景色を好きだったからだ。この景色を好きな『彼女』を私が好きだったから、私もこの景色を好きだと錯覚していたのかもしれない。
家の前に作った、申し訳程度の門扉を開け、隣の郵便受けを探る。また、私の送った手紙が送り返されていた。これを確認するのは、もはや私の日課となっていた。宛名と住所が食い違う時、往々にして、その手紙は送り主に送り返されてくる。別の国への郵送ならばいざ知らず、隣町程度の距離ならば、返送されてくるのが常だった。
私は手紙を手に取り、自分の筆跡で書かれた宛名を眺める。そこには、『彼女』の名前があった。『彼女』は、私が知っている隣町から引っ越してしまったのだろうか。それでも私は、毎月、決まった日に、『彼女』に手紙を出していた。『彼女』がまだそこに居て、単に受け取りを拒否しているだけだとも思われたからだ。もしそうなら、粘り強く出し続けることで、事態が好転するかもしれない。とはいえ、何故『彼女』が私の手紙を拒否するのかという理由までは、私には見当もつかなかった。心当たりは一切ない。名誉のために言うわけではないが、私は『彼女』に、やましいことなどは何一つないのだ。『彼女』のためなら、何だって犠牲にすることができる。だから私は、『彼女』の言葉を信じて、『彼女』の大学に行きたいという意志を尊重して、『彼女』を送り出したのだ。
私は、手に持った手紙をポケットに突っ込み、家に入っていった。
三日後、家で働いてもらう事になっていた、メアリーがやってきた。私が出ると、メアリーは玄関先で恭しく挨拶をし、にっこりと笑った。孤児院での教育が良かったのか、それともメアリー自身の道徳が高いのか、とにかく、メアリーは礼儀をわきまえ、分別を知った常識的な人であるようだった。実際、私の第一印象は悪くなかった。
私は早速、家の中に通し、間取りと部屋の説明を始めた。メアリーは、非常に要領よく相手の説明を頭に叩き込めるらしく、一度説明したことについては、後から聞きなおすということがなかった。私は素直に感心し、そのことを言うと、メアリーは笑って「職業病ですわ。物心ついたころから、この仕事をしていますから」と答えた。その言葉は、真実だった。事実、彼女の仕事振りは素晴らしかった。手際が良いというのだろうか。私が気がついた頃にはとっくにそれを終わらせているという具合だった。
私は案内の最後に、メアリーが眠るための部屋に、彼女を通した。メアリーは、驚いたように中を眺め、すぐに私の方を見た。彼女が何を言おうとしているのか、私にはすぐに察しがついたので、手を振り、わざわざ部屋を装飾したわけではないことを説明した。
そこは、『彼女』の部屋だった。机、ベッド、『彼女』が好きだった薄い青の壁紙……何もかも、当時のままで保存していた。他に手頃な部屋も無いので、メアリーに使わせようと思ったのだった。
好きに使っていい、と言うと、メアリーは嬉しいような、申し訳ないような表情を浮かべて、「どなたか、ここを使っていらしたんですか?」と聞いた。悪意はないにしろ、私は、メアリーのその物言いに、少なからず反発の念を抱いた。すなわち、「使っていた」と、過去形で話されたことに、抵抗を感じたのだった。だが、私はそれを正面から間違いとして訂正することが出来なかった。『彼女』の名誉のためならば、私はこの時メアリーに撤回を求めて然るべきだったのかもしれない。だが、それも出来なかった。私はそれに、つまり、自分の揺らぎに、内心愕然とした。
結局、私はメアリーの問いには答えずに、居間の方に戻った。メアリーは、何か触れてはいけない話題に触れてしまったのかと心配そうな面持ちで、私の後を追ってきた。私は、テーブルの上に無造作に置かれた財布から札を何枚か取り出し、彼女に手渡しながら、早速だが、夕飯の買出しに行ってくれという旨を伝えた。メアリーはすぐに表情を切り替え、金を受け取ると、元気のよい返事をした。「何か、召し上がりたいものはございますか?」という彼女の問いに、私はしばし沈黙した後、貴方が得意なものを作ってくれ、という曖昧な返答をして、彼女を送り出した。
私は、本当は、小麦粉をつけた白身魚を、バターで炒めたムニエルを食べたかった。だが、ムニエルを作ってくれ、などとは口が裂けても言えないことは、言うまでもない。私は、『彼女』が作るムニエルを食べたいのであって、それは、他の人間が作ったところで代替可能なものではありえないからだ。そんな期待を抱いて、ムニエルをリクエストすることは、『彼女』をも貶めることになりかねないと、私は思った。
しかし、その夜、驚くべきことが起こった。夕食の食卓に並んだ料理に、私は言葉を失った。これは偶然なのだろうか。私は、テーブルの上のムニエルを一口、食べた。何でもいい、と言っておきながら、食べないわけにはいかなかった。バターの香ばしい香りが、淡白な口当たりの白身魚に溶け込んで私の舌をくすぐる。
美味かった。近所のぼったくり気味のレストランなどより、よっぽど上等な味だった。だが、もちろんそれは、『彼女』が作ってくれたムニエルとは異なる味だ。メアリーには悪いが、このムニエルを素直に美味いと認めることが、私にはすこし悔しい気がした。
私は、食卓に並べられた料理が私の分しかないことに眉をひそめ、傍らに立つメアリーを見上げた。私は小間使いの常識というか、慣習を知らなかったが、主人と一緒に物を食べるというのいうことは、ありえない事であるようだった。私は彼女に、今度からは二人分用意しなさいという旨のことを言った。メアリーは少し驚いたようだったが、すぐに小さく笑ってうなずいた。
メアリーが家に来てから、私のすることは無くなってしまった。彼女の仕事振りは驚嘆に値するもので、洗濯、掃除、食事と、何から何までやってもらってしまった。とはいえ、小間使いというのはそういう職業であって、私が驚くということ自体、おかしいことなのかもしれないが。
手に職をつけていないこともあって、私は本当に何もすることがなかった。日中は居間で海を眺めながら安楽椅子を揺らしたり、どこに行くでもなく散歩したりしたが、正直、暇をもてあましていた。私としては、食事や掃除を効率よくこなせれば良いという程度の認識しかなかったが、今にして思えば、巨大な屋敷の掃除を行い、何人も居る上流階級家族の食事と洗濯をする彼女たちにかかれば、こんな小さな家など、物の数ではなかったのだろう。
私は居間の窓を開け放し、そこから望む海を眺めながら、安楽椅子に座って日光を浴びていた。気温は少し暑いが、潮風がひっきりなしに身体に吹きかかり、体温を程よく奪ってくれるおかげで、至って快適であった。前述の通り、青い海も青い空も、私は好きではなかったが、他に見るものも無いので、私は仕方なしに眺めていた。窓からは、洗濯物を竿にかけているメアリーの姿が見て取れた。私の分の衣服と、彼女の衣服。二人分なので、そう大した仕事ではないのだろう。メアリーは「よっこらせ」といった掛け声をつぶやきながら、竿を布地で埋め尽くしていった。
私の視線に気付いたのか、メアリーはこちらを振り返った。にっこりと小さく笑い、最後の洗濯物を手早く干し終えると、こちらに走り寄ってくる。「何かご用件がおありですか?」と問う彼女に、私は手を振って、特に用はないと言ったが、ふと思い立って、発言を訂正した。
「いや、やっぱり頼もうと思う。ところで今夜の夕飯なんだけど、鶏肉を使ったシチューはどうかな?」
メアリーは、私の提案に少し驚いたように、目を瞬いた。彼女が家にきてから約一週間、私は食事の献立については、一切口に出していなかった。メアリーの料理の腕は確かだとうことは自明のことだから、何を出されても私はそれなりに満足だったし、何より、私が本当に食べたいと思っていたものは、『彼女』の料理であったからだ。この日はふと、ミルクをたっぷり使ったシチューを食べたくなったのだ。すこし季節外れのものを、無性に食べたくなる時というのは、誰にでもあることと思うが、まさしくそういった心境だった。だが、メアリーが驚いていたのは、そういうことではなかったようだ。私が提案をしたということや、シチューを所望していること以上に、私が会話を始めようとしている姿勢に驚いていたようだった。今にして思えば、私自身、このようにはっきりとメアリーに言葉をかけたのは初めてだったかもしれない。今までは特にこれといって彼女に声をかけることはなかったし、聞かれれば答えるという程度で、事務的なこと以上のことは口にしなかった。だが、それもおかしなものではないか。契約上とはいえ、共同生活をしているのだから、人間関係は円滑にしておいた方がいいのは当然である。逆に、そこまで驚かれたことの方が、私としては心外である。
「だめかな?ちょっと、シチューというには、今日は暑すぎる気もするが」
私の言葉に、メアリーははっとして、頭を下げた。「いえ、すぐに用意します」とだけ言って、そそくさと彼女は裏手に回っていってしまった。
すぐに用意しろと、頼んだ覚えは無かったが、とにかく、今日は鶏肉のシチューが食べられるというわけだ。もちろん、私が本当に食べたいのは、『彼女』が作ってくれたシチューであるということは言うまでも無い。だが、この日は本当に、純粋にシチューという料理にありつきたいと思っただけなのである。『彼女』の味を忘れたというわけでは決して無いし、メアリーの料理を代用にしようなどとも考えてはいない。メアリーの料理は確かに美味い。それだけなのだ。私がたまたま、気まぐれに献立をリクエストしたことには、それ以上の意味は無かった。
無かったはずである。




